181.名前
「アキオ」
ガラス越しに少女が彼の名を呼ぶ。
椅子に座ってAIの朗読を聞いていた青年が顔をあげた。
もの問いたげに彼女を見る。
「なんでもない。呼んでみただけ」
軽くうなずいて、再びミーナに朗読を指示しようとする彼にシヅネは続けた。
「あなたがここに来てから、ずいぶんたくさんの本を一緒に読んだわね」
少女の改まった口調に、青年は椅子に座りなおして、彼女と向き合った。
「わたしが、どうしてそんなことをしたかわかる?」
シヅネの仮面の下の口元が笑う。
「答えは――わたしが一緒に本を読みたかったから。本当よ。ずっと独りきりで本を読んでいたんだもの」
そう言って、柔らかい声で続ける。
「でも、理由はもうひとつあるわ。それは、少し前に、わたしの本当の名前と共に教えたことよ――あなたに人間になって欲しいの。
初めて雪原で横たわるあなたを見た時、わたしは思った。なんて綺麗な目をしているんだろう。そしてこうも思ったの。あなたの眼は綺麗すぎる――直感でそう感じた。
なぜそう思ったのか、初めはわからなかった。
でも、ミーナからあなたの生い立ちを聞いて、あなたと暮らすうち、だんだんわかってきたの。
ほんの子供の頃から戦いに明け暮れてきたあなたの魂、精神は、きれいだけど純粋過ぎる。
あなたの心には、純粋な戦う魂しかない。それじゃ駄目なのよ。
純粋で鋭利な魂だけでは人は生きていけないし、その状態で生きていてはいけないわ。
鋭利過ぎる魂は、良くも悪くも振れ幅が大きすぎるから危険なのよ。
時と場合によって、極端に悪に傾いたり善に傾いたりしてしまう。
心の中を、たくさんの不純物や矛盾する事柄、もっといえば、取るに足らないつまらないもので満たしてこそ、中庸で安定した魂を保てるとわたしは思うの」
ひと息に話したあと、シヅネは少し恥ずかしそうに言う。
「世界を知らない、本だけの知識しかないわたしが偉そうにいうのも滑稽だけど――でも、わたしは、本当にそう思ったの。だから、アキオと古今の文学の名作や戯曲を一緒に読んできた。あなたには退屈な時間だったかもしれないけれど」
「そんな――ことは、ない」
「え」
期待していなかったアキオの返事にシヅネは驚く。
「退屈ではなかった」
「そう、アキオがそう思ってくれるなら嬉しいわ」
「それに、世界など――知る必要はない。世界は残酷で、人生は悲劇の連続だ。心は涙の海であふれ、得るものより失うものの方が遥かに多い。手を伸ばしても届かず、触れたら崩れ去る――」
少女は目を大きく見開いた。
アキオが、救いようのない絶望にあふれた感情を、ストレートに、詩的に表現したからだ。
シヅネの眼から涙があふれ、仮面の下から流れ落ちる。
「いいえ、いいえ、あなたを見つけた時、わたしは初めて世界を見た。今もこうして目を閉じると、はっきり思い出す」
そういって、少女は目を閉じて続ける。
「世界は残酷?いいえアキオ、世界はこんなにも美しいわ――」
少女は目を開け、
「それに、一瞬にせよ、広い世界で生きたから、わたしはあなたに会えた!」
「君は――」
少女は、いやいやをするように首を振る。
「あなたには、わたしの名前を教えたでしょう。アキオには本当の名前で呼んで欲しいの。お願い」
仮面の少女の懇願に、アキオは戸惑ったような顔をする。
「アキオ、お父さまからも聞いているでしょう。わたしに残された時間はもうわずかしかない。お父さまは隠そうとしているけれど、わたしにも科学知識はあるのよ。カヅマ・ヘルマンの娘ですもの――体中に空いた次元孔を、危険なナノ・マシンで埋めながら、わたしは生き続けている。異次元に行ってしまった細胞の代わりをナノ・マシンで代用させて。でも、おそらく、あなたも知っているように、人間には、ナノ・マシン代用できない器官がある――脳よ」
「やめろ」
「いいえ、やめないわ。あなたにお願いすることがあるから話を聞いて――他の臓器同様、ナノ・マシンで脳の穴を埋めることはできるけど、脳に形成されたシナプス回路はコピーできない。つまり、その人の意識、人格はナノ・マシンで代替できないのよ。だから、いまもこの仮面の下で――」
少女は、乳白色の仮面にそっと手を触れ、
「大きくなる次元孔には手をつけられない。もうわたしの脳は、ほとんどが向こうに行ってしまってるわ。どう思う?アキオ。こうやってあなたと話をしているわたしの意識は、どこか分からない次元にいるのよ。わたしは何者?本当にわたしは生きてるの?」
シヅネは、自分の手のひらを照明に透かし見る。
「やがて、孔が一定の大きさを超えたら――わたしの頭がすべて孔に取り込まれたら、わたしの存在は消えてしまう」
「博士が方法を考えている。俺の身体もそのために――」
「わかっているわ。だって、わたしは卑怯にも、あなたの苦しみを見て見ぬふりをして過ごしてきたんだもの。でも、それももうすぐ終わりよ。お父さまの研究は間に合わない。わたしは死んでしまう。それはいいの。問題はね――」
シヅネはガラスに手を当てる。
アキオは反射的に立ち上がって、ガラス越しに少女の手に自分の手を重ねた。
「最後の瞬間に、お父さまが、わたしの身体を処分しないかもしれないということ。知っているでしょう、アキオ。わたしの身体に無数にある次元孔を埋めるために使われたナノ・マシン、ううん、世界を滅ぼす穢れのことは――」
「それは仕方ない。急速拡大する次元孔を埋めるためには、通常のナノ・マシンでは無理だ」
「仕方ない、じゃないのよ、アキオ。わたしのこの穢れは、絶対に世界に放ってならないもの。あなたもミーナも、世界中がみんな死んでしまう。だから約束して、その時が来たら、わたしの穢れを必ず滅すると――もうほとんどわたしの身体そのものになっている、窒素炭素型ナノマシン、グレイ・グーを」
叫ぶように少女は言う。
グレイ・グーとは、暴走したナノ・マシンが無限に増殖して世界を破滅させる事象の名前だ。
しかしながら、本来、そのようなことは起こりえない。
ナノ・マシンに微量ながら必要な希少金属や導体が有限であるため、ナノ・マシンが無限増殖して地球を覆いつくす、グレイ・グー現象はありえないのだ。
だが、天才であるカヅマ・ヘルマン博士は、急速拡大する次元孔のスピードに対抗させるため、大気から無限に手に入る窒素と炭素をベースにしたナノ・マシン、コードネーム、グレイ・グーを開発したのだった。
電導体は炭素を使えばいくらでも生み出せる。
当初、博士は、南米の研究所で開発を行っていたが、何度かグレイ・グーが研究所外に出て、世界壊滅の危機を招きそうになったため、極北の研究所に移動したのだった。
グレイ・グーといえどもナノ・マシンであることにはかわりはなく、氷点下100度近い低温のもとでは増殖速度が極端に下がるため対処が容易になる。
「お願いアキオ、約束して……」
シヅネはガラスの上から、彼の手を握るように手を動かす。
「今は、この制御仮面で、グレイ・グーは制御できているけど、わたしの意識がなくなったら、どうなるかわからない」
「約束は――できない」
「ダメ、約束して。必ずわたしを焼却するって」
青年は、黙って少女を見つめる。
「アキオ!」
「分かった」
「わたしの本当の名前にかけて約束して」
「――」
「誓って!」
アキオは、少女の眼の圧力に負けたように口を開く。
「必ずそうすると誓う。君の名前――」
アキオは、痛みに耐えるようにかすれた声で続けた。
「ラムリエリスにかけて」