172.地球の蒼い空、
早くに横になったものの、眠れないまま寝返りを打っていたミストラは、ベッドから起き上がった。
ナノ・マシンの助けを借りれば、すぐに最適な眠りにつけるのは分かっているが、なぜか今夜はそうしたくなかった。
ベッドに座って、アキオのことを想う。
今夜はユスラとシミュラのふたりが一緒に寝ているはずだ。
正反対の性格に見えて、その実、よく似ている激しい王女ふたりに囲まれて、彼は熟睡できるのだろうか?
そう考えて、ミストラは微笑む。
前にみんなと話したように、アキオは大きな樹であり、大きな生き物だ。
彼なら、ふたりを受け止めて、小動もしないだろう。
ミストラは立ち上がると、部屋の隅に立っている服掛け棒からカーディガンを取ると、肩に羽織って、部屋を出た。
眠れない夜は、ナノ・マシンに頼らず、行くべき場所がある。
足元が淡く照らされた通路を歩いていると、目指す部屋の前に人影が見えた。
「ヴァイユ、シジマも」
ミストラが声を掛けると、少女たちは驚いて振り返り、口元に指をあてた。
「静かに」
その時になって、ミストラは気づいたのだが、部屋の中から、扉越しに澄んだ歌声が聞こえている。
「これは?」
「ボクが最初に来た時にはもう歌っていたよ」
「歌っている?音楽データを再生しているのではないの?」
「違うよ」
「だって――」
つい声が大きくなってしまった。
歌声が止まり、ドアが内側から開けられる。
「こんな遅くにどうしたの、あなたたち、さあ、お入りなさい」
ドアから顔を出した部屋の主に声を掛けられ、3人の少女たちは部屋に入った。
初期米国調の、木を多用した優しい色合いの落ち着いた内装だ。
ところどころに、美しいレースが使われている。
「珍しいわね。3人揃ってなんて……」
そういって、部屋着姿のミーナが3人の少女のために、お茶を入れてくれる。
ジーナ城に居住スペースを作る時、少女たち全員の一致した意見で、ミーナの部屋を作ることが決定した。
「わたしに部屋なんていらないでしょう。わたしは魚の目をした女神、どこにでもいて、どこにもいない存在だから」
「そういうんじゃなくてさ」
シジマが言う。
「そうだよ、あたしたちが、ミーナと話したい時に、そこに行けばミーナがいるって場所が必要なんだよ」
「そうそう。眠れない夜なんかは姉さんが必要なんだ」
「人を睡眠導入剤みたいに――いいわ。作りましょう」
「やったね。作るからには、きちんとしないとね」
何かを思いついたようなシジマが、悪戯っぽい笑顔を見せる。
そして、シジマが全力投入した『ミーナの部屋』が出来上がったのだ。
ホログラム素子を贅沢に使い、磁力コントロールを併用して、実物大のミーナが実際に生活できる空間だ。
たとえば、彼女は、この部屋では、実際にお茶を入れ、本物の花を飾り、本物の本のページをめくって読むことができる。
「盛大な科学の無駄遣いね」
完成した、何も物のない殺風景な部屋を見たミーナは言う。
「わかっちゃいないなぁ」
「そうだよ、姉さん」
「この部屋は良い。そして絶対に必要だ。それぐらい科学に疎いわたしにもわかるぞ」
「そうですね」
カマラが皆の言葉を引き取り、
「遊びと無駄遣いのない科学ほど、怖いものはありませんから」
そう笑顔で断言する。
「でも、さっぱりしていて、いい部屋ね。ありがとう、シジマ。みんな」
「何をいってるのミーナ。これから女性らしい部屋に飾っていくに決まってるでしょう」
「そうです。わたしが作りますから、ふんだんにレースを使った部屋にしましょう」
胸の前で指を組んで、嬉しそうにピアノが言う。
「ええっ」
「まさか、ピアノがレースなんて」
「おかしいですか」
「いや、おかしくないけどさ――ちょっと意外というか――」
そうして、今の温かい雰囲気の部屋が出来上がったのだった。
「眠れなかったの?」
ミーナの問いかけに少女たちはうなずく。
「仕方ないわね。じゃあ、眠くなるまで何か話しましょう。何の話が良い?」
いつもなら、ここで、昔のアキオの話を聞くことが多いのだが、今夜は違った。
「ミーナ、今、歌を歌ってたでしょう」
「――」
アジア人の特徴を持つ黒髪の美少女が、ばつの悪そうな顔をした。
「聞かれてしまったのね」
「うん、聞いちゃった――で、あれは何の歌?すごくきれいな歌詞とメロデイだったけど」
「そうですね」
「わたしは、ミーナが歌っているのが嬉しいかった」
ヴァイユがうっとりと言って、
「ふだんのミーナの声と違いましたね」
「そうだった?」
「そうですね」
「さすがね、あなたたち。そう、あれは彼女の声をサンプリングしたものなの」
「あれがシヅネさんの声――」
シジマがつぶやく。
彼女たちも、彼女の本当の名は知っているが、アキオの前では口にしないよう、普段はシヅネという名を使っている。
「そう、だから、アキオには内緒にしてね」
「なんという歌なのですか?」
「『地球の蒼い空』よ」
「地球――アキオたちのいた世界の星の名前だね」
少女たちは、ミーナとカマラやシジマに教えられて、この世界が宇宙に浮かぶ惑星上にあることを知っている。
「ボクたちの世界では、この星の名前はきちんと決まってないけど――アラント大陸までだね、名前があるの」
「もう、この星も地球で良いと思います」
ヴァイユが言う。
「そうね――それで、どんな歌なのですか」
ミストラが尋ねた。
「わたしたちの時代、無人有人を問わず、宇宙に向けてたくさんの探査ロケットが飛ばされたの。水と資源を求めてね。それらは、いろいろな星にたどり着いて、映像や解析結果を送ってきた。でも、地球のように、きれいな青空を持つ星はなかった。この歌は、科学者で詩人だったある乗組員が、数十年かけてたどり着いた目的の星で、赤い空を見上げながら、地球の蒼い空を焦がれて詠んだ詩が、いつしか同業の宇宙飛行士たちによって歌われるようになったものなのよ」
「つまり、望郷の歌ですか」
「そう――もう、地球に帰るためには寿命が足りない。だから、いつか魂だけでも故郷の星に帰って、緑の大地に寝転んで、蒼い空を、そしてそこに浮かぶ白い雲が流れていくのを見ていたい、そういう歌よ」
少女たちは、しばらく黙り、ミーナの言葉の意味をかみしめる。
「その後、かかる費用に見合うだけのものが得られないことが分かって、宇宙探査と開発は地球規模で中止になった。だから、この歌は人類が宇宙に咲かそうとした仇花の、唯一のきれいな実といえるわね。とても美しくて哀しくて、彼女が大好きな歌だった」
「仇花……」
「咲いても実を結ばない花のことだよ」
「わかりました――ミーナ、歌ってくれますか」
「わかったわ」
そして、思いついたように、付け加える。
「『地球の蒼い空』は、国を離れて戦い続ける傭兵たちも、好んで口ずさんだ歌なのよ」
「じゃあ、アキオも」
「彼は歌わなかったけど、彼のいた部隊では、みんな歌っていたわ。もちろん、アキオも知っていると思う――」
そういって、ミーナは歌い始めた。
よく通る、澄んだ歌声だった。
韻をふんだ美しい歌詞が、きれいなメロディーラインに乗って部屋を舞う。
少女たちの胸に、遠く離れた緑の星の蒼い空、その吸い込まれそうに美しい色に対する、断ち難い望郷の思いが迫ってくる。
静かな夜更け、AIが作り上げた温かい雰囲気の部屋の中で、少女たちは、異世界の歌に涙するのだった。
「これは――この歌は、単なる望郷の歌ではありませんね」
やがて、ミストラが掠れた声でつぶやく。
「そう、自らの行動の結果を嘆くだけでなく、その先に希望を信じる力強さを感じます」
「だから、哀しいだけじゃなく、聞いていると温かい気持ちになるんだね――」
そうして、少女たちは目を閉じて歌に耳を傾けた。
この哀しくも希望に満ちた歌は、いまの彼女たちにこそふさわしく――必要なものなのかも知れない。