322.体温
部屋に戻ったヨスルは、窓から外を見た。
自然をうまく利用した美しい庭が眼下に広がっている。
自分はアキオに好意を持っている。
心の奥を探りながら、彼女はそう思う。
おそらく、愛しているのだろう。
長く話したわけではない。
それどころか、最初に会った時は敵同士だった。
ふ、と少女の顔に笑顔がこぼれた。
かつて妹が同じことを言っていたのを思い出したのだ。
さすがは姉妹ね――
そう呟きながら、窓から離れたヨスルは寝台に座った。
あの戦闘でアキオは、彼女に色を取り戻してくれた。
彼だから、失くした色彩を感じることができたのだ。
そのことに疑いはない。
それを愛と呼ぶなら、おそらく愛なのだろう。
でも――
今、彼の周りは暖かな色で溢れている。
あれはシミュラさまだから――わたしに、あんな美しい色が出せるはずがない。
長い間、単色の世界で暮らしていたわたしに。
不安が彼女の胸を締め付ける。
少女は、日常装備のアーム・バンドを見た。
あと15分だ。
ヨスルは、頭を振った。
不安に苛まれていても仕方がない。
女王が彼女に頼んでいるのだ。
受けないわけにはいかないだろう。
少女は立ち上がった。
部屋を出て行こうとして、巨大な姿見が眼に入る。
彼女は足を止め――鏡の前に立つと服を脱ぎ始めた。
一糸まとわぬ姿になると、じっと鏡の中から見つめる淡青色の髪のもうひとりの自分を見る。
自分の顔や身体を、こんな大きな鏡でしっかりと見るのは初めてだった。
長い間、自分の身体になど興味はなかったし、いつ見ても無表情な顔が好きではなかったからだ。
今の自分の顔はどうだろう。
表情は――ある、目元の柔らかい穏やかな表情だ。
自分でも忘れていた淡い紫の――地球でいう菫色の眼が、鏡越しに彼女を見つめている。
でも、アルメデさまや、シミュラさま、ピアノや他の少女たちほど美しくはないかもしれない。
あるいはシェリルほど異国的ではないだろう。
胸は――普通だろうか。
今まで考えてもみなかったことだ。
自分の手で触れてみる。
柔らかく温かい。
小さくはないが、扱いに困るほど大きくもない。
アキオに意識はないらしいが、触れると悪夢を見なくなるということは、肌の感触を感じているのだろう。
こんな体で失望させないだろうか――
腕を降ろして再び観察する。
胴回り――ずいぶんくびれているが、これは普通なのだろうか。
身体を捻って後ろを見る。
お尻は――小さすぎるような気がする。
そして太腿、ふくらはぎ、爪先――どうだろう。
「あなたは美しいですよ」
突然、声がかけられて、ヨスルは小さく飛び上がった。
部屋の戸口にアルメデが立っていた。
「ごめんなさい。ノックをしたけれど、返事がなかったから」
女王は少女に近づいた。
顎に指を当てる。
言葉を失うほど美しい女王の顔を間近で見て、少女は俯いた。
とてもかなわない――
「ピアノが……」
アルメデがヨスルの顎を持ち上げながら言う。
「心配していました。あなたの美しさが、菫色の瞳がアキオを虜にするのではないか、と」
「まさか」
ヨスルが苦笑する。
「あの人が女性に心を奪われるとは思えません」
「そうですね。でも、あなたには、そう心配させるだけの外見と中身の美しさがあります」
アルメデは少女の髪に触れ、
「あなたの髪は、遠く澄んだ空の色。あの歌に歌われた――」
「地球の蒼い空……」
「そうです。そして、珍しく美しい菫色の瞳――だから心配しないで」
そういって、女王は、裸の少女を抱きしめた。
「あなたの肌でアキオを慰めて」
「はい」
アルメデは、作りつけのクローゼットまで歩くと、扉を開けて、中から白いバスローブを取り出した。
背後からヨスルに着せる。
「そろそろシミュラが眼を覚まします。行きましょう」
少女はうなずきかけ、
「あ、あの、出かける前に湯浴みを――」
「不要です」
アルメデが言葉を重ねるようにして遮る。
「前にもいいましたが、ナノ・マシンを得たあなたの身体は、常に清潔に保たれています」
女王は遠い眼になり、
「わたしも、そのおかげで一日のほとんどを執務に割くことができましたが、よく姉がわりの女性に叱られたものです。健康のためにも、毎日風呂にお入りなさい、と」
そう言うと、彼女に先立って部屋を出る。
「でも、ここに来てからお風呂が好きになりました」
歩きながら彼女を振り返る。
「ジーナ城では、毎日、みんな一緒に話をしながら湯につかるのですよ。アキオも一緒に――」
人気のない廊下を歩き、アキオの部屋に入ると、服を身に着けたシミュラが、寝台に腰を下ろして彼の額に手を当てていた。
「おお、来たか」
少女は立ち上がり、ヨスルの手を握った。
「あとは頼んだぞ――」
「はい」
戸口まで進んだシミュラは振り返ると、
「ああ、ヨスル――優しくするのじゃぞ」
そう言い残して、待っていたアルメデと共に部屋を出て行った。
彼女が、シミュラの冗談を理解したのは、扉が閉まってしばらくしてからのことだった。
ヨスルは、さきほどシミュラがしていたように寝台に腰かけた。
アキオの黒い髪に手を触れる。
しばらくして、少女は立ち上がると、滑らせるようにしてローブを脱いだ。
全裸のまま、椅子の背に服を掛け、アキオのシーツをはぐった。
「ああ」
思わず声が漏れる。
涙がこぼれた。
彼の、アキオの身体は、未だ、いたるところ皮膚に深い穴が開き、治癒どころか、寛解にも至っていないことが一目で知れたからだ。
身体に開いた大穴が、一日でふさがるナノクラフトを用いても治らない負傷。
どれほどの負担を身体にかけて、彼が戦っていたかを彼女は改めて知った。
少女はうなずくと、ベッドに身体を横たえた。
おずおずと、アキオの身体に己が体を重ねて行く。
彼の傷を恐ろしいとは思わなかった。
アキオは、自分を殺そうとした魔女や強化兵の命を奪わず、これらの傷を負ったのだ。
そう思うと、彼の傷ひとつひとつが愛おしかった。
肌と肌が触れた瞬間、小さな雷球を受けたような衝撃があるかと身構えたが、そのようなものはなく、少し冷たいアキオの体温を感じただけだった。
彼の体温の低さを感じて彼女は不安になる。
ヨスルも、学習によってナノ・マシンの機能の概要は知っている。
ナノ・マシンを持つ者の体温が低いということは、マシンが激しく活動をしているということだ。
今も、アキオの体内では、死への抵抗が激しく行われている――
少女は、アキオの上で体を滑らせ、彼の顔に頬を当て、手足に彼女の腕と足を絡ませた。
強く密着する。
まるで、自分の身体をアキオの身体に溶け込ませようとするかのように――
しばらくして、彼女は、自分の身体が色とりどりの光に包まれているのを感じた。
ああ、これは――
それは、かつて彼女が世界に感じ、いつしか失くしてしまった極彩色の彩りだった。
これは、アキオの激しい記憶の色だ。
直感でそう感じた彼女は、その色に心の手を伸ばす。
さらに――
それだけでなく、もっと優しく穏やかな色も彼女を包み始めた。
さっき、シミュラの周りに漂うのを見た、暖かで少し寂し気な光だ。
これは――アキオの記憶だろうか、それとも自分の中の気持ちが光になって輝いているのだろうか。
人を愛する、誰かを愛するということは、強く激しい感情とともに、穏やかで優しく、そして少し寂しく悲しい気持ちを伴うものなのだろう。
その気持ちを表す色を、彼女は全身で感じ彼女自身もそれを発していた。
アキオの心と彼女の心、その境目もなくなり、ひとつに混ざり合って光を生み出していく。
いつしかヨスルは、心地よい眠りに落ちていくのだった。