325.拾得
あたしはお人よしだ。
それはよくわかっている。
だけど、さすがに、これに手をだすほど愚かではないはずだ。
深呼吸を何度か繰り返して、あたしはそれを無視することに決めた。
今日は早めに仕事を終えて家に帰り、シャワーを浴びて、大事な用件で出かけなければならないのだ。
あたしは、それに目を向けないように通り過ぎると、アパートへ続く、ビルの間の狭い路地を足早に歩いた。
指先は冷たく冷え、吐く息が白く背後に流れていく。
顔に冷たいものが当たり、見上げると、ビルに四角く切り取られた空から雪が降り始めていた。
気候変動で、地球全体は温かくなってはいるが、この都市は、まだ冬には雪がふる。
少し歩くと、急に視界が開けた。
高いビルに挟まれて、開発から取り残されたような隙間の土地に建つボロアパートの階段を上がる。
チャイムを押した。
しばらく待つと、中から鍵が外れる音がして扉が開く。
「ただいま」
返事は期待せず、
「何か問題は?」
尋ねると、相手は黙って首を横に振った。
「まったく愛想がないわね」
あたしは肩にかけていた荷物を置いて――ため息をついた。
さっきの光景が脳裏をよぎる。
ダメダメ、今日は、絶対に外せない用件があるの。
絶対にダメ!
そのために、細かい根回し、気遣い、その他を繰り返し、2カ月という時間を使った。
それをこんなことで棒に振るなんてありえない――
でも――
あたしは、じっとあたしを見て次の言葉を待っている居候に向かって口を開いた。
「ついてきて」
言ってから後悔する。
あーバカバカ、信じられない、あたしは地球一の馬鹿者に違いない。
頭の中で、自分を罵倒しながら、あたしは、小走りにさっきの路地に戻った。
そこに、それは――いた。
残念ながら、まだいた。
泥だらけのズボン、汚れたシャツを来た、男。
痩せて、薄汚れた黒い髪、首筋には青年特有の若々しさがあるが、いまは薄暗い地面に突っ伏して気を失っている。
さて――どうすべきか。
いくら痩せているとはいえ男は男。
あたしの細腕では運べそうもない。
と、思っていると、一緒についてきた居候が、男の身体の下に自分の身体を差し込んで持ち上げた。
そう、この一風変わった居候は力が異様に強いのだ。
「あんた、ひとりで運べるの?」
あたしの問いに彼はうなずいた。
「じゃあ、行くわよ。家に帰るの――本当に大丈夫?あんた小さいんだから、その人の頭を地面にぶつけたりしない?」
まるで言葉が聞こえないかのように、先に立って歩き始める少年にあたしは叫んだ。
「ちょっと待って、本当に気をつけるのよ、アキオ」
その心配は杞憂で、少年は、手慣れた感じて男を運び、息も切らさず階段を上って部屋の中に男を下ろした。
床に投げ出された軟体動物のような男の姿を目にして、手ひどい後悔に襲われる。
あたしは、なんてバカなんだろう。
でも、この寒空に外で寝ていたら、確実に死んでしまう。
助けずに、明日の朝、この男の死体を目にしたら、きっと後悔するだろう。
それは、あたしの心に嫌な記憶を残すに違いない。
それを避けるため、つまり心の健康のために、仕方がない行動だったのだ――
そう自分の中で整理をつけていると、玄関に置いた鞄の中の端末が音を発した。
それが、あたしを現実に引き戻す。
絶対に時間のミスを犯さないために、アラームをセットしていたのだ。
時計を見ると予定の時刻を30分過ぎている。
仕方ないなぁ――
あたしは、端末を取り出すと再発信操作をした。
映像は切る。
「あ、シンツァイさん、ごめんなさい。突然、妹がやって来て――ええ、ええ、そうなんです。いや、そんな、はい、はい。では、また今度、必ず、ええ、その時は、はい。では、失礼します――」
ピッ、と端末に触れて通信を終えたあたしは、がっくりと床に座り込んだ。
これで、あの軍病院の院長の芽はなくなった。
この世界の競争は厳しいのだ。
今のような、土壇場のキャンセルが通るほど甘くはない――
「あ、あの――」
横から声をかけられて、あたしは飛び上がった。
そこに、運んできた男がいたことを忘れていたのだ。
どうやら気が付いたらしい。
「あなたが助けてくれたんですか?」
浮浪者の風体からは、ほど遠い上品で優しい声だった。
「ありがとう」
そう言って、男が立ち上がる。
立つと、かなりの長身だった。
痩せているため、さらに背が高く見える。
「では、失礼します」
そういって扉を開けようとする。
「ちょっと、あんた、どこいくの」
「迷惑はかけられないので、ここを出て行きます」
「待ってよ!」
あたしは男の腕をつかんだ。
細く見えて案外筋肉質な腕だった。
だけど、あたしがちょっと力を加えただけで、男はふらついて床に座り込んでしまう。
「まずは、事情を話して」
目の高さを合わせて、あたしは尋ねた。
男が生粋の浮浪者でないことは、服装や体つきから見てわかる。
あたしだって、伊達に貧乏暮らしを続けているわけではないのだ。
アキオは、玄関の壁にもたれて、あたしたちのやりとりをぼんやり眺めていた。
「ムガルから、セント・バートルへ仕事を探しに来たのですが、この街に入ってすぐに、バス・ターミナルで知り合った人に紹介してもらった安宿に泊まったら――」
「身ぐるみをはがれたんでしょう」
あたしはため息をついた。
典型的な、お上りさんねらいの手口だ。
「あれ、でもムガルって、ネオ・ネイシアでも、バートルと同じくらい都会じゃなかった?」
「はあ、でも、あの街は合理的すぎて肌に合わないんです。だから、暮らすなら、ここかトルメアだなって――」
「しっ、あんた、そんなネオ・ネイシア最大の仮想敵国の名前を出しちゃだめだよ」
「ということなので、出て行きます」
男はふらつきながら立ち上がろうとし、
「ちょっと待ちなよ」
あたしは腕を持って引き留めた。
「迷惑はかけられません」
言い合っている最中に、盛大に男の腹が鳴る。
「あんた、金をとられたのはいつなの」
腹を押さえて情けなさそうな顔になる男に、あたしは尋ねた。
「一週間前――」
「それから、どうやって生きてたの」
男は痩せた胸元から、チェーンで下げられたハーモニカを取り出した。
ブルース・ハープだ。
手で包み込むようにして、粋なメロディの一節を奏でる。
なかなか上手い、
「ハンカチを広げて、これを演奏すると小銭が溜まるんです。時には札も――」
「よかったねぇ。セント・バートルが、ムガルみたいに完全eマネー化してなくて」
「何日かはそれで凌げたんですが、雪が降るようになると、誰も立ち止まってくれなくて――寒くなるとダメですね」
「ここの冬は川も凍るからね」
言いながらあたしは決める。
「いいわ、あんた、お風呂に入ってきて」
「え、でも」
「その間に、すきっ腹にいれても大丈夫な食べ物を作っておくから――着替えもあるから、出たらそれを着て」
まだ何かいいたそうな男の顔を、あたしは指さす。
「それと、その汚い髭は剃ってね。あたし、無精髭は嫌いなの。洗面所に髭剃りを出しておくから」
「いいんですか?一緒に住んでる恋人に怒られるんじゃ」
「恋人?アキオが――この子も居候よ。2日前からね。だから、あんたは居候2号ってわけ」
「いや、髭剃りとか服があるってことは――」
「服は夜逃げした父親のものなの。あんたの方が背が高いから、小さいかもしれないけど、胴回りは合うと思う――いいから入って」
「あ、ありがとう」
脱衣所の扉が閉まり、再び開くと、男が言う。
「僕の名はヒビト、あなたは」
「あたしはアカネ、名前でわかるように20年前に海に沈んだ国の人間よ」
「ありがとう、アカネさん」
パタリと扉が閉まると、あたしはアキオを見た。
「間違った選択をしたかな――でも、あの髪と目の色、ヒビトっていう名前、きっと彼も日本人の子孫よ。あんたと同じでね」
あたしは父がよく言っていた言葉を思い出す。
「同郷同士、困った時は相見互い、ってね」
その言葉にも、無口な少年は何の反応もしなかった。