198.科学
「わたしたちがこの世界に来て最初に考えたのは――」
「食料の確保か」
言いながら、アキオは、大きな手でアルメデの髪をさらさらと撫でる。
「な、なぜ髪を?」
思いがけないアキオの愛撫に驚いた彼女が尋ねる。
「短い――」
「アキオは、長い方が好きですか」
「いや――キィに気を使ったのか」
「いいえ」
答えながらアルメデは笑顔を見せた。
アキオは、彼なりに、自分とキイのことを気にかけてくれているのだ。
「一度、短くしてみたかったのです。王族として常に長い髪を義務付けられていましたから」
彼は、さらにアルメデの髪を撫で、最後に前髪をかき上げて彼女の目を見て言う。
「似合っている」
「あ、ありがとう。でも――恥ずかしいから」
アルメデは、アキオの手を持って髪からはずし、彼の腕を胸に抱き込むようにして続ける。
「食料に関しては、それほど苦労はしませんでした。雷鳥の被害は最小限でしたし、非常食もかなりな量が積み込まれていましたから。慌てずに、この世界での身の振り方を考えられると思ったのです。しかし、すぐに問題が発覚しました」
「キラル症候群による栄養摂取障害だな」
「はい。わたしとカイネ以外、この地の食べ物から栄養を摂取できないことがわかったのです。そこで、わたしたちは役割を分担しました。クロイツたちはキラル症候群の対処を、わたしとカイネは、着陸した大陸に存在する国の調査と、できればその掌握を――飛行中の雷鳥の計測データで、人の住む国らしきものがあるのは分かっていましたから。そこでわたしとカイネは、その国、カスバス王国の中心部へ赴いたのです」
「君たちふたりで」
「アキオのいいたいことはわかります。確かに、見知らぬ土地で、女ふたりの行動は何かと不便ですし危険です。そこでカイネの希望で、彼女の容姿をキルスに似せて変えることにしました」
アキオは、先ほどアルメデが、枕元に置いたバンドに目をやる。
カイネはうなずき、
「機能は限定されていますが、いろいろなことができるリスト・バンドです。これを使ってカイネの容姿をキルスに似せたのです」
「――ミーナが渡したのか」
「はい、わたしの60回目の誕生日に送ってくれました。赤いストールと一緒に。何かのお祝いだといっていましたが――申し訳ないことに、その時の荷物の運送経路から、あなたの研究所の、おおよその位置が暴かれてしまい、そこに向けてミサイルが発射されてしまったのです」
「気にするな」
「ありがとう、アキオ――さっきもいったように、カイネは一年足らずで、カスバス王国を掌握し、ほぼ支配下におさめてしまいました。彼女は、こちらに来た当初から、精力的に国家を手に入れようとしていたのです。雷鳥の機器を使い、科学力を高位魔法に見せかけて」
アルメデは、軽くため息をついて、
「本当に、皮肉なものです。本物の魔法のある国の住人を、科学を使った『魔法』で騙したのですから――おそらく、この世界に来ているであろうキルスを見つけるために、まずは、国の力が必要だと考えたのでしょう」
「だが、奴が来たのは一年後か」
「ええ、クロイツが、キラル症候群の対処と並行して見つけ出した次元変動予測通りに、1年後にキルスが現れました。わたしたちは雷鳥を飛ばし、半壊したミサイルからキルスを救い出したのです。その時には、科学者は全員亡くなっていましたが、それまでにカイネが操縦を習っていたのです」
話しながら、アルメデは老科学者の最期を思い出していた。
「クロイツ」
アルメデの呼びかけに、やせ衰えた体の老博士は瞼を震わせた。
「すみませんでした。あなたをこの世界に連れてきたわたしの責任です」
「それは……違います」
クロイツは、うっすらと目を開けて言った。
「わたしが……望んで来たのです」
「なぜ、ついて来たのです。研究所に残っていれば、こうなることもなく、今も研究を続けられたでしょうに」
「アルメデさま――あなたは、昔と変わらず、花のように美しい」
老科学者は、その目に温かい色を宿して言う。
「ありがとう」
「初めてあなたを見たのは10代の学生の頃でした。その頃のわたしは、成績こそ優秀でしたが人生に何の目標もなく、ただ漠然と医者にでもなろうかと考えていました。その日も、友人に誘われて、ほんの軽い気持ちで王立研究所を見学に行ったのです」
クロイツは苦し気に息を継ぐ。
「そびえ立つ白亜の門と、そこで輝く方位磁石の美しいマークを今も覚えています」
「王立科学研究所の創始者の妻がデザインしたそうです」
「もちろん、一介の見学者に重要施設が公開されるはずもなく、通り一遍の説明を受けて帰ろうとした時、アルメデさまが来られたのです。恥ずかしながら、当時のわたしは勉強ばかりしていて、祖国の女王さまの顔すら満足に知りませんでした。お美しいとのうわさは聞いておりましたが、それすら信じてはいませんでした。ですが――」
クロイツは微笑み、
「研究所の自動ドアが開き、あなたが入ってこられた時――まるで、単色だった世界が、突然、色鮮やかな総天然色に変わったようにわたしは感じました。あなたは、入り口で立ち尽くすわたしに名を尋ねられ、わたしが医学の道へ進むつもりだというと、それも素晴らしい進路ではあるけれど、できればトルメアのために科学を修めて欲しいと仰られました。科学の進歩こそ、トルメアを、ひいては世界をより良い場所へ導く羅針盤になるのだと――希望に満ちた、光り輝く碧い瞳で未来を語られるお姿を見て、わたしは、この国の科学に身を捧げる覚悟を決めたのです」
「わたしは、ことの初めから、あなたの人生を変えてしまっていたのですね。申し訳ありません」
「いいえ。わたしの人生は幸せでした。希望通り研究所に入所したわたしは、お忙しい中も三日にあげず顔を見せられて、研究員を励まされるアルメデさまのお言葉を聞きながら研究に打ち込んできたのです」
「今、考えると迷惑だったかもしれませんね。上の者が頻繁に顔を見せるのは」
「そんなことはありません。アルメデさまは来られる度に、わたしたちの取り組む新技術が生み出す未来について語られました。研究に行き詰まり、才能がないと嘆くわたしたちに、倦まず問題に楔を打ち続けることこそが科学者に必須の才能なのだと励ましてくださった」
「自分で研究もせずに、生意気をいいました。ごめんなさい」
「そんな悲しい顔をなさらないでください――最期なので、いわせてもらいます。わたしは、アルメデさまに恋をしていたのです。わたしだけではありません。先に逝った仲間たち、ジェフリー、ブラウン、ロバート、エドワード、ニック、パウル、全員がそうでした。あなたは、わたしたち科学者の学術の女神でした。励まし、啓発し、霊感を与えてくれる――ある研究が頓挫し、何もかも嫌になって放擲したくなった時も、あなたの、『科学という炎は、失敗という薪と、決して諦めない熱意がない限り燃え上がらないものです。あなたたちは、新しい薪を手に入れたことを誇らねばなりません』という言葉を聞いて、震える膝を自分で叩いてでも立ち上がろうという気になったものです」
「クロイツ――」
アルメデは、年老いて見えるものの、実際は彼女よりはるかに年下の科学者の手を取った。
「アルメデさま。キラル症候群は、克服できませんでしたが、次元変動予測は、間違っていないという自信があります。ですから、期待してお待ちください。あなたさまの想い人は、必ず、この地に来ます。せっかくトルメアという重荷を下ろされたのですから――今後は自由に生きてください」
クロイツの最期の言葉は、彼女の胸に深く沁みた。
「キルスは俺を憎んでいるのか」
アキオの静かな問いかけに、アルメデは、現実に引きもどされた。
ゆるゆると首を振る。
「わかりません」
「わからない」
「ミサイルから救出したキルスは、爆縮の炎熱で体の大部分を失い、意識を失ったまま20年近く眠り続けているのです」
「そうか――次元転移の影響かもしれない」
アキオはつぶやく。
普通なら、かなり身体を欠損していても、栄養と熱量さえ与えれば、ナノ・マシンが修復してくれるはずなのだ。
「わたしたちもそう思っていました」
「違うのか」
「わたしの脱出時に、ミーナが原因を見つけて彼を治療をしてくれました、時間はかかるかもしれませんが回復するはずです。ナノ・マシンがリセットされていなかったのが原因だそうです」
そう言って、アルメデは、簡潔にアキオに説明した。
「それは盲点だな」
「ミーナもそういっていました。だからキルスは大丈夫です。今度会ったら、先ほどの答えもわかるでしょう」
「――今、西の国で動いているのは、カイネが化けたキルスだな」
「そうです。あの娘は、もう長い間わたしの前では自分本来の姿に戻ってはいません」
アキオは、延命措置をした時のカイネを思い出す。
痩せて、冷めた目をした娘だった。
今、聞いた話と、今日、各地で男たちを締め上げて手に入れた情報とを組み合わせると、どうやら、今回、何かを企んでいるのは、カイネという娘だと考えて間違いなさそうだ。