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020.魚眼(ミーナークシー)

 キイはザルドを走らせる。

 シュテラ・ナマドへと。

 彼女の友人のもとへと。

 その馬上、身を切る寒風を体に受けながら、彼女は、昨夜の会話を思い出す。


「行ったわね」

 アキオの足音が階下に消えると、ミーナがつぶやいた。

「これで、やっとあなたと本音で話ができる」

 その言い方に、キイは気味が悪くなった。

「何なのだ。お前は……」

「わたし?さあ、何かしら。アキオの相棒、研究助手、相談相手、主治医、心理カウンセラー、そして……限界、絶望」

「絶望?恋人や妻ではないのか」

 キイは、スピーカーから流れ出る笑い声を聞く。

「だったらいいんだけど。それは無理。わたしには体がないから」

「どういうことだ?」

「つまり、あなたたちの言う、『幽霊ハーリイ』みたいなものなのよ」

「ハーリイ……でも、さっきの会話。あんなに親し気で、どうして『絶望』なのだ」

「その話は今度しましょう。それよりも、アキオのこと――」

 ミーナは言葉を途切れさせた。

 まるで、胸がつまって声が出ないように。

 そして、せきを切ったように話し出す。

「はじめにお礼をいうわ。いいえ、その前に謝らないとね。さっきは、ごめんなさい。あなたがあんまり可愛いから、わたしの方がやきもちを焼いちゃったのよ」

「わたしは可愛くない。この姿は、他人の似姿にすがたなのだろう?偽物だ。偽物でもわたしはうれしいけど。でも、本当のわたしは可愛くない。もともとが筋肉の化け物だ。だから、もしわたしに子供ができたら、やっぱり化け物になるのだろうな」

「分かってないわね。あなたのその精神こころが美しく可愛いのよ。アキオもそう思ってるわ。わかるでしょう?彼はどんな美人でも『作り上げる』ことができる。だから本当は、あなたの見かけにそれほど興味はないの。でも、誤解しないで、審美的しんびてきには、あなたを美しいと思っているはずだから」

「しん………なんだ?」

「アキオは、あなたを綺麗だと思ってるってことよ。でも、それ以上に、あなたの行動や考え方が彼は好きなの」

「好き……なようには見えない。時たま、変なタイミングでわたしを褒めてくれるが」

 スピーカーの声が再び笑い、

「ごめんなさい。それは、わたしがいうように説得したから。でも、彼があなたを気に入っているのは本当よ」


「そうかな。でも、でも本当に、アキオの心にいるのは――」

「そうね、これから、その話をしたいの。アキオの――過去、そして悪夢について」

「悪夢……わたしも傭兵の戦士として、人が夜に夢にうなされる姿を多く見てきた。ゴランと激戦した夜なんか特にね。でも――」

「……」

「アキオほどひどく夢で苦しむ姿を見たことはない。アキオ自身は気がついていないようだけど。あんなに、あんなに苦しんで……いったい、何がアキオをあんなに苦しめる?そして、あの女の名前、ラムリ――」

「やめて!」

 鋭い声がキイの言葉を遮る。

「その女性ひとの名前はいわないで。たとえ、アキオがうなされて口走ったとしても。そして、約束して、決して(・・・)絶対に(・・・)、その名をアキオの前で口にしないって」

「――」

「誓って!」

「――分かったよ。誓う」


「気がついていると思うけど、わたしとアキオはもう何百年も生きているの」

「ナノクラフトで?」

「そうね。そして、彼は、そのほとんどの時間を、彼女・・を取り戻すためだけに使ってきた」

「取り戻す?誰から」

「神さまから」

「――?」

「冗談よ。彼女は眠っているの、その眠りを覚ますために、アキオは寝る時間も惜しんで研究を続けてる」

「眠ってる?それだけではないだろう。それだけで、人はあんな悪夢は見ない、うなされない……」


「そうね。もう少し正確にいいましょう」

 そういって、ミーナは間をあける。

「彼女が死んだとき――」

 キイは、はっとする。

「それはひどい有様だった。彼は、わずかに残った彼女の手首から、体を再生したの」

 キイは黙っている。

「当時はまだナノ・テクノロジー、ナノクラフトは未完成で、それこそ長い時間をかけてね」


 ミーナが続ける。


「彼女はアキオにとって特別な女性ひとだった。少年兵として育ち、激戦地を転戦し続けて、闘いしか知らなかった彼の心を開いた人。かたくなで固い殻に包まれたこころに根気よく水を与え、ついに芽ぶかせ、つぼみをもたせてくれた少女。花が咲く前に、彼女はいなくなったけれど、それでも彼は彼女によって人間となった。少なくともアキオはそう思ってるの――ごめんなさいね。キイ」


 想い人の心に、途方もなく大きい存在が住んでいることを教えてしまった女性に、ミーナが謝る。


「彼女がいなくなってしばらくは、アキオの状態はひどいものだった。

 何日も何週間も狂ったように泣き、叫び、わめき、安全のために、わたしが彼を閉じ込めた部屋の白い壁が、叩きつける手の血で真っ赤になるほどたけり狂った。

 やがて絶望が彼を包んだ。

 それからのアキオの意識レベルは死人同然だった。何も反応しない、見えない、聞こえない。ナノ・マシンを使って栄養補給だけは、わたしがしていたけど、それこそ生きるしかばねだった」


 風のようにザルドを駆けさせながら、涙で霞む目でキイは前方を見る。


「わたしは長い時間をかけて、彼を説得した。科学の力で彼女を取り返そうと。奪われたのなら奪い返そうと――やがてアキオは立ち上がり、――研究を開始した。キイ、あなた、アキオが怒るのを見たことがある?あなたの体を彼が男として触れたことが――ある?」

「――ない、な」

「アキオはナノ・マシンで、アドレナリンと脳内の化学物質を操作して、怒らず、女性に欲望を感じないようにコントロールしてるの。研究の邪魔にならないように」


 キイはアキオの穏やかな表情を思い出した。

 しかし、彼女はずっと彼の瞳の中に、静寂とは違う何かの光があるのを感じていたのだ。

 それは静かな怒りだった。


人間ひとは、孤独には耐えられない。いかに意思が強くても、機械で無理やり押さえつけても。

 わたしが今いう孤独というのは、精神的なものじゃないのよ。肉体的な孤独。具体的にいえば、肌と肌の接触による豊かな会話の欠落ね。

 科学的には長く軽視されてきたけれど、肉体接触による皮膚感覚、唇の味、匂い、など五感で通じ合う通信チャネルは想像以上に重要で影響が大きい。

 言葉による会話ならわたしができる。実際にそうしてきた。でも、心をもった生き物同士が肌と肌を合わせて得られる幸福をわたしは彼に与えられない!」


「わかる。わかるさ。人には、人のぬくもりが必要なんだ。きれいごとじゃなくて。わたしにはわかる!」

 叫ぶようにキイがいう。

「この世界に来てからのアキオのバイタル、体の調子を調べさせてもらったの。彼は怒るだろうけど、こっそりとね。精神的な安定が、すごく良くなってた。本当のところ、彼の精神は限界にきていたの。手を伸ばしても届かない研究の成果に絶望しかかって――」

「――」

「もう一度いうわ、ありがとう、キイ。アキオを救ってくれて」

「うなされそうな時、しっかり抱きしめると、アキオは安心したように静かになるんだ」

「そう、それこそが、あなたたち肉の体を持つ人だけができること。あなたの思いも、きっと肌からアキオに伝わっているはずよ」


 そうキイに伝えながら、ミーナは思う。

 そのことは、カマラも知っていたのだ、と。

 アキオとの別れの時に、独りで寝たら死ぬ、と彼女は言った。

 それは、自分自身と共にアキオを思ってのことだったのだろう。


「これからもアキオをよろしくね」

 わかった、と言いかけて、キイはあることに気づく。


「さっき、あなたは何百年も生きているといった」

「そうよ。わたしは278年生きてるわ。あなたたちの暦でいうと、もう少し短くなるけど」

「そのあいだ、ずっと、アキオはあなたと研究していた?」

「そうね」

「だったら、アキオは、ずっとあの悪夢を――」

「毎晩じゃないけど、ずっとね」

 少し黙り、ミーナは続ける。

「心の自衛本能で彼は覚えていない、いいえ気づかないようにしているけど」

 キイは茫然とする。ヒトの心はそれほどの長い期間の苦しみに耐えられるのだろうか。

「あなたは、あなたはずっとアキオの苦しみを見ていたのか……」

「そう、見ていた。聞いていた。何もできないままずっとね!わたしには、彼を抱きしめる体がないから」

 叫ぶような声で言い、

「だから、わたしは、彼がこの世界に来て良かったと思っているの。わたし以外の他人と一切の接触を断って研究を続ける毎日。彼女を失って以来、彼は、向こうの世界では事実上存在しない幽霊ハーリイだった。さまざまな名前を使い分けて技術を発表していたけれど、誰も彼自身の存在には気づいていない幽霊ハーリイだったから……でも、この世界で、彼は肉体を持った人間になった。あなたたちのおかげで……」


「そんなにつらい思いを……でも、でもアキオは、彼は優しい人だ」


「ありがとう、キイ。彼をわかってくれて。そう、本質的にアキオは優しい。彼自身は自分を殺人機械キリングマシーンだと思っているけど……わたしは思うの。信じられないほど残酷な血の海を泳ぎ渡って、大切な者をなくして傷つきながら、その本質は汚れを知らず無垢むくなまま辿たどりついて、今の地平に立つ彼が心底愛おしいと」


 キイは、アキオの微笑みと肌の温もりを思い出し、涙ぐむ。


「だから、もう一度いうわ。キイ、彼をよろしくね」

 落ち着きを取り戻した声が言う。

「わかったよ――ミナクシさん」

「ミーナって呼んで。本当の名前じゃないけど、結構気に入ってるから、わたしたちの世界では、ミーナークシー、魚の目を持つ女神って意味だけどね。アキオとあなたたちのことを大きな目で見張ってる」

 そういって、アハハと笑う。

「ミーナさん。あなたは素敵なひとだな。優しくて、なんでも知っている……」

「ただ歳をとってるだけよ」

「わたしにはいないが、姉さんみたいだ」

「いいわよ、お姉さんで。ミーナ姉さんって呼んで」

「わかった」

「さあ、そろそろ時間よ。下に行って、アキオを呼んできて」

「了解。ミーナ姉さん」


 そう言って扉を開けようとするキイをミーナは呼び止める。


「キイ、あなたはさっき、自分に生まれてくる子供が怪物だっていってたわね」

「そうだ。わたしは見かけが変わっただけで、中身は前と同じだから」

「もとのあなたを怪物とは思わないけど――キイ、ナノクラフトをナメないで」

「姉さん……」

「アキオはいわなかっただろうけど、すでにあなたの遺伝子も今の容姿に合わせて変えてあるのよ。承諾も取らずにもうしわけないけど」

「どういうことだ」

「つまり、あなたが産む子供は、今のあなたの姿を受け継いでいるっていうこと」


 あの時の気持ちを思い出して、キイは泣きそうになる。


 アキオのことは心配だ。

 だが、アキオは彼女に命令を与えた。

 独りでやって、成果を報告に来い、と。

 今はその信頼に応えるため、一刻も早く、シュテラ・ナマドに到着するのだ。

 そしてマクスを助ける。


 そう考えて、キイはさらにザルドの速度を上げた。

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