308.歌声
ざっ、と音がした。
ふたりの少女が振り返る。
アキオが、壁から横向きに地面へ倒れそうになったのを、手を伸ばしたシミュラが支えていた。
「アキオ」
アルメデとサフランが駆け寄る。
「だい……じょうぶだ」
彼は、シミュラの腕につかまって身体を起こそうとするが、うまくいかない。
「アキオ、あなた心臓が止まりかけているじゃないの!」
アーム・バンドで、バイタル・サインを確認したアルメデが悲鳴のような声を上げた。
「早く治療を、ナノ・マシンの活性化をしないと――ああ、でも、ヒート・パックもジェルもみんな使い切ってしまっているわ。いったいどうすれば――」
アルメデの言葉が止まる。
アキオが彼女の頬に手を当てたからだ。
「そう……あわてるな。まだ、死にはしない」
彼は、シミュラの腕につかまって体を起こした。
「俺はこの後、意識を失うだろう」
「大丈夫です。あとのことは、必ず、わたしたちが」
アルメデが彼の顔を覗き込むようにして言う。
「たのむ」
アキオは女王の肩に手を置くと続けた。
「さっき、データ・キューブをサフランに渡した。疲れているだろうが、データγ4809前後を参考に、惑星上に広がったグレイ・グーを処理してくれ。以前に地球で行った経緯が残してある」
「わかりました。ニューメアのすべての国力を使ってやり遂げます――聞きましたね、キルス、カイネ」
「はい」
オープン・チャンネルで中継された会話を聞いていたらしいキルスが応える。
「高位魔法のことは分からぬが、できることがあれば、西の国も協力するぞ」
メキアが塹壕の奥から歩み出た。
「エストラのシャルラ王も協力は惜しむまい。王女シャロルはアキオのためなら命も投げ出すだろうからの」
シミュラが彼の肩を抱きながら言う。
「そうですね。全ての国が力を合わせなければ乗り越えられない厄災です」
「残念ながら、サンクトレイカ女王の協力は無理でしょう。どうも――壊れてしまったように見えます。この国には新しい王が必要ですね。アルメデさま」
「ノラン。あなたが誰のことを考えているかはわかりますが、それはあとに回しましょう」
「はい――それで、アルメデさま?」
「ユスラは無事です。少し疲れて――眠っているだけ」
「わかりました。ありがとうございます」
「サフラン、君は、さっき伝えたデータを使ってキラル症候群の対処を――ナノ・マシンの改良を頼む」
アキオが少女を見る。
「わかっています」
「必要ならジーナ城の装置を使ってくれ――アルメデ」
「承知しました。その件は最優先で行います」
「頼む」
アキオは、そう言うと目を閉じた。
「まず行うのは、アキオと昏睡したピアノたちをジーナ城につれていくことです」
アルメデが皆を見回した。
「セイテンを使うか――じゃが」
「ええ、今、使えるセイテンはないでしょう――それに、これほど高濃度のグレイ・グーの中を飛ぶことのできる飛行艇はありません。しばらく飛ぶうちに浸食されて墜落してしまうはずです」
「どのみち、グレイ・グーを制御して機能制限しなければ、荒野から出ることもできない。そのためにはジーナ城の設備が必要だ」
眼を閉じたままアキオが言う。
「難問じゃの」
シミュラがため息をついた。
「問題ないでしょう」
サフランが微笑で言う。
「この近くに馬車とケルビたちがいるではないですか。彼らなら、少し処置をするだけで、ナノ・マシンの影響を受けにくくできるはずです――ああ、一体だけ死んでいますね」
「あやつの名はラピィだ」
そういって、シミュラが経緯を簡潔に説明する。
「そう――あのケルビはアキオを守って死んだの。でも――よかったわ」
「なんじゃと!」
シミュラの黒紫の眼が、一瞬、怒りで燃え上がる。
「誤解させたのならごめんなさいね。わたしがいったのは、ケルビの群れが傍にいる時に死んでよかった、ということなの」
「その意味は?」
「ケルビは、死に臨んで、本能的に自分の人格、記憶を近くのケルビに移譲するの。生体波動を使って。個人の知恵と知識を共有するために――」
「それはつまり」
アルメデがつぶやく。
「新しい器を用意すれば、その、ラピィというケルビは蘇る可能性が高い、ということ」
「本当か……」
アキオがつぶやくように言う。
「本当よ」
「君にそれができるのか」
「もちろん」
「では、頼む」
「了解よ」
「では――サンドル、ケルビに馬車をつないでもらえますか」
アルメデが命じる。
「わかりました」
強化兵は再び壕を出て行った。
「あの――」
おずおずと、金色の髪の少女がサフランの前に歩み出た。
シェリルだ。
「あら、あなた、その眼……サンクルね」
「サンクル?」
「ドラッド・サンクがジュノス体から生み出した、ヒトとジュノスの混合体と、その子孫のことよ。そのほとんどが女性で、ジュノス体の様々な魔法の一つを生まれながら扱えるの」
サフランは、シェリルが胸に抱える灰色の塊に気づく。
「それは――」
「母です」
「より完全なサンクルね――眠っているわ。大丈夫、身体が戻れば意識も戻るはずよ。アキオのナノ・マシンを使えば」
「本当ですか!」
「ええ、少しだけ待って。今は、まだナノ・マシンに問題があるから。でも大丈夫。すぐにお母さんに会えるわ」
「はい」
シェリルは母をきつく抱きしめた。
その時、突然、歌声が聞こえてきた。
それは遠くに聞こえ、近くにも聞こえる、美しくも不思議な歌だった。
「これは……」
最初にアルメデが反応する。
「ああ、地球の蒼い空、じゃな」
「そして、この声は――ミーナ!」
歌声は続いている。
「なんて心地よい歌なんだ」
「本当に……不安な気持ちが消えていくわ」
「きれいな歌詞ね」
兵士と魔法使いが口々に話しだす。
塹壕の中の者すべてに、歌声は聞こえているようだ。
「だが、おかしいではないか。この歌はエストラ語だぞ」
シミュラが首をひねる。
「私には地球語で聞こえますが――」
アルメデが言い、
「これは西の国語ですね」
メキアが断言する。
岩の崩れる音がして、皆が顔を向けるとアキオが立ち上がっていた。
壁にすがって歩き出そうとする。
「駄目よ、アキオ」
「行かせぬぞ」
アルメデとシミュラが同時に叫んだ。
アキオに走り寄り、抱き着いて止める。
そのまま彼を座らせる。
「落ち着いて、アキオ」
ゆっくり近づいたサフランが、彼の額に手を置いた。
「この声は、聴覚から聞こえているのではありませんね。どうも――ナノ・マシンが共鳴するような形で情報を受け取っているみたい。だから皆に歌詞が届く――」
「君の体にナノ・マシンはないだろう」
「さっきの爆発で体内に入ったのよ。微量だけど。この壕内の全員がそうでしょう――いえ、おそらく大陸中のヒトが……」
「300年前もそうだった――この付近ほど、濃い濃度と高エネルギーのグレイ・グーでないかぎり浸食される被害は出ないだろうが……今や、この世界の人間全員の体内に、ナノ・マシンが入ったはずだ」
「では、この歌を大陸中の人間が聞いているの?」
アルメデが呆然とつぶやく。
「いずれにせよ、歌声がするということは、ミーナがいるということだ」
「ダメよ、アキオ」
再び体を起こそうとするアキオを、少女ふたりが抑えた。
「ミーナ自身が歌っているというより、彼女の残留思考、思念というものが、この世界で共鳴している感じね――調べる必要がありそうです。いずれにせよ、アキオ。あなたはもう寝なさい」
そういうとサフランは、アキオの額に当てた手を僅かに緊張させた。
崩れるようにアキオが横に倒れる。
問いかける表情のアルメデに、オレンジの瞳の少女は笑いかけた。
「大丈夫、意識を奪っただけだから。でも、こんなに酷い状態の身体だったら、しばらくは眼を覚まさないでしょうね」
そこへ、サンドルが帰って来る。
「馬車の用意ができました」
心なしか強化兵の表情は明るい。
「外でも、あの歌が聞こえましたか?」
「はい。不思議な歌ですね。なんというか――悲しくて、でも元気が出てくる」
「そうじゃの――」
シミュラがうなずき、
「覚えておけ、この歌の名は、地球の蒼い空、というのだ」
「地球――」
「さあ、繭に包まれた子たちを馬車に運んで。すぐに出発します」
アルメデが宣言する。
「あなたたちは、もう少しここで待機していなさい。しばらくしたら、外に出ても安全なように状態を変えることができると思います」
「はっ、わかりました」
「では行きましょう」
「あっ」
その時、壕内の者が一斉に声を上げた。
美しく響いていた歌が終わったのだ。
「止まってしまいましたね」
「だが、皆は元気になった。良いタイミングの歌であった――あやつらしいの」
突如として襲い掛かった、空を覆う灰色の霧に怯える大陸中の人々。
彼らの耳に届いた切なくも美しい希望の歌は、それ以後、二度と聞こえることはなかった。
だが、それは確かに人々の心に、安らぎを与え、強く深い希望をつなぐ楔を打ち込んだのだ。