173.恐怖
独り部屋にいると、彼女は恐ろしくてたまらなくなる。
そして――
今日はやめておこう、そう決意するのだが、
気がつくと、彼女は鏡の前に立っているのだった。
寝室の壁に作らせた巨大な鏡の前に――
庶民はもちろん、貴族でさえ、なかなか手に入らない大きさのものだ。
鏡に映る、己が全身を彼女はじっと見つめる。
藍色の髪、緑の瞳の少女が、黙って彼女を見つめ返している。
他人は彼女を美しいという。
その通りだろう。
彼女自身も、そう思っている。
――でも、本当に美しいのだろうか?
動かないまま、じっと自分の顔を見つめていると、見慣れた自分の顔が――眼が、眉が、口が、まるで見知らぬものに見え初め、怖くなって、彼女は目を逸らしてしまう。
自分の身体が醜く変わってしまったのではないか――
地球では知覚現象のひとつとしてよく知られている、いわゆるゲシュタルト崩壊に過ぎないが、異世界の少女は、それを知る由もなく、恐怖に駆られたように慌てて服を脱ぎ始めるのだった。
瞬く間に全裸になると、ふたたび鏡に映った自分の身体を子細に眺め始める。
すらりと伸びた形の良い手足、腰から上へきれいにくびれながら、形の良い胸へ続く女性的なラインも、いつも通りだ。
異常はない。
身体を斜めにして、肩から細いうなじにかけても確かめる。
大丈夫だ。
ほっとした少女は、全裸のままベッドの腰かけ、うなだれた。
今日は大丈夫だった。
だが、明日は?
5年後は?
彼女、メキア・フェン・サイアノスは、西の国の王女として生まれた。
アラント大陸に4つある王国の中でも、2番目の大きさの国の王女として生まれるということは、これ以上ないほどの幸運なのだろう。
おまけに、彼女は、王族の血筋として見事な容姿に恵まれていた。
だが――
王族以外、誰も知らないことだが、西の国王家の女性には、代々恐ろしい運命が待ち受けているのだ。
王女病と呼ばれるその病は、個人差はあるものの、30代半ばを過ぎたころから、身体中に醜い発疹が現れ、やがて身体全体が硬直して身動きが取れなくなり、死に至る、というものだった。
女王である彼女の母も、3年前に発症し、1か月前に離宮の一室で死んでいる。
対外的に、この王族特有の病は知られていない。
発症した時点で、即座に死亡扱いされるからだ。
母の死後は、彼女が成人するまで、父が摂政として政務を取り仕切ってくれている。
メキアは、恐怖で体を震わせた。
何とか、この呪われた運命から逃れなければならない。
そうでなければわたしは――
彼女が、この王女特有の運命を知ったのは、2年前のことだった。
それまでは、少女ながら、王族らしい大らかさと利発さで上位貴族のみならず平民からも愛される王女だったのだ。
それが、ここ数年は、すっかり明るさも影を潜め、思考もすっかり卑屈なものになってしまっている。
「サリーヌ!」
服を身に着けた彼女は、幼い頃からの侍女である少女を呼んだ。
年は、メキアとそう変わらないが、よく気の付く可愛い娘だ。
扉を開けて部屋に入ってきたサリーヌが言う。
「お呼びでしょうか、メキアさま」
「お茶を持ってきて」
「承知いたしました」
そう言って、少女は栗色の髪の頭を下げて部屋を出て行った――
「姫さま」
数日後、謁見の儀式を終えた王女の許へ、変わった風貌の男が声を掛けてきた。
「あら、久しいですね。マイス」
王女は、頭頂部をピンと立てた、変わった髪型の若者に微笑んだ。
「姫さまに置かれましては、ますますお美しくなられ――」
「社交辞令は結構ですよ。何かあるのですね」
「ええ、耳よりなお話が」
大貴族ノアス家の次男であるマイス・フィン・ノアスとは、子供のころからの付き合いだった。
王女は、いつも微笑みを絶やさないが、腹の底では何を考えているかわからないマイスが、幼い頃から苦手だった。
だが、何か困ったことがあった時など、さりげなくマイスの耳に入るようにしておくと、魔法のようにそれが解決されていることも多かった。
つまり、ひと言でいうと、マイス・フィン・ノアスとは、信用はできないが、使える男だった。
その行為で、特に彼が何か利益を受けるわけではない。
マイスは、財産も身分も、もう充分に手にしているからだ。
おそらく、そういった裏の仕事、権謀術数を駆使した活動が好きな性格に生まれついているのだろう、彼女はそう考えている。
今も、ほぼ一年ぶりに彼女に声をかけてきたということは、何か、王女に伝えるべき悪事があるに違いないのだ。
「話しなさい」
メキア王女は、マイスを人気のない王城の空中庭園に連れ出すと命じた。
マイスは、いつも顔に浮かべている不快な笑顔を消していた。
彼がこんな表情になることは滅多にない。
いまは、つまり、そういう時なのだ。
「話というのは、王女病についてです」
「それはなんですか?」
あるいは、と予想はしていたが、やはり衝撃的だった。
息が止まりそうになりながらも、メキアは恍けようとする。
「お隠しにならなくても結構ですよ。わたしは知っておりますので――」
「なぜ……」
「初めてお会いした時に、姫さまからお聞きしたからです」
王女は、奇妙な髪型の男を見つめた。
そんな記憶はなかったからだ。
だが、様々な裏事情に精通するマイスなら知っていてもおかしくない。
それでも、王家の秘密を、軽々に認めるわけにもいかなかった。
だから、メキアはこう答えた。
「何のことかはわかりませんが、一応、話してみなさい」
「承知いたしました」
マイスは、真剣な目のまま微笑む。
そこで、彼女が聞かされたのは、信じられない王女病の解決策だった。
治療法のない奇病に対処するために、彼女の予備の身体を作っておくというのだ。
そして、病を発症した時点で、健康な予備の身体と交換していく――
メキアは鼻で笑った。
「それは受けられませんね」
「なぜです」
「そのような高度な医術を持っているのは、ニューメアしかありません」
「その通りですが――いったい何がいけないのです」
「他国に弱みを握られるのは愚策です」
「それは、そうかもしれませんが――我が国が一方的に弱みを握られるというわけではありません」
「どいういうことです」
「ニューメアは金属を欲しがっています。あの国では致命的に金属が産出されませんから。それで、ニューメアは、今回の処置の代価として、年2万アグザの金属を欲しています。いかがでしょう」
「それでも、やはり、だめです」
王女は冷たく言い放った。
王家として弱みを握られたくないこともあるが、個人的に、美しい王女としての自分に、そのような疵があることを他国に知られたくはなかったのだ。
「この話はこれで終わりです」
そういって、メキア王女は話を打ち切った。
だが、マイスはあきらめなかった。
何度も、メキアを説得しようと試みる。
そして、半年後――積年の恐怖もあって、ついに彼女はマイスの提案を受けることにしたのだった。
作業は一瞬だった。
彼女の体の一部を取るだけだ。
これで、本当に、自分の複製ができるなら、魔法そのものだ。
「それで、これからの予定は?」
王女の問いかけに、マイスが答える。
「以前、お話したとおり、人気のない中立地帯の極北に、ノアス家の狩猟用の洞窟があります。そこで、生きるための最低限の知識だけを与えて育てる予定です。言葉は教えません。名前も与えません、ただ、便宜上、素体と呼ぶことにします」
「ソタイ?」
「彼の国の、そういう用途に用いる者の名前だそうです」
王女はうなずいた。
ソタイを、かわいそうだとは思わない。
別な体であっても、それは彼女自身なのだ。
自分の身体をどう扱おうと彼女の勝手だ。
あとは、一日でも早く、ソタイが成長することを祈るだけだ。
彼女が発症する前に――
「なんですって!」
思わず、悲鳴のような声が出た。
「どうか、気をお静めください」
17年前と変わらぬ笑みを浮かべてマイスが言う。
だが、メキアは声を荒らげる。
「ソタイがどこかに消えたとはどういうことです」
「その言葉の通りです。いなくなってしまったのです」
「そんな……せっかく大きく育って、使えるようになってきたというのに」
それに、メキアも、もう33歳――王女病を発症してもおかしくない年齢だ。
今こそ、ソタイが必要な時なのに――
「マイス!」
「わかっております。わたしが必ず探し出しますので、どうか、ご安心を」
「信じていますよ」
「仰せのままに――」
「アキオ、連れて帰ってきたあの子、カマラの精密検査が終わったわよ」
半壊したままのジーナに、AIの声が響く。
「あなたが、ナノ・マシンで調べた調べた通り、なんの異常もないわ。遺伝子的にもまったく問題なし――つまり、カマラは、生まれながら、あの状態だったわけではなく、意図的に放置されていたということね」
「そうか――では、教育を始めてくれ」
「わかったわ」
「お茶を持ってきて」
女王に命じられて、サリーヌは、お湯を沸かそうとする。
メキア女王専用の水がめに、水がほとんどないことに気づいた彼女は、手を叩いた。
「アキアス!」
すぐに、12歳になる彼女の息子がやってくる。
「メキアさまのお水がほとんどありません。すぐに汲んできなさい」
「えー」
そばかすのある少年が不満げな声を上げる。
「だって、女王の井戸って、城の一番下の部屋の、その地下室にあるんだよ。普通の井戸なら地上の水場にあるのに――」
「口答えは許しませんよ。早く行ってきなさい」
「隣の水がめには、たくさん水が入ってるじゃないか」
「これはでは駄目なのです。メキアさまが使われる水は特別なもの、他の水ではいけません。それに、この水のことを知っているのは、侍女長たるわたしだけ。女王ご自身もご存じないのです。だから、他の者に頼むわけにはいきません。さあ、行きなさい」
不承不承に、水桶を持って走っていく息子を見送りながら、サリーヌは、誇らしげな気持ちでいっぱいになる。
女王の水を扱っているの、はわたしだけ。
王家の中枢すら知らない女王の水の秘密――つまらないことなのかもしれないが、それを知っていることが彼女の誇りだった。
代々、侍女長だけに受け継がれてきたこの秘密は、この先も、永遠に人々に知られることはないだろう――