313.救世
3か月前、ドッホエーベ荒野の露台――
メキアとサンドルを送り出したマイスは、眼前に迫りくる蟻を見た。
彼の足に黒い絨毯が触れる。
次の瞬間に、彼の命の火は消え去るだろう。
――まあ、悪くはない人生だ。
マイスは眼を閉じた。
〈死ぬことは許しません――命令です〉
不意に彼の耳に、メキアの言葉が蘇える。
マイスは眼を開け、さっと足を引くと、身を翻して走り出した。
王女病は、もう心配いらない。
彼の役割は終わったのだ。
苦難の旅はもう終わり。
このまま楽になりたかったが、最後に女王によって命令が上書きされてしまった。
〈死ぬことは許しません〉
死ぬことが許されないのなら――
野の獣のように駆けながら、マイスは皮肉に笑う。
足掻く他ないではないか。
もうずっと昔、メキアと出会ってから、彼は怠け続けていた剣術の稽古を再開した。
それまで、何をしても簡単に人並み以上のことができた彼は、学問以上に、剣術の鍛錬が嫌いだった。
苦労せずにできてしまうことに、いったいどんな意味があるのだろう。
だが、メキア王女と出会い、彼女を守るという難題を目標に掲げた彼には、すべてが必要となった。
王女を守るための軍隊はある。
だが、それらは常に彼女の周りにいるわけではない。
少女を守るためには、傍にひかえる彼が強くなければならないのだ。
王女病を治療するためには知識も必要だ。
彼は学び、鍛えた。
決して、努力する姿を人に見られないように注意しながら――
その身体能力のおかげで、前回、魔王を襲撃した時は、崖から飛び降りて逃げおおせた。
今回はどうだろう。
マイスは、扉を蹴破ってモノ・キャリッジの通路へ飛び出した。
そこに、キャリッジは――あった。
レール・パイプも蟻の被害を受けてはいない!
彼は、モノ・キャリッジに飛び込んでドアを閉め、壁についたスピード・ダイアルを一杯に捻った。
拳を握りしめて、ドライブ・ボタンに叩きつける。
弾かれたように飛び出したキャリッジは、寸前に迫った黒い波を置いて走路を下って行った。
「助かった、のでしょうか……」
後部の窓から後ろを振りかえったマイスは、走路の坂道を、黒い雪崩のように下って来る蟻を見た。
「人生は甘くありませんな」
漆黒の塊の中に、無数の蒼白い光が見えた。
マイスは、それが高熱のプラズマ光だとは知らなかったが、良くないものであることは理解する。
勾配が急になり、キャリッジの速度が上がって蟻を引き離して行った。
彼はシートに腰かける。
行きより速度が上がっているはずだが、なかなか終着点につかない。
反対側の窓から前方を見る。
飛ぶように近づいていた、走路を照らす淡い光の列の速度が遅くなった。
やっと終点だ。
キャリッジが止まった。
自動的に扉が開く。
飛び出したマイスは闇に沈む走路を見た。
蟻は見えないが、湿った風が流れ下りてきて顔に当たる。
何かが上から押し寄せて、空気を押し出しているのだ。
彼が、走路から、魔王が蹴破った扉を通って屋敷内へ飛び込むのと、ほぼ同時に蟻が到着した。
黒い塊が破壊された扉から溢れてくる。
素早く、マイスは周りを見渡した。
邸内には誰もいない。
あるいは、兵士が残っているかもしれないという淡い期待は消え去った。
彼は、メキアが座って魔王を待っていた露台へ走る。
そこには、魔王の襲撃に備えて控えさせておいた兵士の武器があるはずだった。
あった――
彼は、真っ先に目に付いた大きな武器を掴む。
凄まじい勢いで流れ込んでくる黒蟻を避けて、露台の手すりに飛び乗った。
「やれやれ」
ぼやき声を口に出す。
「これほどの運動をするのは、いつ以来でしょうか」
蟻は、たちまちバルコニーを埋め尽くし、手すりを乗り越えようした。
間一髪、それを避けて、マイスは広間のシャンデリアに飛び移る。
鋼鉄の鎖で吊り下げられた、巨大なメナム石の明かりが大きく揺れて、広間中に不気味な影を映した。
黒蟻が露台の手すりを超えて大広間になだれ込む。
際限なく走路から押し寄せる蟻で大広間が満たされていく。
マイスが、揺れにタイミングを合わせて、さらに広間中央のシャンデリアに飛び乗った瞬間、屋敷の外で何かが爆発する音がした。
広間に溜まった膨大な黒蟻が、悲鳴のような響きを上げて大きく揺れる。
ボボボッと、走路の上から小さな破裂音が近づき、やがて壊れた扉を埋めていた黒蟻が、小さく振動したかと思うと、向こう側から吹き飛ばされた。
その後から、まばゆい銀色の霧が吹き出てくる。
広間の黒蟻が激しく振動し、うねるように銀の霧に覆いかぶさった。
激しく光を明滅させて、黒蟻の塊が銀の霧に混ざっては消えていく。
流れてきた霧の一部がマイスに近づいた。
彼は、それを避けようと身体を動かし、バランスを崩しかけた挙句、まともにその中に顔を突っ込んでしまった。
が、特に被害はない。
改めて、マイスは扉を見た。
霧と黒蟻の激しい戦いは続いていた。
それは、走路の扉を主戦場とした一進一退の、小さくも凄まじい攻防だった。
銀の霧が浸食し、広間から補充された黒蟻が押し返す。
やがて、拮抗した力は黒蟻に軍配が上がり、完全に、銀の煙を押し返し始めた。
銀の霧は、露台から蟻を追ってここまで来たのだろう。
だが、細い走路から流れ来る、霧の量が少なすぎるのだ。
この閉鎖された形の大きな広間には、すでに大量の黒蟻が溜まっている。
彼が奴らをここに導いてしまったのだ。
今や、扉は黒蟻で覆われ、霧は完全に外に締め出された。
ギチギチと、嫌な音が足下からしはじめ、彼は下を見た。
真っ黒な広間の蟻の量が減り始めている!
おそらく――広間の下に穴を掘って、どこか安全な場所へ逃げようとしているのだ。
このまま、これほど膨大な黒蟻を逃がしてしまえば、やがては再び勢力を盛り返し世界に害を為すだろう。
銀の霧に味方すべきだと判断したマイスは、手にした武器を構えて扉に狙いをつけた。
撃つ。
衝撃で黒蟻の一部は弾けたが、それほどダメージは与えられない。
反動で激しく揺れたシャンデリアに、彼を敵と認識したらしい黒蟻が襲い掛かる。
黒い尖った槍が、ものすごい勢いで突き上がってくるのを見ながら、マイスは再び銃を構え、今度は、扉の横を撃った。
咄嗟に身体を捻り、槍を躱す。
穂先は頭と顎をきわどくかすめた。
壁が吹き飛び、大きく開いた穴から、凄まじい勢いで銀の霧が噴き出してきた。
一瞬で、広間すべてが満たされる。
それは、マイスに襲い掛かろうとする蟻を取り巻き、瞬時に同色の霧に変えてしまう。
均衡は崩れた。
もう黒蟻が霧に対抗することはできなかった。
見る間に、広間に溢れていた蟻は銀色の粒子にかわってしまう。
一面が銀色の霧に包まれたシャンデリアの上で、マイスは髪に手をやった。
彼を特徴づける尖った髪は、黒蟻によって、その先が消滅していた。
髭もほとんどなくなっている。
「そろそろ髪型を変える頃合いですね」
マイスがつぶやく。
「もう、彼女を笑わせる必要もなくなりましたから――」