319.活性
「ヨスル」
アキオが声を掛けると、少女は腕で胸を隠して顔を背けた。
もと大貴族の娘とはいえ、市井の暮らしが長かったためか、羞恥心を無くしてはいないようだ。
「無理はしなくていい」
「はい――いいえ」
矛盾する言葉をつなげると、少女はアキオと目を合わせないようにしながら彼に近づいた。
隣に座る。
「は、恥ずかしいのは本当です」
「俺のために一緒に眠ってくれたらしいな」
「はい、妹と――ピアノと共に」
「ありがとう」
アキオの、飾らない素直な感謝の言葉で気持ちが楽になったのか、少女は彼の眼を見上げた。
遠慮がちにアキオの首に手を伸ばし、彼に抱き着く。
小さな甘い声で囁いた。
「嬉しいです。アキオ」
槍に貫かれ、意識を失ったヨスル・ド・コントが、次に目を覚ましたのは、眩しい光に満たされた液体の中だった。
不思議なことに、息は苦しくない。
気づくと、透明な板の向こうから、ふたりの美しい少女が彼女を見ていた。
アルメデ女王と黒紫の髪の女性だ。
「わたしがわかりますか」
どういう仕掛けなのか、水の中に女王のはっきりとした声が響く。
ヨスルはうなずいた。
「この方はシミュラさまです。わたしたちからあなたにお話が、いえ、お願いがあります」
アルメデは言葉を切り、
「あなたに世界を救う手伝いをしてほしいのです」
世界を救う――その意味はよくわからなかったが、女王の真剣な眼差しに打たれて、ヨスルは反射的にうなずいていた。
「ありがとう。でも、あなたの身体は今、ひどく傷ついています」
そう言われて、ヨスルは自分の体に眼を落した。
確かにひどい状態だった。
体の真ん中に大きな穴が開いている。
しかし、不思議と痛みはなかった。
いや、そもそも、この状態で生きているのはおかしい。
夢でも見ているのだろうか。
アルメデ女王は、その程度の傷なら、彼女たちのナノクラフトを使えば、すぐに回復する、と言った。
傷は治り、身体が強くなる。
以前のものより数倍優れた体――わたしやピアノのような。
ヨスルはうなずいた。
この戦いでアルメデやピアノの能力の高さは眼にしていたからだ。
そこでアルメデは目を伏せ、ただ、ナノクラフトは、まだ未完成の技術のため、今のままだと、数か月で昏睡状態に陥ってしまうのです、と言った。
ピアノたちが、突然倒れたのも、それが原因だと。
すでに、その副作用を取り除くための作業は行われていて、もうすぐナノクラフトは完成する予定ではあるが、現段階では副作用を免れない。
その危険を承知でお願いしたい。
どうか、わたしたちに、アキオに力を貸して欲しい、と。
彼女はうなずいた。
翌日、ヨスルは液体槽から外に出た。
身体は元通りになり、副作用の気配もない。
「すっかり治ったね」
シミュラが笑顔で彼女の腕を叩く。
この、黒紫の髪の少女は、彼女が初めて目にするような、気さくな人物だった。
特徴的な髪の色から、エストラの王族であることがわかる彼女は、ざっくばらんな物言いで、気取ったところがまるでない。
大きく切れ上がった目が印象的な美貌で、まるで野生の猫のように人間以上の存在感があった。
それもそのはず、彼女こそが、100年の長きにわたって恐れられ続けたアルドスの魔女なのだ。
一年前に討ち取られたと聞かされていたが、姿を変えて生きていたのだという。
本人から直接、そう教えられた時には、にわかに信じられなかったが――
「ほら、こんな感じだね」
そういって、目の前で手足を伸ばされると信じないわけにはいかなかった。
「まず、あなたには、必要な知識を学んでもらいます」
シミュラと交代にやって来たアルメデにそう言われ、ヨスルは静かな廊下を歩いて瀟洒な部屋に連れていかれた。
美しい木製の調度品が備えつけられた、落ち着いた雰囲気の部屋だ。
壁には大きな窓があり、机と寝台が中央付近に置かれている。
さらに、サンクトレイカでは、王城でしか見られないような巨大な姿見が、何気なく壁に掛けられていた。
「あなたの部屋です。ここに住む者はすべて同じ造り、この間取りで暮らしています――ピアノもね」
女王は、未だカプセルの中で眠り続ける彼女の妹の名を挙げ、
「奥の扉は風呂と便所です。もっとも――誰も部屋で湯を浴びる者はいません。もともとナノ・マシンを身に宿したわたしたちの身体は、常に清潔に保たれるので風呂は不要なのですが、皆、アキオと一緒に湯に浸かるのを望むので……」
そう言って微笑む。
「彼女たちが回復して入浴できるようになったら、あなたもどうするか決めてください」
次に、ヨスルを変わった形の机に座らせる。
女王が手を触れると、机の上に斜めに置かれた板が光を発し、文字を浮かべた。
彼女の知らない文字だ。
「これから3時間、この板、ディスプレイを眺めてください。文字は理解できなくてかまいません。漠然と焦点を合わせて、視野全体に文字が入るようにすることにだけ注意して……」
アルメデの言葉に合わせて、表示される文字が、凄まじい速さで流れ始めた。
図や写真も同様に流れていく。
「何が書いてあるかわかりませんし、速すぎて読み取れません」
ヨスルが困ったような声を出す。
「それでよいのです。すぐに文字は理解できるようになります。この装置、ディスプレイと制御盤の扱いも含めて――」
「女王さま!」
「不安になるのはわかりますが、信じなさい。それが、あなたの身体を一日で治したナノクラフトの別な力なのです」
そう言い残してアルメデは出て行った。
女王の言葉を、すぐに信じたわけではないが、ヨスルはおとなしく画面を眺め続けた。
しばらくすると、周りから音が消えた。
もともと静かな部屋であったが、完全な静寂に彼女は包まれたのだ。
ほぼ同時に、それまで、ただの模様に過ぎなかった文字が理解できるようになる。
彼女が今、向かっているディスプレイと制御盤の機能と操作方法も分かった。
三時間後、アルメデが様子を見に来ると、ヨスルは、さらに2枚のディスプレイを起動させ、3面から情報を吸収しているところだった。
「どうかしら」
アルメデが声をかけると、少女はコンソールに触れて表示を止め、
「女王さま。なんというか――すばらしいです」
そう言って目を輝かせる。
「ナノ・マシンによる脳の活性化と感覚の加速で、これほど短期間に学習ができるなんて――」
ふっと、アルメデは笑い。
「そうですね。あなたの言葉も含めて。ヨスル、あなたはいま、地球語で話しているのですよ」
音声を使わず、表示データに埋め込まれたコードを用いて行う言語学習の成果だ。
「あ、ああ。サンクトレイカ語の方がよろしいですか」
「わたしには地球語の方が馴染みがありますから――ピアノたちは、あなたほど楽をしていないのです。本を使って勉強をしたそうですから。ディスプレイを使う深層学習システムは、ニューメアの方が進んでいたので、今回、ナノ・マシンの学習活性と合わせて、高速学習システムを構築しました。あなたは、その原型の実験体というわけです。申し訳ありませんが……」
「いえ、学んだ限りでは、このシステムに問題はないと思います。それに、グレイ・グーの処理を一刻も早く行わなければならないのも理解できます。お手伝いさせてください」
「本当なら、一度眠って自然な形で知識の整理をした方が良いのですが――わかりました。ついてきてください」
アルメデが先に立って部屋を出て行く。
ヨスルは、それに続こうとし――戸口で部屋を振り返った。
「どうしました」
「いえ、窓から光がよく入る、暖かくて心地良い部屋だと思いまして」
「気に入ってくれたら嬉しいわ。これからずっとあなたの部屋になるのですから」
「え」
「初めにいったでしょう?もちろん、あなたさえよければ、ですが」
「はい」
嬉しそうにうなずくと、ヨスルは歩き出したアルメデを追いかけた。