326.居候
アキオと出会ったのは二日前だった。
職場の宝飾店を出て、大事な用件で人と会って遅くなった帰りに、路地で男たちに襲われたのだ。
普段持ち歩いているスタンガンを取り出そうとして、今日の相手に、無粋なものを持ち歩いていると思われたくない、という判断で、家に置いてきたことを思い出した。
大きな男ふたりにかかると、あたしの抵抗などないも同然だ。
ひとりがあたしを羽交い絞めし、もうひとりがバッグの中身を物色する。
男たちは、バッグの次にあたしの身体に目をつけたようだった。
「お前、よく見ると、なかなかいい女じゃねえか」
「あ、ダメ、それはやめて。初めてじゃないとダメなの――」
あたしの言葉の意味など理解しようともせず、男たちは襲いかかる。
路地に押し倒されて、服を脱がされそうになったあたしは、助けを求めて辺りを見回した。
滅多に人が通らない路地だ。
近道だからと、こんな通りを選んだのがあたしの失敗だった。
その時、あたしはビル壁の窪みに光るものを見た。
人の眼だ。
誰かが路地に身を潜めている。
あたしは、押し倒されたまま、その目をじっと見た。
向こうもあたしを見つめ返す。
身体を揺さぶられ、布のちぎれる音が響いた。
なかなか外れないボタンに男が苛立って、服が破られたのだ。
もうダメ――
そう思った瞬間、男ふたりが吹っ飛ぶのが見えた。
壁に叩き付けられる。
男たちは、しばらく壁に張り付いたあとで、ゆっくりと地面に滑り落ちた。
どうしたのかと顔を上げたあたしの前に、小さな影が立っていた。
それは振り向くと、あたしを見下ろした。
影と見えたのは、黒髪、黒い眼の幼い少年だった。
ゆっくりと手を差しだす。
あたしは、服を破られ、むき出しになった胸を片腕で隠し、その手を握った。
強い力で彼はあたしを立たせる。
「あ、ありがとう。助けてくれて」
少年は表情を変えず、黙ってあたしを見た。
それがアキオだった。
ヒビトがシャワーをかかり始めたのを確認して、脱衣所に着替えを置いた。
手早くキッチンで料理を作る。
野菜と肉を使ったスープだ。
蒸したジャガイモをすりつぶし、ペースト状にしたものを、作り置きのコンソメ・スープに入れて、隠し味として、最近手に入れた紹興酒を加えた。
味見をする。
「うん、完璧」
出来映えに納得すると、自分とアキオ用に少し肉を焼き、テーブルに並べた。
扉が開いて、ヒビトが出てきた。
配膳しながら、さりげなく見る。
思ったとおり、ズボンは脛の中ほどまでしかないが、上着は何とか臍が見えないだけの丈はあった。
「ありがとう」
ヒビトが頭を下げる。
「汚れものは」
最後の皿を並べながらあたしは尋ねた。
「濡れたタオルと一緒に籠の中に」
「それでいいわ。さあ座って、スープの――」
あたしの言葉が止まる。
無精髭の無くなったヒビトは、今まであたしが見たことがないほどの美形だったからだ。
「髭を剃ってさっぱりしました」
「え、ええ……さ、座って」
促すとヒビトがテーブルについた。
アキオは、すでに彼の隣に座っている。
「すきっ腹に、いきなりたくさん入れちゃだめだからね。すこしずつ噛んで飲み込むのよ」
あたしが注意すると、ヒビトが笑った。
「なにがおかしいの」
「だって、アカネさんは、まだ若くて、そんなに美人なのに母さんみたいに面倒見がいいから」
「おほめに預かりまして――」
あたしは軽く会釈する。
「あんただって、浮浪者なのに二枚目じゃない。でも顔が良くても駄目なのよ。世の中で何が一番大事か分かる」
「愛情――かな」
「お金よ。お金。お金がない人生ほど悲しいものはないわよ。例えば、ヒビト、あんたは顔はいい。確かにね。でも、文無しのあんたには何の値打ちもないの。泊まるところも、食べるものも、何もないでしょう」
「そ、そうだね」
「さ、話はやめて、食べるわよ――いただきます」
あたしの言葉で、背を真っ直ぐ伸ばしたヒビトが手を合わせた。
やはり、彼は日本人の血を引いているのだ。
「おいしい!」
一口食べて、驚く顔になるヒビトに、あたしは笑顔を向ける。
「当然でしょ。そのひとことをいわせるために、あたしが、どれほど努力をしてきたか――」
「本当においしい」
しみじみとヒビトが繰り返す。
「まあ、みんなで食卓を囲んで温かい食事を食べると、それだけで美味しいものなんだけどね」
木製のスプーンを使って丁寧にスープを飲み続けるヒビトと、黙々と食事するアキオを見ていると、つい顔がほころんで――はっと気づいた。
壁の時計を見る。
「こうしちゃいられないわ」
あたしは、端末を手にして、第二候補に通信をいれた。
もちろん、映像はオフだ。
「静かにしててね」
食事を続けるふたりに声をかける。
相手が出ると、遠慮がちな挨拶から初めて、徐々に相手に自分の存在を思い出してもらう。
軽妙で愉快、かつ慎み深いという曲芸のような会話を続け――
しばらくして、あたしは通信を終えた。
小さく拳を握りしめる。
「やったわ、シンメイ工業の社長にアポが取れた」
笑うあたしを見ても、男ふたりは表情を変えなかった。
「何か月かけてもダメな時もあれば、こんな風にすぐに応じてくれる時もあるのね」
「それは、つまり――」
言いにくそうにヒビトが言う。
会話の内容から、どういったアポイントメントか理解したのだろう。
「顔合わせよ、デートね」
「確か、シンメイの社長はもう50代なんじゃ――」
「歳なんて関係ないのよ」
「奥さんがいるはずだ」
「第二正妻までがね」
「君は愛人になりたいのかい」
「違うわ!お金持ちの正妻になりたいの。まずは第三夫人にね。あたし、絶対にお金が欲しいの」
成熟した文化の成果として、セント・バートルでは、富裕階級にこういった第二、第三夫人が広く求められている。
「もちろん、いつまでも第三夫人に甘んじてはいないわ。すぐに彼の心をつかんで、第一夫人に昇りつめる」
渋い顔をするヒビトに向かって続ける。
「あたしは家柄も学歴もないから、そこで勝負はできない。でも、あたしには研鑽を重ねた料理の腕と気遣いがある。マナーもね」
「そう――かな」
「今のあたしを基準に考えたらダメよ。職場の宝飾店でも、いちばんおしとやかで通ってるんだから」
本当を言うと、もともとは宝石のデザインをしたかったのだ。
でも、洗練された挙措振る舞いを身につける必要があったから、最終的に接客を志望したのだ。
「でも、その――夜の方はどうなんだい。大事だろう」
「それは――これからよ。だって、夫人にしてもらうための条件は、初めての人に限る、なんだから。さあ、はやく食べて――」
アキオはすでに食事を終えていたが、特製スープを半分以上残しているヒビトを急かせて、あたしも、冷めかけた食事の続きをとり始めた。
「さ、寝るわよ」
ふたりの男に食器洗いを手伝わせて素早く終えると、あたしはパンと手を叩いた。
「ヒビト、あんたはソファで寝て。アキオは――いつものようにその辺で」
「これからシャワーを浴びるけど、変な気を起こしたら承知しないわよ」
そういって、あたしは引出しからテーザー銃を取り出して見せる。
翌日、あたしは朝早く目を覚まして、男どもを叩き起こした。
もっとも、アキオはすでに起きて窓から外を眺めていたのだが――この少年はいつ寝ているのかわからない。
ぐっすり寝込んでいるところを見たことがないのだ。
3人そろって、パンで簡単な食事をとる。
「ヒビト、体調は?」
「もうすっかり元通りだよ」
「若いって素晴らしいわね」
青年は笑う。
「君は僕より年下だろう」
ヒビトの軽口は無視する。
「あたしは、これから夕方まで仕事だから、あんたたちふたりは、中央市場に行って買い物をしてきて。今日は水曜ね。いくつか安売りがあるから、買い忘れないでね。何を買うかはメモに書いてあるから」
そういって、籐籠の中に大きな財布とメモ用紙を入れてヒビトに渡す。
「買い物かい。ご婦人たちに交じって?」
「何よ、恥ずかしいの、贅沢いわないの。居候の分際で。食費分は働いてね。アキオだって、ひとりで行ってたんだから」
「わかったよ――」
「服は、昨日着てたのが、洗濯が終わって乾いてるから。それを着てちょうだい――鍵はひとつしかないから、出かけるときは、鍵を掛けて牛乳箱の中に入れておいて」
「ここには、まだ牛乳配達があるのかい」
「あるわけないじゃないの」
あたしは笑った。
某国の、経済攻撃用の細菌兵器によって、30年前から乳牛はこの世界から、ほとんどいなくなっている。
「じゃあ、あたしは行くね。アキオ、ヒビトがバカなことをしないように、見張っていて」
あたしは、年の割には頼りない青年より、よほど落ち着いてしっかりしている少年に言った。
アキオがわずかにうなずいて了解を示す。
扉を開けてあたしは外に出た。
ビルの隙間から覗く空は今日も青い。