003.微温
アキオ・シュッツェ・ラミリス・モラミスは21世紀の末、東アジアの小国で生まれた。
当時、長引く気候変動と環境汚染で各国はより良い領土と資源――特に水を求め、統合と戦争をくりかえす状態となっていた。
テロとの戦いから国家の戦いに逆戻りしていたのだ。
いわゆる水戦争時代だ。
年単位で目まぐるしく統廃合をくりかえす国家に翻弄された人々は、自らの名前でルーツがわかるように、祖先の名を連ねた命名をするようになった。
アキオの父は、かつてユーラシアと呼ばれた地域の出身者である祖父と、南米と呼ばれた地域の出身者である祖母との間に生まれた男で、日本人である母と結ばれ、アキオが生まれたあと兵役で死んだ。
5歳で大国による無差別爆撃によって母を失ったアキオは、少年兵として各地を転戦することになったのだ――
「……」
アキオは朦朧としつつも意識を回復した。
まだ起きられる状態でないのを感じつつ、無理やり瞼を開ける。
すぐには目の焦点が合わない。
あたりは薄暗かった。
ここがどこなのかはわからない。
ただ――
体の上に心地良いぬくもりを感じた。
ナノ・マシンにとっては最高の熱源だ。
彼は、より暖かい場所を探して体を動かした。
すべすべとした感触が胸や腹の上を滑っていく。
なんという気持ち良さだろう。
目を閉じ、腕を動かして心地よい物体を抱きしめた。
「う」
物体が小さな音を出したのに驚いて再び目を開ける。
すぐ前に黒褐色の海とその中に光るふたつのかがやく宝石があった。
彼はよく夢を見る。
そして、そのすべては悪夢だ。
だが、こいつは――夢としても悪くない。
そう思いながら、アキオは再び暗黒の中に落ちていった。
アキオは、すっきりとした気分で目が覚めた。
ナノ・マシンの補助のおかげで、彼は寝起きの悪さとは無縁だ。
おそらく体調が戻ったので、マシンがアキオを覚醒させたのだろう。
目を閉じたまま深呼吸し、身体が回復しているのを実感する。
昨夜は、久しぶりに良い夢を見た。
そう思いながら目を開けると、目の前にヒトの顔があった。
女だ。
いや、まだ顔の輪郭に丸みを帯びた幼さが残っているので、少女と呼ぶべきだろうか。
これは、どうすべきか――
現状を認識して、アキオは考えた。
自分の体の上に、少女が乗って眠っているのだ。
彼女は、穏やかな寝息を立てていた。
その髪は艶やかな褐色の髪をしていた。
昨夜、彼を抱きしめていたのはこの少女だ。
アキオは、裸の上半身に触れる肌の感触で、彼女が一糸まとわぬ裸であることを知った。
と、同時に理解する。
おそらく、怪物と戦っていた小柄なフードの若者は、この少女だったのだろう。
彼女はアキオと怪物の戦いを見、崖でアキオが倒れているのを発見して、冷え切った彼の体を自身の体で温めてくれたのだ。
アキオは少女の背中に回した手を上げ、そっと髪に触れた。
少女の寝息がゆっくりと止まり、ぱっちりと目が開く。
次いで小さな口が動き、優し気な声を発した。
が、その言葉は――もし言葉であるとするならば、だが――アキオが聞いたことのない言語だった。
続けて少女は声を発するが、アキオには理解できない。
「君が助けてくれたんだな。ありがとう」
アキオは静かに言った。
おそらく意味は伝わらないだろう。
だが、経験でアキオは知っている。
言葉より、声音で気持ちは伝わるものだ。
少女は、上にかけた毛皮をはぐって起き上がった。
全裸のまま、前を隠そうともせずにアキオを見て微笑むと、そのまま、さっさとと服を着る。
アキオも、床に置かれていた自分の上着を身に着けた。
改めて見回すと、ごつごつした岩壁が頭上を覆っていた。
彼の寝ていたこの場所は、洞窟の内部のようだ。
ところどころに、ランタンのようなものが置かれ、オレンジ色の光を放っている。
洞窟自体がカーブしているのか、外への入り口は見えない。
少女は、アキオにそのままでいるように手で示すと、床に手をついて、四歩足で洞窟の奥へと歩いて行った。
しばらくすると、木の椀を持って帰ってくる。
アキオに食べろと身振りで示した。
「ありがとう」
その時になって初めて、彼は、少女が驚くほど美しい顔立ちをしていることに気づいた。
年齢は16、7歳というところだろう。
もっとも、美しいからといって、どうということはない。
目の前で微笑んでいるのは、XXの染色体をもつ生き物、彼にとってはそれだけのことだ。
アキオはうなずくと木の椀を受け取った。
器の中を見る。
具が少し入ったスープだった。
何が入っているかわからない汁物だが、ナノ・マシンの解毒作用を信じて、とりあえず口に含んでみる。
飲まないという選択肢はなかった。
目の前で期待に満ちた表情で飲むのを待たれては、飲まざるを得ない。
そのスープは、薄いながらもグレービー(肉汁)の味がした。
不味くはない。
とにかく、今は体を復元するための材料が必要なのだ。
アキオはスープを飲み始める。
少女は、しばらくの間、そんなアキオの横顔を真剣に見ていたが、やがて納得したのか、自分の分のスープを飲み始めた。
「ありがとう。うまかった」
食事を終えて口を拭った少女に、アキオは礼を言った。
少女は、にっと歯を見せて笑う。
言葉はわからなくとも、表情から礼を言っているのがわかるのだろう。
「昨夜は温めてくれたんだな。礼を言う」
彼の言葉に、少女は笑顔のままうなずいた。
身体は温まった。
偏ってはいるが栄養もとった。
いよいよ行動だ。
アキオは、あらためて洞窟を見渡した。
天井まで二メートルほど、幅は五メートルほどの大きさで、岩がむき出しになっている。
鍾乳洞ではないが、天然の洞穴らしい。
洞窟は緩やかに右にカーブしていて、アキオの位置からは、どちらの端も見えなかった。
壁にはいくつか窪みが作られ、道具や毛皮がおかれている。
床付近に、いくつか小さなランタンが置かれ、洞窟内をあたたかな光で満たしていた。
その全体からあふれる生活感で、この洞窟が狩猟などのための仮住まいではなく、少女の住居であるのがわかる。
だが――
ワイルドながら心地よい空間ではあるのだが、アキオは微妙な違和感を感じていた。
「少し、見せてもらう」
そういうと立ち上がり、洞窟内を歩きだす。
少女が後をついてくる。
予想通り、片方は洞窟の入り口で、反対側は行き止まりだった。
全体で20メートルほどだろうか。
アキオたちのいた場所は、その中間にあたる。
おそらく、この土地に到着した時に右手に見えた崖のどこかに、洞窟の入り口があるのだろう。
そうでなければ、意識不明の自分を、崖の淵からここまで小柄な少女が一人で運べるはずがない。
行き止まりは、キッチンになっていた。
調味料を入れた壺がいくつか並び、数種類の干し肉が天井からぶら下がっている。
道具類から見ても、これらの食材は少女が自分でつくったものではなさそうだ。
定期的にどこかから運ばれて来ているのだろう。
洞窟の入り口は、高さが1メートル、幅が1.5メートルほどの長方形になっていた。
扉はない。
入り口を小さくすることで外の寒気を防いでいるらしい。
片膝をついて外をのぞくと、止みかけてはいるものの雪が降っていた。
その時、アキオは、先ほどから感じていた違和感の理由を理解した。
温かすぎるのだ。
岩で囲まれた冷たい洞窟、外の雪。
ひと通り見てまわっても、暖をとる焚火ひとつないわりには洞窟内が快適すぎる。
「なぜ、ここはこんなに温かい」
体を起こしたアキオは少女に尋ねた。
だが、少女は答えない。
にこにこ笑うだけだ。
アキオはあたりを見回し、先ほどから洞窟内を照らしている小さなランタンらしいものに近づいた。
エネルギー源として目に見えるのはこれくらいだが――
手を近づけるとランタンから温もりを感じた。
明かりの大きさ以上の温度だ。
この光はおかしい。
光源が妙だ。
オイルランプのように芯を油につけて燃やしていると思っていたが、光っているのは石だろうか――
「――」
明かりに手を伸ばしたとたん、少女は猫が怒りを表すような声をあげて、アキオに飛びついてきた。
その顔に笑顔はない。
彼は少女を抱きかかえて止めた。
「わかった。触らない」
そういって、アキオは明かりから離れると少女をおろした。
ちょうど彼の顎のあたりに少女の頭がある。
髪を撫でて落ち着かせた。
そのまま、今度は離れたまま、目の位置を変えてランプを観察する。
金属で作られたフレームに、石が置かれているだけの簡単な構造だ。
そしてその石が光っている。
どういうことだ。
工学者としてのアキオの知識に『穏やかに自家発熱する発光石』の知識はない。
自分の知らない現象――
アキオの脳裏に昨日戦った怪物の姿がよみがえる。
「――」
入り口まで歩き、屈んで外に出ようとすると少女が止めた。
その静止を聞かずに、アキオは洞窟の外に這い出る。
雪はやんで白夜の太陽があたりを照らしていた。
アキオは立ち上がると、あたりを見回し、空を仰いだ。
うめくようにつぶやく。
「なんだあれは」
地平線近くの太陽とは別に、巨大な三つの月が天空に浮かんでいる。
「ここはいったい……」
背後に気配を感じて振り返ると、少女が立っていた。
やはり彼女は美しい生き物だった。
先ほど裸も見たし、なにより一晩、肌を合わせたから、よくわかる。
ほどよく筋肉をまとったしなやかな腕、引き締まったウエスト、腰、脚、そして――
少女の髪は、鮮やかな藍色をしていた。
今、彼女はエメラルド色の瞳で彼を見つめている。
アキオは再び天を仰いだ。
昨日から雪原を歩きながら感じていた違和感の原因は、3つの月だった。
ここは、アキオの世界に似てはいるが、全く別の他世界だったのだ。
どうしたものか。
いったん洞窟内にもどり、少女の前に座ったアキオは腕組みをした。
空に浮かぶ三つの月、GPSの不調。
使えないマップ。
見たことのない怪物。
彼の知らない発光石。
彼の世界には存在しない藍色の髪の少女。
考えたくはないが、すべての証拠が、この世界が彼のものとは『違う世界』であることを示している。
アキオは困ったように少女を見た。
彼女は、洞窟に戻ってから、ずっとアキオの前でもじもじしている。
時々、あーとかうーとかいう言葉を発しながら。
ここで見る少女の髪の色は褐色だった。
洞窟内の赤い光のせいで藍色が褐色に見えていたのだ。
アキオは少女を見、壁に立てかけたコフを見た。
あれから付近を捜して、樹林の端で雪に埋もれかけたコフを発見したのだった。
引きずって移動させ、洞窟の入り口から中に持ち込んだ。
その後すぐに空模様は怪しくなり、再び雪嵐が始まった。
コフの埋もれ方からすると、ブリザードの前に発見できたのは幸運だった。
アキオは、アーム・バンドを通じてミーナに連絡をとり、昨日からの経緯と現況、大雑把な今後の行動計画を伝えておく。
アーム・バンドは、昨日の戦闘でダメージを負っていたようだが、多少の損傷であれば、内部に仕込んだナノ・マシンによって自動修復するので問題なく使えた。
ジーナも同様で、材料が少ないために完全修復は望めないものの、1週間もあれば、陸路を自走するぐらいには修復できるはずだ。
ミーナには、ジーナの回復を最優先に作業をし、その後、待機するように命じておく。
同時に、彼女には、この奇妙な世界の調査と考察を命じておいたが、ミーナ自身は動けない上、頭脳の中核ともいうべきデータ・キューブを失っているので、大きな成果は期待はできないだろう。
データ・キューブ。
科学知識の塊。
あれさえあれば――
今すぐにでも探しに行きたいが、外は猛烈なブリザードなので、それは不可能だ。
もっとも、キューブについて、彼はそれほど心配していなかった。
この付近の過酷な自然環境では、人はめったに外で活動してはいないだろう。
盗まれる心配はほとんどない。
おまけにキューブは頑丈だ。
昨日の怪物でさえも、傷一つつけられなかっただろう。
怪物――アキオの脳裏に青い斑点の巨大生物がよみがえる。
あれはいったい何なのだろう。
他世界の生物、には違いないが、昨日の怪物の身体能力は異常といえるものだった。
特に、完全にかわした、と思ったのに、足をつかまれた時のあの動き。
その時に、怪物の体が光ったように見えたのも気になる……
さらにアキオは考える。
彼は、ついてない、と昨日思ったが、それは間違いだった。
今回の失敗は、完全に、彼の自己責任による失策だった。
使い慣れたP336さえ持っていれば、いやせめてNMCパックさえ持っていれば、あの程度の生物は、素手で仕留めることだってできたはずだった。
さらに、軽量化を優先させてナノ・マシンのエネルギー用ヒート・パックを持ってこなかったのも痛かった。
胸と背中に当てて発熱させるヒート・パックは、体内のナノ・マシンのパワフルなエネルギー源となるのだ。
アキオは唇の端を吊り上げた。
長年の研究生活で、かつては体にしみこんだはずの危険回避能力が著しく低下していたのだ。
加えて、この状況だ。
ランタンの件で、先ほど怒りを見せた後悔からか、少女と自分の距離がやたらと近い。
いつの間にか、向かい合った位置を離れ、少女は這い寄りながらアキオのすぐそばまで来ていた。
いや、もっとはっきり言ってしまえば、少女彼女は、彼の膝の上に乗ったり、背中から抱き着いたりと、とにかく密着しようとしているのだった。
なつかれること自体、悪い気はしないが、どの程度知能があるかわからない少女をどう扱うかが問題だった。
少女の知能――そう、問題は知能だ。
この世界の様々なことを少女に尋ねることができればよいのだが、今までの様子からどうもそれは無理なようだ。
彼女は言葉を話せないらしい。
それがこの世界全般のことなのか、彼女だけの問題なのか。
知りたいこと、知らねばならないことは山のようにある。
この世界は彼の世界、地球ではなく他世界なのだから。
極北を襲った爆弾は、核兵器ではなく、実配備が噂されていた爆縮を利用したスーパー・ノヴァだったのだろう。
おそらく、軍はその実験でエネルギー制御に失敗したのだ。
アキオは、ジーナから見た紫色の空間の裂け目を思い出す。
物質を破壊するためには過大すぎるエネルギーの解放によって。空間が裂けた可能性がある。
そして――
アキオは頭を振った。
今、そのことを考えても仕方がない。
現在、手元にあるのは、AIのミーナと自分を合わせても、ナノ・テクノロジーに特化された知識がほとんどだ。
紛失したデータ・キューブを回収できたら、その膨大な科学知識を用いて、次元移動のメカニズムを解析することができるかもしれない。