188.怨情
時は、戻ることのない潮流のようにゆっくりと確実に流れていく。
それにつれて、トルメア王国は拡大を続け、ついに世界をひとつにする最終局面に到達した。
先年、ついに王国はアンマ共和国を併合したのだった。
残るただ一つの大国は、古ノルド王国だが、世界の9割5分を手に入れた王国に、たかが北ヨーロッパの地方国が対抗できるはずがなかった。
あと少しで、100年前、若き女王が目指した世界の統一がなされるのだ。
時計に目をやり、時刻が深夜を回っているのを知ったキルスは、執務室の机から顔を上げて無意識に軽く伸びをして苦笑した。
別に硬直した身体をほぐしたいわけではなかった。
延命措置を受けてから、身体の不調で悩むことはほとんどない。
ただ、普通の人間であった頃の記憶で反射的にそう動いているだけだ。
不老になってから、ほぼ100年。
彼の年齢は130歳を超えていた。
だが、肉体年齢は措置を受けた27歳のまま、というより成人前の黄金期に戻っていた。
老化が止まり、寿命が伸びる前は、それによって、後の自分がどう変わるのかということには考えが至らなかった。
ただ、精神的には何の変化もなく、衰えと疲れを知らぬまま、変わらず仕事ができるだけだと考えていたのだ。
そして、100年経った現在、彼はどう感じているのか?
驚くべきことなのか、それが当然なのか、現実は措置前に漠然と予想したとおりだった。
彼の思想、思考、性癖は100年前とほとんど変わっていなかったのだ。
日々、書類に目を通し、能力を駆使して仕事をこなす。
毎日を精力的に動き回り、王国の運営を潤滑にし、勢力圏を拡大し続けてきた。
鋼鉄の処女と対になる鉄血宰相と呼ばれながら。
それを繰り返しているうち、瞬く間に100年が過ぎ去ってしまったという感じだった。
ひとり孤独に過ごしていれば、何か違った感情も持ったかもしれない。
しかし彼は独りではなかった。
自分だけが歳をとらなければ、違和感も感じただろう。
だが彼の傍には常にカイネがいたし、彼自身はアルメデ女王の傍に控えていたため、孤独は微塵も感じなかった。
この100年、女王は常に変わらず美しく聡明で、時に優しく時に峻厳だった。
延命措置を受けたことを公表した際には、長期独裁制への反発や妬みから、王家に対する反発も多かったが、彼女は、内に対しては潔癖を以て、外にたいしては苛烈さで臨むことで、そういった声を消し去った。
最終的に、王国内を『地球で一番美しく聡明な人』に治められることこそ幸せなのだ、という論調が大勢を占めたのだ。
アルメデは嫌がったが、プロパガンダを用いて、彼とカイネが、そのように世論を操作したのだった。
カイネ――
彼女は素晴らしく有能な女性だ。
よくぞマリアは、このような逸材を、残していってくれたものだと思う。
カイネは、一見冷徹で、他者の行為や感情に無関心に見えるが、実際は何事にも気がつき、気もよく回る理想の補佐官だ。
そう考えたところで、彼は伸びをしてから感じていた違和感の原因を知った。
いつもなら、彼が、ひと息つくと同時にカイネが紅茶か珈琲を持ってくるのだ。
キルスは軽く頭を横に振る。
いつもは、彼に合わせて深夜まで執務室に残っている彼女だが、明日はメイヒルズ・ユルノの命日なので、今夜は早めに彼女を帰したのだ。
彼は、執務室横に作られている簡易厨房に入った。
高い城では、常在戦場の意識を示すため、伝統的に執務室付属のキッチンを戦時に倣ってそう呼ぶ。
普段、キルスは、めったに飲み物を自分では用意しない。
何を飲むかも自分では決めない。
90年近く前から、どんな飲み物にするかをカイネに一任しているのだ。
食べ物に拘泥しない彼も、仕事の合間にとる飲み物にだけはうるさかった。
珈琲なら豆の種類から煎り加減、ブレンドの比率まで指示するし、紅茶は産地にまでこだわる。
最初のうちは、彼がカイネに指示していたのだが、ある時、カイネが自主的に持ってきたキーマ茶を飲んだキルスは、それこそが自分が飲みたかったものだったことに気づいたのだった。
自分では珈琲を頼もうと考えていたのだが、身体が欲しがっていたのはキーマ茶だった。
カイネの方が、彼自身より自分のことをよくわかっている――それは新鮮な驚きだった。
以来、キルスは仕事の合間の飲み物は、すべてカイネに任せているのだ。
簡易厨房内を見渡した彼は、思いついて執務室を後にした。
足早に人気のない広い廊下を歩く。
目指す女王執務室の扉の隙間からは明かりが漏れていて、アルメデがまだ在室していることが分かった。
キルスは、扉の前に立つと、大きくひとつ呼吸をして正確に3回ノックした。
初めの頃、国際標準マナーにしたがって4回ノックしていたのだが、3回にしろと注意されて改めたのだ。
ちなみに、ノック2回はトイレ用、ノック3回は親しい相手、4回以上のノックは礼儀が必要な相手となる。
しばらく待つが返事がない。
もう一度ノックして、なお返事がないため、
「失礼します」
そう言って扉を開けた。
室内に女王の姿はなかった。
机の上の開かれた書類とペン類の様子から、彼女が一時的に席を外していることがわかる。
キルスは、執務室を出ると、さらに廊下を歩く。
しばらく歩くと廊下の照明が消されていた。
アルメデの命令で、王宮であろうと、人気のない通路は消灯することになっているのだ。
彼は考え事をしながら薄暗い廊下を歩いていく。
明かりが消えることで、月光が窓から差し込んでいることに気づいた。
今宵は満月なのか、廊下を照らす青白い光の列が、はるか遠くまで続いて、一種幻想的な光景となっている。
キルスは、立ち止まって窓から外を眺め、バルコニーに人影があることに気づいた。
アルメデだ。
王女は、バルコニーの手すりに斜めに座り、石飾りのグリフォンにもたれて月を仰いでいる。
なぜ、あんなところに。
寒熱冷暑は、ナノ・マシンでなんとかなるが、もし突き落とされでもしたらどうする――
そう考えたキルスは、バルコニーへ出る扉へ向かおうとし――足が止まった。
アルメデの頬が涙で光っていることに気づいたからだ。
鉄血宰相は、虚を衝かれ、目を見張る。
あの気丈な、気の強い、負けず嫌いのアルメデが泣いている――
この時、100年を超える付き合いの中で、キルスは彼女が泣くのを見たことがないことに、初めて気づいたのだった。
女王は、静かに涙を流していた。
感情の高ぶりで泣いているのでないことは、その表情からもわかる。
ただ、あふれる涙を流れるに任せているようだ。
――これは、なんだ。
彼の胸を内側から激しく叩く何かがあった。
久しく忘れていた心臓の鼓動だ。
月の光に輝く金色の髪、細いうなじ、震える美しい鎖骨、そして、濡れ光る頬――
心臓の鼓動を感じると共に、宰相は、それとは別に、何か得体のしれない野獣のような、制御できない気持ちが沸き起こるのを感じていた。
アルメデは、単純な悲しみで泣いているのではない。
エヴァの死に臨んでも涙ひとつ零さなかった女性だ。
彼女が涙を流す理由――
100年の、共に過ごした時間が、彼に彼女の気持ちを理解させてしまった。
アルメデは、あの男を想って泣いているのだ。
それは、単に寂しいからでも、辛いからでも、悲しいからでもない。
そんな単調な感情でない。
遠く離れた男を想って、ともに過ごした時間を思い出し、その多幸感と、それゆえの寂寥と――要は、アルメデは、あの小さく幼く生意気で、利発で勝ち気で多感だった女の子は、大人の女性として、ひとりの男に恋い焦がれて涙を流しているのだ。
理由の分からない焦燥感に身を焦がされて、拳を握りしめ、キルスは廊下に立ち尽くした――
やがて、アルメデが涙をぬぐい、手すりから滑り降りるのを見て、彼は足早に自室に戻った。
簡易厨房に入り、保冷庫を開けて茶葉の缶を取り出し、手早くカモミール茶をポットに落とし込んだ。
ジャーマン・カモミール100パーセントの茶葉だ。
そのまま、ポットに熱湯を注いで、専用の保温カバーではなく、ニット・キャップを被せた。
アダムに教わった方法だ。
この習慣を100年以上続け、いつしかカイネも同じ方法でお茶を入れるようになっている。
トレイにポットとカップを二つ乗せて、部屋を出た。
女王の執務室まで歩き、扉をノックする。
「キルスです」
「どうぞ」
今度は返事があった。
後ろ手にトレイを持ち、扉を開けて中に入る。
「どうしました?こんな夜更けに」
机に座ったまま、怪訝そうに彼を見つめるアルメデに近づき、トレイを前に回して、デスクに置いた。
「お茶を入れました。一緒に飲みませんか」
「まあ」
アルメデが、ぱっと花が咲くような美しい笑顔を浮かべ、キルスは胸がまた苦しくなる。
「珍しいですね。あなたがお茶を入れてくれるなんて――」
「いつもは誰かが先に入れてしまいますので。幸い、今夜は誰も邪魔者がおりませんから」
そういって、カップとソーサーをアルメデの前に置く。
ニット・キャップを取り去って、カップに茶を注いだ。
「あなたの冗談を聞くのは何年ぶり、いえ何十年ぶりかしら」
そう言って、美貌の女王はクルクルと愛らしく笑い、しみじみとした口調になる。
「普通なら、お年寄りの会話よね――ああ、カモミール茶ね。嬉しいわ。ありがとう」
そういって、アルメデは、デスクの前に置かれた来客用のテーブルにカップを置いてソファに腰掛ける。
キルスも、カップを手にして、向かいのソファに座った。
「いただくわね」
アルメデが、王族らしい上品さでカップを口に運ぶ。
キルスはしばらくそれを眺めていたが、やがて自分もカップに口をつけた。
しばらくふたりは無言でお茶を飲んでいたが、ふいにアルメデがカップをソーサーに置いて居住まいをただした。
「あのね、キルス。わたし、先ほど、あることを決めました」
「はい」
「落ち着いて聞いてね――もう少ししたら、この国をあなたに渡して、わたしは王国を出ようと思います」
どこに行くのか、と彼は尋ねなかった。
分かりきったことだからだ。
「しかし、世界の統一は未だ道半ばです。古ノルド王国も――」
「キルス、そんなことは問題ではないでしょう。この国には、あなたがいる。あなたとカイネがいれば、この国は大丈夫。わたしは必要ありません」
「あなたが必要ないわけがありません」
珍しく、声を荒らげる宰相に対して、アルメデは、姉のような母のような微笑みを浮かべた。
いつの間にか――あの小さく、幼い天才少女は、包み込むような大人の笑みを浮かべるようになっていたのだ。
彼女は、とうの昔に、いやおそらくことの初めから、国よりも民よりも彼よりも誰よりも、ひとりの男を愛しているのだ。
そして、彼自身もとうにその事実に気がつきながら、気づかぬふりを、見て見ぬふりをしていたのだ。
その事実がさらにキルスの胸を締め付ける。
「必要かもしれません。でも――もう許して、キルス。わたしを行かせて。王位継承権最下位の王女として生まれ、あなたの力で女王になって100年余り、飢饉を減らし、水不足を解消し、大戦争を抑えてここまで来ました。さいわい、もうこの国は大丈夫です。だからわたしは女王ではなく、ひとりのアルメデとして残り20年の寿命を生きたいのです」
「あなたは、あの男の許に行こうとしておられるのでしょう。そこでなら、永遠の命を手に入れられる」
「キルス……」
テーブルに置いた彼の手に、暖かく乾いた手が重ねられる。
「それは不公平ですね。でも、この世界に不死の人間は不要です。ですから、わたしは最初から再度の延命措置を受けようとは思っていません。残り20年を、愛しい人の傍で過ごしたいと願っているだけなのです」
「アルメデ――」
「名前で呼んでくれるのは100年ぶりですね」
女王は、しばらく目を伏せ、やがて顔をあげると言った。
「キルス・ノオト。トルメア王国にかけて誓いましょう。わたしだけが再度の延命措置を受けることは決してありません。わたしとあなたは、あと20年でこの世を去るのです」
キルスは立ち上がった。
その勢いでカップが倒れ、茶がこぼれる。
「キルス」
女王の呼び声に答えず宰相は部屋を出た。
頭がうまく働かなかった。
月の光に照らされたアルメデを見て、彼は、もう、はっきりと自分の気持ちに気づいてしまった。
あと20年で死ぬことなど、なんでもなかった。
ナニモノでもなかった、ゴミ同然のちっぽけなキルス・ノオトは、地球最大の国家の宰相となって、世界統一を成し遂げたのだ。
自身の存在価値の証明はもう為されている。
アルメデとは100年を共に生きた。
だが――彼は廊下を歩きながら、自身の欲深さに、恐れ慄いた。
今の自分は、共に生きた100年を大切にするより、彼女と共に死ぬことを望んでいるのだ。