171.讒言
男が独り、焚火の前に座って、揺れる炎を見つめている。
険しい表情だ。
やがて――
「クソッ」
短く叫ぶと、黙って左の掌に右の拳を叩きつける。
場所は、西の国近く、ラトガ海の南の、森林地帯に張られた野営地だ。
男の逞しい肩に、背後から形の良い細い指がかかった。
「どうしたの?」
柔らかい声が耳に心地よい。
しかし、
「なんでもない」
男はにべもなく言い放つ。
「そんなわけない。最近、独りになると、いつも怒った顔をしているわ。特に今日はひどいけど」
「お前には――」
「関係あるわ。あなたがそんな顔をしていたら、みんなが心配するでしょう。あなたが頭領なんだから。そんな顔しちゃだめ……わたしたちの英雄サマ」
少しおどけて言う声に、男は、やっと固い笑顔を見せた。
「お前にはかなわないな、シェリル」
「やっと笑った。そう、あなたは英雄ノラン・ジュードなんだから、いつも笑っていないと。あなたの無口は仲間を不安にするのよ」
「そうか――そうだな」
騎士ノラン・ジュードがうなずく。
金色の髪を揺らして、女剣士シェリルが彼の隣に座った。
「魔王のことを考えていたの?」
「ああ、あいつは、エストラ、サンクトレイカだけでなく、近頃は西の国まで神出鬼没に表れては村を滅ぼし、人々に害をなす化け物だからな。なんとかしなければ」
「そうね。でも、わたしは、どうもあれが悪い魔王だとは思えないのよ」
シェリルは、真剣な口調で続ける。
「あの時、魔女は確かに自分の身を挺して彼を救おうとしたし、魔王は、そんな彼女の身を案じているように見えた――捨て台詞の、もう少しでエストラを手中に……っていう言葉も、とってつけたみたいないい方だった」
「だが、あいつのおかげで、お前はひどい怪我を――」
「もう治ったわ、心配しないで。それに、あれはゴメツが、あなたと魔王の闘いの最中に、いきなり魔法武器を使ったからよ」
エストラの王都で、彼らは魔王と出会い、守るべき宰相を殺された。
そして、ノランは魔王と剣を交えたのだ。
「ゴメツは、魔法武器を壊されたらそのまま逃げてしまったし……」
「確かに、あいつは怪しい奴だった」
そう言いながら、ノランは、マントで巨体を包んだ男の、感情が読めない目を思い出す。
宰相ギオルの護衛は、もともとゴメツが持ち込んだ話だった。
後に知ったところでは、ギオルは、魔王と魔女に操られて王国を乗っ取ろうとしていたらしい。
ゴメツはその手先だったわけだ。
腕さえ確かなら、来るものは拒まずで仲間にしていたのだが、その方針を変える時が来ているのかもしれない。
「とにかく、そんなに思いつめた顔はしないで」
「わかった――すまない」
緑の目の美女は、目元に優しい笑みを浮かべ、軽くノランの肩を叩くと立ち上がった。
「わたしは、向こうでみんなの相手をするわ。あなたも早く来てね――さあ、笑って」
そういって、少し離れた焚火の前に座る仲間たちに、声を掛けながら近づいていく。
ノランは、ふと笑ったが、すぐにその笑顔を消した。
――おれは、魔王に勝てるだろうか。あの時、あいつは実力の半分も出していなかった。
剣を交えた俺にはわかる。
だが、何としても、俺は、あいつに勝たなければならない。
ノランは、今日の昼、立ち寄ったシュテラでの出来事を思い出していた。
シュテラ・アルソは、ラトガ海ほとりのシュテラ・バロンの南にある小さな街だ。
その武器屋に一人でいる時、男が声を掛けてきた。
貴族然とした服装だが、頭の上を尖らせた奇抜な髪型と顎髭が、妙に癇に障る男だった。
名前はご勘弁を、と言いつつ、彼がノラン・ジュードであることを確認すると、男はこう続けた。
「あなたが忠誠を誓ったお方が、魔王の手に堕ちておられます」
「なに!」
「すぐには、お信じになられないでしょう。どうか、これをご覧ください」
そういって、何枚かの紙片を彼に差し出す。
ノランが受け取らないのを見て取ると、彼の手に無理やりその紙片をつかませた。
胸元から取り出した、奇妙な形をした道具を見せながら言う。
「ニューメアから最近手に入れた魔法道具です。これを使うと――」
男は、ノランの手に収まった紙片を指さし、
「絵で描くよりはるかに速く、正確に景色を写し取ることができるのです」
ノランは、紙片に目を落とした。
「まさか――」
そこには、魔王に寄り添って歩くユスラ姫の姿が描かれていた。
次の紙には、魔王の腕につかまって、はしゃぐ姿が――ユスラ姫は、彼の見たことがない晴れやかな表情で笑っている。
最後は、魔王の身体に手をまわし、しっかりと抱きつく姿が描かれていた。
「どうです」
呆然と立ちつくすノランに男が囁いた。
「なぜ、姫が魔王と――」
「そこが、やつの狡猾なところなのです。魔王は、アルドスの魔女がいながら、他にも多数の女たちと――」
そういって、男は、胸元から、さらに紙片を取り出した。
「これは……」
ノランは呻いた。
そこには、紅い髪の少女と、緑の髪の美少女と、そして、ユスラ姫と共にいたピアノとキイという少女たちと、魔王が並んで歩く姿が描かれていたのだ。
「いや、まったく、色とりどりの美しい花たちですな。うらやましい――ですが、問題は、あなたのあのお方が魔王に騙され、さらに、この多くの少女たちのうちの一人として軽んじられていることです」
ノランは蒼ざめた顔で、拳を握る。
「で、どうされます」
「なに?」
「真の臣下であれば、姫さまの目を覚まさせて、正気に戻して差し上げべきではありませんか」
ノランは答えない。
――もし、この場に、生まれついての王族たる魔女シミュラがいれば……あるいは魔王退散の後、謁見の場でノランに氷柱のように尖って冷たい視線を向けた、エストラ王国のシャロル姫がいたなら、こういったことだろう。
『臣下ごときが、女王の目を覚まさせるなどおこがましい、真の家来なら疑うな。もし、女王が魔王とともにあるなら、お前も魔王の臣下となれ』
もちろん、ノランにも、その考えはある。
だが、彼はもともと自由に戦う傭兵だ。
他者に思考を完全にゆだねることには対抗がある――
男は、薄く笑うと言った。
「それは差し上げます。そして――」
ノランが男を見る。
「もし、あなたが、魔王を倒して、ユスラさまを取り戻したかったなら、わたしたちの許にきてください」
「おまえの」
「わたしたちの許へ、です。いま、我々は魔王を討つための準備を整えています。あなたには、その旗頭となっていただきたいのです」
「俺の一存で、仲間を危険な目には――」
「他の方は必要ありません。あなただけが必要なのです。どうか我々と共に戦ってください。お越しいただければ、魔王と互角以上に戦える武器をお渡しいたします」
「しかし、奴と戦えば姫にも危険が――」
「ご安心を。そこは、抜かりなく策を立てておりますゆえ」
男は声を立てずに笑い、
「わたしは、3日後まで、この街におります。もしご賛同いただけるのでしたら、この武器屋においでください――心より、お待ちしておりますよ」
そういって、男は姿を消したのだった。
炎の向こうから聞こえてくる陽気な笑い声を聞きながら、彼は焚火を見つめ続ける。
「ノラン、朝よ。起きてちょうだい」
シェリルが声をかけながら、天幕の布を開けた。
「ノラン?ノラン・ジュード。どこなの!」
しかし、天幕の中に人影はなく、一枚の紙が残されているだけだった。
そこには、しばらく留守にするが心配するな。自分が不在の間はシェリルを頭領に、依頼されているマーナガル退治を行ってくれ、と書かれてあった。
「ノラン・ジュード――莫迦な人」
金髪碧眼の美女が晴れた空を見上げて呟く……