190.急転
「あら、キルス、珍しいわね」
アルメデが書類から顔を上げて言った。
いつもはカイネが持参する書類を、宰相自ら運んできたからだ。
「一週間後のアンマ共和国統合3周年記念式典の最終進行表が出来上がりました。目を通してください」
そういって、キルスが差し出すファイルをアルメデは受け取った。
彼女は、キルスやカイネから渡される仕事を決して後回しにしない。
彼らが、最善の順番でそれらを彼女に渡していることを知っているからだ。
アルメデは、吸い込まれそうに澄んだ碧い瞳で書類に目を通すと、手にしたペンで何ヶ所か書き込みをし、キルスに返した。
「それで良いと思います。ただ、書類にも記入しましたが、王宮庭園に出すパンの出店には、『地球の蒼い空』も加えておいて――」
アルメデは、キルスの困惑したような表情に言葉を途切らせる。
「何かおかしなことをいいましたか」
「確か、その店名のパン屋は、5年前になくなったかと――カイネがそういっていた記憶があります」
「そうでしたか。このところ市井にも出向きませんでしたから、知りませんでした。長生きするのも良くありませんね。何世代も続いたパン屋が、先に潰れてしまうのですから――わかりました。ならば、先ほどの指示は取り消します」
「承知しました」
「あ、キルス」
一礼して去って行こうとする宰相を女王が呼び止める。
「今日、カイネはどうしたのです」
「王立軍研究所の爆縮弾搭載用ミサイルの発射実験の視察に行っています」
「そうでしたか――爆縮弾はステファノ元帥が推進していた超強力爆弾ですね。あれほど強力な力は、地球そのものを歪ませてしまうから必要ないと思うのですが」
「確かにそうです。世界が統一されつつある現在では、抑止力としての効果も意味ありません。意味があるとすれば――」
「あるとすれば?」
「我々の世界以外から、つまり宇宙からやって来る規格外の生物に対してのみでしょう」
「ならば、研究そのものを停止させた方が良いかもしれませんね」
「そうですが――あれは余命わずかなスタンの最後の仕事なので、完遂させてやりたいのです。女王さま」
「そうですか」
「それに、地球統合が為されれば、我々は目を宇宙に向けることになるでしょう。その時に爆縮技術は役に立つはずです」
「頭のよい説得ですね、キルス。わかりました。様子を見ましょう」
「ありがとうございます」
軽く頭を下げた宰相は、少しの間、何かを考えるような表情になり、執務室を出て行った。
しばらくして、キルスは栗色の髪を肩のあたりで揺らす若い女性を連れて戻ってくる。
大きな目と鼻のあたりにあるソバカスが、コケティッシュな魅力を醸し出している娘だ。
「女王さま」
宰相の呼びかけに応じて、アルメデが顔を上げる。
「先ほどの話なのですが――」
そういって、キルスは、女王と宰相を前に緊張で体をこわばらせている娘を見た。
「この者は機械化兵部隊作戦部付の秘書官です――お話しろ」
「は、はい。わたしはテレーズ・マミス一等秘書官です。先ほど宰相さまがお尋ねになられた件についてお話します。王都中央のマリア通りにありました『地球の蒼い空』というパン屋は、5年前になくなりました」
「そう聞きました」
「そ、それはですね。先代である9代目が晩婚で子供を作らなかったからです。ですが、技術は弟子がしっかり受けついて、同じ場所に『蒼い空』というパン屋を開業しています」
「まぁ」
アルメデが少女のような声をあげ、テレーズが目を丸くする。
「すると、あのシュトゥーテンやカイザーゼンメルを、まだ食べることができるのですね」
「はい!黒い森のパンもお勧めです」
「ありがとう、テレーズ。実をいうと、もうあのパンを食べられないと思って悲しくなっていたのです」
「お役に立てて光栄です。女王さま」
娘が去ると、アルメデはキルスに向き直った。
「礼をいいます。キルス」
「いえ、こちらこそ、中途半端な情報をお教えして申し訳ありませんでした」
「わたしが悲しんだから、わざわざあの娘を探し出してくれたのですね。あまり表には出てきませんが、あなたには優しいところがあります」
「恐縮です」
軽く頭を下げてキルスは出て行く。
しばらくして、執務室のインターフォンが音を発した。
「何でしょう」
アルメデが出ると、ディスプレイに映った相手の表情に緊張が走った。
「じょ、女王陛下さま――キルス宰相はそちらに居られるでしょうか」
「ここにはいません」
「わかりました」
「お待ちなさい。あなた、顔色が悪いわ。何か問題が発生したの」
「いえ――」
「報告しなさい」
「わかりました。秘密裏に、ステファノ元帥がミサイル実験機へプロトタイプの爆縮弾を積み込んでおられるようなのです。わたしは、先ほど偶然にそれを知って、宰相にお知らせしようと――」
「スタンが――」
続く、なぜ、という言葉はアルメデから発せられなかった。
彼が、そんなことをする理由は一つだからだ。
「やめさせなさい」
ひと声そう叫ぶと、通話をそのままに、彼女は駆けだした。
筋肉と心肺能力の酷使を察知して、自動的にナノ・マシンが、軽度身体強化を行い、トップ・アスリート並みの速さで高い城の通路を駆け抜けていく。
普段、髪留め代わりに使っている簡素なティアラが風で抜け落ちて床に転がり、自由になった豊かな金色の髪が、波のうねりのように背後になびいた。
すれ違う男女は、初めて目にする躍動的な女王の美しいストライドに目を見張る。
彼女の頭の中で、これまでのスタンの行動の数々が一本につながっていた。
最初からあったアキオへの反感。
アキオによる彼の愛したクイーンズ・ランスの破壊。
メイヒルズの死がアキオの実験によるものだという誤解。
科学兵器開発部の部長であった経歴と元帥の肩書を使った、現状では不必要な超破壊爆弾の強引な開発。
――スタンは、アキオを殺そうとしている。
アルメデは飛ぶように階段を駆け下り、驚く衛兵たちを後目に、高い城の地上4階から渡り廊下でつながる兵器研究所へ駆け続けた。