309.目覚
ひどく疲れていた。
ねっとりとした疲労が身体中を包み、思いどおりに手足が動かなかった。
少しずつ時間をかけて、指の先から運動能力を取り戻そうとするがうまくいかない。
だが、不思議なことに、身体の不調に反して気分は悪くなかった。
悪夢はまったく見なかった。
それどころか、暖かく美しい色をまとった様々な雲と霧が、彼の心に優しく巻きつき、翻弄し、戯れ、労ろうとし、長く枯れ果てていた彼の魂に潤いを与え、解きほぐしていくのを感じていた。
最初に戻ってきたのは皮膚の感覚だった。
暖かくすべすべとしたものが、彼の身体の上を滑っている。
やっと――彼の命令に応じて瞼が開いた。
柔らかな光が、焦点の定まらない目に入ってくる。
視界がはっきりすると、彼の顔をすぐ近くから覗き込む眼が見えた。
美しく、懐かしい瞳だ。
この、見る角度で微妙に美しく様々に色を変える瞳を、かつて彼は飽きず眺めていたものだった。
それは、いったい誰の眼だったか――
「あ、眼を覚ましたね」
瞳の持ち主が可愛らしい声を発した。
赤みがかった肌の少女だ。
豊かな髪は、深く渋い赤色、いわゆる山ぶどうの色をして、その中に浮かぶ顔は――彼にはまだよくわからないが、おそらく、一般の美的基準からすれば大変な美少女だろう。
「ああ、よかった。このまま目を覚まさなかったらどうしようかと思った」
少女はそういって彼を、きつく抱きしめる。
身体が当たる感触からわかるが、彼女は全裸だ。
「ああ、アキオ、アキオ」
カマラやピアノたちより、しっかりとした骨格で、肉付きも良い少女は、彼の名を何度も呼びながら、顔じゅうに口づけの雨を降らせる。
アキオは、手を伸ばして少女の頬を両手で挟んだ。
ゆっくりとその目を覗き込む。
「まさか――君は」
「誰だかわかっ――」
今度は、少女が目を丸くして絶句した。
信じられないことに、アキオが体を入れ替えて上になり、少女の身体をしっかりと抱きしめたからだ。
「君は死んでしまったと――」
少女は驚いて見開いた目を甘く閉じて、アキオの背に手を回して抱き返す。
さらに身体を入れ替えてアキオの上に乗ると、もう一度、今度は唇に口づけた。
「アキオのラピィは、あなたを置いて先に死にはしない。決して」
「サフランが蘇らせてくれたんだな――その体は」
「わたしが頼んだの、再生されるときに」
「あー」
頭の上から、聞きなれた叫び声がした。
「もう、だから、誰かがついていなきゃだめだっていったでしょ」
アキオは、顔を覆う豊かな山ぶどう色の髪をかきわけて声の主を見た。
思った通り、シジマが彼らを指さし、その指を振っている。
彼女の横には、カマラ、ピアノ、ユスラ、ヴァイユ、ミストラ、ユイノ、シミュラ、キィそしてアルメデが立っていた。
皆、笑顔だ。
「この肉食娘は――みんな、なんとかして。アキオが食べられちゃうよ」
「本当にのう、まさか、あの静かなラピィが、人間になると、こうなり果てるとは誰も思うまい」
シミュラがため息交じりに言い、
「ケルビは草食のはずなんだがねぇ」
キイが呆れる。
「だいたい女王さまって、歳をとったら、こうなっちゃうんだよね――不敬を覚悟でいうけどさ」
シジマの言葉に、ぴくりと眉を動かしたアルメデが口を開く。
「今日は、めでたい日ですから、その言葉は聞き流しましょう。シミュラに関しては当たっていますし」
「いうようになったではないか、アルメデ」
だが、かつてケルビだった少女は、背後で交わされる人間の会話などまったく意に介さない。
「ね、やっぱりわたしが添い寝している時に目を覚ますっていったでしょう。シミュラ」
少女は半身を起こして、形の良い胸も露わに腰に手をやり、自慢気に言う。
「わかった、わかった。でも、上に乗るのは止めるんだ。あんた、自分の体格を考えないと。主さまが重たいじゃないか」
キイの説教に、少女は口を尖らせた。
「あなたにいわれたくないなぁ」
「まったく――」
キイが、力任せに少女をアキオから引きはがし、同時にヴァイユが少女の裸体をシーツで覆った。
「前にもいいましたね。アキオのベッド以外で裸はいけませんよ」
「服は慣れないのよ。ずっと裸だったから」
アキオは、ベッドに身を起こして、ポンポンと交わされる少女たちの会話を懐かし気に見ている。
「アキオ、大丈夫ですか?気分は」
ヴァイユが尋ねる。
「体調も気分もいい」
彼は、ベッドの周りに集まった少女たちを、一人ひとり見回し、
「ミストラ」
そういって少女の手を取る。
「身体は元通りなんだな。意識は」
彼女は、さきの戦いで身体のほとんどを失ったのだ。
「大丈夫です。サフランがナノ・マシンに改良を加えてくれましたから――もう昏睡はおきません」
アキオがうなずく。
「キィ」
「わたしは万全さ、主さま」
「君の怪我もひどかった」
「大丈夫だよ。昨夜もアルメデさまと一緒に――サンドイッチ寝をしたんだから」
「シジマ!」
叱られて、緑の髪の少女が、あははと笑う。
「ピアノ」
「はい」
「よく戦った」
「ご褒美に、今度、湖へ連れて行ってください」
「行こう」
「なんだか素直におねだりできるようになったねぇ」
「ユイノ」
「あ、ああ」
アキオは少女の手に触れ、
「君があの槍から俺を――」
「なんでもないよ。もう身体も元通りさ」
「また君の踊りが見られるな」
「もちろんだよ」
「ユスラ」
「アキオ」
「身体は」
少女も彼を守って大変な傷を負ったのだ。
「もうすっかり元気」
少し甘えた口調で言う。
「君の素早い初動に、俺は救われた」
「そのかわり、皆を危険にさらしました」
「みんな元気だから結果オーライさ」
ユイノが地球語で言う。
「ヴァイユ」
「はい」
柔らかな眼差しで、皆のやり取りを見ていた金色の髪と瞳の少女が驚いたように返事をした。
「身体は大丈夫だな」
彼女も彼を庇って下半身を失ったのだ。
「ええ、もうすっかり元通りです」
「君にいいたいことは、ひとつだけだ」
「はい」
「俺の書簡箱はもう開けるな」
アキオが真面目な顔で言う。
「え、は、はい」
少女が身を縮める。
「嘘だ。君の暗号解読のおかけで、今の皆の命がある。ありがとう」
全員が驚いた顔をした。
「ど、どうなってるの?アキオが冗談を――」
皆を代表してシジマが叫ぶ。
「シジマ」
「う、うん」
「君の作った道具が世界を救ったな」
「でも――ボクはアキオに謝らないと」
「ミーナか――まだ見つからないんだな」
「うん、あの歌の謎もまだ解けてないんだ……本当にごめんよ。怒っていいよ――」
アキオは手を伸ばして小柄な少女を引き寄せた。
「君のおかげで、彼女とミーナを同時に抱きしめることができた」
「あ、アキオ――」
わっと、シジマが泣きだした。
アキオにすがりつく。
ずっと罪の重圧に耐えていたのだろう。
「ミーナのことは心配しなくていい。彼女も、ミーナも、すべて取り戻す」
アキオは静かに言い、
「カマラ」
「はい」
「あのアイギス・ミサイルは君がやったんだな」
アキオは、体中を焦がしたカマラの姿を思い出し、尋ねる。
彼は奇跡を信じない。
絶体絶命の状況で、空からナノ・マシンを満載したミサイルが降ってきたら、それは奇跡ではなく、誰かが命がけでやってくれた行為の結果だ。
詳しい経緯はわからないが、それができたのはカマラだけだった。
「え、あ、はい」
「無謀なことを――だが、そのおかげでギデオンを倒し、爆縮弾を抑え込めた」
アキオの言葉に、カマラは、ベッドの横で拳を握りしめて涙をこぼした。
「まったく、こんな時ばっかり我慢強くて甘え下手なんだからのう」
そう言いながら、シミュラが後ろから突いて少女をアキオに押し付ける。
「うう、わぁ」
カマラが、子供のようにアキオに抱きついて泣き出した。
少女の純白の髪に顔をうずめてアキオが言う。
「君は、いつでも自分の命を俺のために使おうとする。だが、それでは駄目だ。君の命は君だけのものだ」
「あなたのいない世界で生きる理由なんてない――」
アキオはカマラの髪を撫でる。
彼女の人生は長い。
今始まったばかりといってもいい。
あわてず、これから生きるに値する目標をさがしていけばいいだろう。
そう考えて、ふと自嘲する。
戦闘兵器に過ぎない自分が、人並みに考えるようになったものだ。
「シミュラ」
シジマとカマラを抱きながらアキオが呼ぶ。
「どんな魔法を使ったのか、君が一番に来てくれた」
「魔王には魔女が必要だからの――どんな時も」
アキオは、伸びてきた少女の手を握った。
感謝をこめて指を絡める。
シェイプ・シフターの少女は、誰よりも怪我に弱いのだ。
「おぬしのその眼、わたしのことを案じているな。大丈夫じゃ。今回、わたしの身体にもめでたくナノ・マシンが入った。何かの理由でシェイプ・シフターのままであるらしいがの」
彼がうなずく。
細かいことは後で聞けばいい。
アキオは、少女たちの端に立つ女王を見た。
「メデ、アルメデ――ミニョン。君の体調は大丈夫なのか」
今回の戦闘で、もっとも身体を酷使したのは彼女だ。
「ええ、もうすっかり元に戻ったわ」
アルメデが、幼さの残る絶世の美貌に老成した微笑みを浮かべる。
アキオは思いついたように尋ねた。
「あれから何日経っている?」
普通なら、ナノ・マシンによるタイム・カウントで、経過日数が分かるのだが、なぜか今回はその情報がリセットされているのだ。
「驚かないでね」
アルメデが悪戯っぽく笑う。
「93日よ」
「長いな」
普通ならあり得ない長さだった。
少なくともある程度体調が回復したら、彼の戦闘特化されたナノ・マシンの一部が、強制的に意識を取り戻させるはずなのだ。
「あなた、21回死んだのよ」
アキオはうなずく。
自分の体調のことは分かっている。
かなり限界ギリギリまで酷使した自覚もあった。
「同じ回数だけ蘇生してくれたんだな」
「危ない綱渡りの蘇生だった。でも、今回は、眠らない頼もしいドクターがいたから」
「ドクター?」
「ええ、罪滅ぼしをさせたの」
そういって、アルメデが凛とした声で命じる。
「おしゃべりなあなたが何を黙っているの。挨拶しなさい」
その途端、部屋の全方位から声が響いた。
「あ――どう挨拶すればよいのか……話しづらくて」
女の声だ。
どこかで聞いたことのある――
「名乗りなさい。それで彼はわかります」
「イエス、マム、わたしの名前はアカラ、アカラ・ギデオンです。ボス」