182.カインの末、
彼女は、冷たいベッドで寝がえりを打った。
眠れぬ夜を過ごして、何日が過ぎたのだろう。
昼の間は、いつものように、そつなく仕事をこなしているが――
独りの部屋に帰ると、これまで感じたことのない孤独に襲われて眠ることができないのだ。
機械的に眠ろうと思えば、ナノ・マシンに命じて眠ることはできる。
だが、そんなことはしたくなかった。
眠れないなら、ずっと眠らなければ良い。
そもそも、少々眠らなくとも、体内を泳ぐ微小機械のおかげで、体調不良になることなどほとんどないのだ。
ふと、頬に違和感を感じて手を触れ、カイネは自分が泣いていることに気づいた。
ああ、また自分は泣いている――
彼女は、ベッドに寝て、涙を流す自分自身の姿を客観的に脳裏に思い浮かべた。
メイヒルズがいなくなって、彼女はどれぐらい泣いたことだろう。
初めのうち、彼女は、自分が涙を流す生き物であったことが信じられなかった。
だが、現に涙はとめどなく流れ続けている。
かつて、心の内側を満たしていた暖かいものは、涙と共にすべて流れ去って、再び彼女は空っぽになった。
彼女を愛してくれたメイヒルズは、この世から消えてしまったのだ。
カイネは自分の右手を胸に抱きしめる。
最後に彼と会って食事をした後、別れ際に彼が、おずおずと差し出した手に触れた右手だった。
メイヒルズの手は、乾いて暖かく、思ったより大きかった。
「あいつは、38にもなって女を知らなかったんだぜ、嬢ちゃん。馬鹿だよな」
彼のKIAが確定した時に発した、スタンの絞り出すような声に、カイネは茫然としながら思ったのだった。
――ああ、そうだったんだ。ならばせめて、食事の後で別れるときに、彼を抱きしめればよかった。
彼女にとって、長らくメイヒルズは、ただの20歳近く年下の子供だった。
だが――
食事をした最後の夜、なぜかカイネは、今まで誰にも話さなかった、彼女の出生の秘密を彼に打ち明けたのだ。
自分は、父の同意を得ずに勝手に生み出された不自然な子供なのだ、と。
「素敵ですね」
話を聞き終わったメイヒルズの第一声に、珍しくカイネは、かっとなって言い返した。
「どこが素敵なの!いい加減なことをいわないで」
メイヒルズは、微笑んだままカイネの顔をじっと見ている。
「なぜ、わたしの顔を見るの。何とかいって」
「申し訳ありません。つい見とれてしまいました。怒ったあなたが、とてもきれいなので」
「バカにしているの?」
「いえ、失礼しました。本当にきれいだと思ったんです。それに――やはり、そのお話は素敵だと思います」
メイヒルズは真面目な表情になり、
「僕が生まれる前の出来事で、今ではすでに伝説になっていますが、エヴァさまは女王さまを救って命をなくされた救国の英雄です。その方が、愛した人の子供を欲しいと願うのは不思議なことではありません」
「本人の同意がなくても?」
「お話では、あなたのお父さまは、身体を機械化されたことで、エヴァさまを愛しながら身を引かれたのですね。ならば、あなたは、愛し合ったおふたりが授かった宝物ということになります」
「でも――」
「僕の方の話は、スタン将軍からお聞きでしょう?」
「え、ええ」
「ならば、お分かりのはずです。僕の母は、将軍の子供を産めないが故に、他の男性と結婚し、子をなしたあと将軍への愛を忘れられずに父と別れました」
「――」
「父には申し訳ないのですが、僕も弟たちも、子供の頃から、母にスタン将軍の話を聞かされ続けたおかげで、実の父より将軍を父のように感じています。変な話ですが、僕たちは本来、将軍と母との間の子供だったはずなのですからね――では、カイネさん、あなたに尋ねましょう。僕とあなた、どちらが不自然な存在だと思いますか?」
「それは――」
「あなたは、その生み出された過程はともかく、両親の愛の結晶として生まれておられる。一方僕たちは、ごく普通の生まれ方はしていますが、両親の――」
「もういいわ。ごめんなさい。よくわかったわ」
「はい」
「そんな考え方があるなんて、思いもよらなかった……」
「いいえ、あなたは聡明な方です。おそらく気がついておられたでしょう。ただ、お認めになりたくなかっただけで」
「そう――そうかしら」
少し、ぼんやりした表情でカイネがつぶやく。
「誤解しないでくださいね。僕たちは、実父を愛しています。ただ――母のことや、スタン将軍のことを思うと切なく悲しい気持ちになるのです」
「あの人は強い人です」
「そうですね。強く、明るい」
メイヒルズは、まっすぐにカイネを見つめて続けた。
「カイネさん。僕は、あなたのお母さまに対するお父さま、僕の母に対するスタン将軍のような存在にはなれませんか?」
「え」
「あなたが長生きなのは知っています。でも、僕はもっと長く生きて、必ずあなたの最期を看取るつもりですよ」
そう告げた時の、メイヒルズの笑顔が脳裏に浮かんだ。
嘘つき――カイネは、ベッドに拳を打ち付ける。
嘘つき嘘つき嘘つき――わたしの中身は、前より空っぽになってしまった。
失ったことで、自分がどれほど彼の笑顔に満たされていたかを、カイネは思い知ったのだ。
枕に顔を押し当て、声を殺して泣き続け――やがて、カイネは顔をあげた。
その眼には、もはや涙は浮かんでいなかった。
ただ、底光りするような、冷酷な光が揺らめいている。
自分から、彼を奪ったものは許さない。
かならず、しかるべき報いを受けさせるのだ。
美少女は、久しく忘れていた己が名前の由来を――自身が殺人者カインの子孫であることを思い出したのだ。
スタン将軍が直接指揮する科学部隊の調査によると、中央パンゲア最前線の部隊を壊滅させた武器は、現代科学ではまったく理解できない類のものだった。
半径15キロ、深さ200メートルの範囲で空間そのものが消滅したように消え去っていたのだ。
残留放射能も、磁気も感知できず、部隊ごと消えた部分がどうなったのかもわからない。
「どんな武器を使ったのか、さっぱりわからない――だが、俺には、誰がやったかは、わかる気がするんだ」
調査から帰ったスタンが陰気な声を出して、カイネを見る。
「そうですね。これほど特異な科学力を持つ人間は、地球上にはそういないでしょう」
少女もうなずいた。
「ちょっと待ってね。あなたたちが誰を頭に思い描いているか想像はつくけど、違うわよ。彼はそんなことはしていない」
アルメデ女王の『彼』という言葉にキルスが反応する。
「尋ねたのですか?」
「――ええ。知らないといっていたわ」
「しかし、わたしも疑わしいと思っています。一度、彼と話をさせてください」
「それは無理なの。いま、大事な研究をしていて――」
「その実験ではないのですか」
スタンが言う。
「いいえ、違うわ――」
そのやり取りを聞きながら、カイネは、彼女から中身を奪った者に必ず罰を与えることを心に決めていた。
少女の脳裏には、黒い軍用コートに身をつつみ、老科学者の腕にナイフを突き立てた男の姿が浮かんでいる――