168.端緒
青年が、研究所に来てから一年が過ぎた。
この一年は、シヅネの今までの人生の中で一番幸せな時間だった。
相変わらずアキオは返事をしないが、それでも彼に向かって本を読み、図鑑や絵本を見せて、その合間にミーナと話していると、彼女は時間を忘れるのだ。
無為に過ごしてきたこれまでと違って、希望もある。
こうしていれば、いつか彼も心を開いてくれるかもしれない。
最初は、父以外の初めての男性として興味を持ち、次に、ミーナに聞いた彼の生い立ちから、アキオ自身についてもっと知りたくなった。
そのために会話がしたい。
心を開いてほしい。
それが容易ではないと分かってはいたが、生まれつきの楽観的な性格もあって、彼女はそんな期待を持って努力を続けているのだ。
そして、その努力は唐突に報われる――
それは、いつものように、ガラス越しに、アキオに向かって図鑑を見せて話しかけていた時のことだった。
それまでは、植物図鑑を使って話をしていたのだが、その日、初めて動物図鑑をアキオに見せたのだ。
「……ということで、クジラは地球上から姿を消して、今は、イルカぐらいの大きさの海の哺乳動物しかいなくなったのよ。あ、でも大きさ以外にイルカとクジラの明確な線引きはないらしいから、クジラが絶滅したとはいえないわね」
相変わらず表情を変えない青年の顔を見ながらシヅネは続ける。
「だから、いま、わたしたちが目にすることのできる大きな動物といえば、ゾウぐらいね。それも、最近まで、アジアとアフリカで続いた戦争で、かなり数が減ってしまったから、わたしは死ぬまでに、見ることができるかな――できないだろうな」
そう言って、少女は視線を宙にさまよわせる。
「クジラは無理でも、ゾウには触ってみたいな。どんな手触りなんだろう……きっと、つるっとしてて、ぷるんとちょっと柔らかくて、ひんやりしてる気がする」
「チガ……う」
「え」
初め、それは空耳かと思った。
それとも、天井のエアダクトの風の音か――。
しかし、すぐにシヅネは、それがアキオが発した言葉だったことに気づく。
「ゾウの皮膚は……硬く温か……い。分厚いゴムを黄麻に包んだ……感じで、細かい剛毛が生えて……いる」
「まあ、あなた――素敵な声をしてるのね」
驚きのあまり、思わず少女は見当違いの言葉を発する。
もちろん、彼女も、アキオの声が喉に埋め込まれた汎用の人工声帯から出ていることは知っている。
シヅネは、首を振り、
「いえ、そんなことより、あなた、ゾウに触ったことがあるの?」
「――あ……る。分厚い……皮膚の下に、弾力のある……筋肉が感じられる強い……体」
徐々に、青年の言葉が滑らかになる。
シヅネは、せっかく口を開いてくれた青年が、ふたたび黙り込んでしまわないように、慌てて言葉を継ぐ。
「ゾウとういう生き物には、乗ることができるそうね。あなた、ゾウに乗ったことは――」
「あ……る。乗って……移動した。ゾウの足は……速い」
「そうなの――羨ましいわ。わたしなんて、動物も鳥も魚も図鑑で見るだけ。本物は、見たことも触ったこともないんだもの」
「――」
アキオが返事をしないので、さらに彼女は言葉を紡いだ。
「ゾウという動物は、普段は優しくおとなしい生き物だけど、怒らせると恐ろしく強いそうね。だから昔の戦争では、動物を集めた場所――動物園というのですか、それが空爆を受けそうになると、ライオンやトラだけでなく、ゾウも殺されたらしいわ」
アキオの表情がわずかに動く。
「ただ、強いというだけで、外に出るのを恐れられて、殺される――なんだか、あなたに似てるわね」
シヅネは、かつてミーナに聞いたアキオの過去に、ゾウの運命を重ねて呟く。
「俺……がゾウに似ている。そう……なのか」
「そうよ――」
「いや、俺は……あの大きな生き物……にはとても……及ばない」
「そんなことはないわよ」
「――」
だが、アキオはもう彼女の言葉に反応しなかった。
いつものように、無表情に黙り込む。
しかし、シヅネは嬉しかった。
彼女は、まず彼から最初のひと言を引き出すまでが困難だ、ということを直感で感じていたからだ。
アキオは、今日、その最初の言葉を発した。
それが重要だ。
そして――
彼女の予感通り、アキオは、その後、少しずつ会話を交わすようになっていく。
それは会話とも言えないような短い単語のやり取りではあったが――
時間をかけて、シヅネは、根気強くアキオの閉ざされた心に楔を打ち続ける。
さらに半年後、軽快に、とは言えないまでも、訥々と彼女はアキオと会話を交わせるまでになっていた。
そうなることで、初めて気づいたのだが、アキオの体調には波があった。
黙って座っていた頃は、あまりその変化には気づかなかったのだが、話をしていると、日によって、普通に会話できる時と反応が鈍い時があるのだ。
そして、彼女は、遅まきながら知るのだった。
アキオが、父の実験で、想像を絶する苦痛を常に感じていることを。
教えてくれたのはミーナだった。
AIは、アキオが、不完全なナノ・マシンの生体実験に使われ、日々苦痛に耐えていることを観察と考察によって理解していた。
ただ、自我と感情のないAIらしく、シヅネが尋ねるまで、それを口にしなかったのだ。
シヅネは、その事実に驚愕する。
父が、アキオと共に、彼女を外に出すための研究をしていると聞いてはいたが、その詳しい内容を彼女は知らなかったし、知ろうとも思わなかった。
だが、いま、シヅネは自分自身の中にある、卑怯な鈍感さに改めて気づいたのだった。
彼女も薄々は、察していたのだ。
父がアキオに行っていることを。
兵士であるアキオが、天才科学者の父の手伝いなどできるはずがない。
手伝う、とは、つまりそういうことなのだ。
アキオ自身が、恨みごとの一つも言わず、いつもと変わらない無表情さで、ずっとガラスの前に座っていたことも、彼女が気づかなかった理由の一つだった。
ミーナから事実を告げられたシヅネは、ガラスに手を当てて、アキオに叫んだ。
「アキオ、本当なの?父はあなたの体を実験材料にして、わたしの身体を治すためのナノ・マシン開発をしているの?」
「そうだ」
「すぐに、父にいってやめてもらうわ。そんな酷いこと」
「いい」
アキオは、椅子から立ち上がった。
最近、博士は彼の身体を拘束しなくなっている。
アキオは、シヅネが手を当てる分厚いガラスに近づくと、自分の大きな手をガラス越しに少女の手に重ねた。
「君の治療に必要なことだ」
「でも、でも――」
「この話は、これで終わりだ」
アキオはガラスから手を離し、椅子に戻る。
「――わかったわ」
それ以来、ふたりが実験について話すことは二度となかった。
ある時、星座の本を開きながらシヅネが言った。
「あなたの名前には射手座が入っているわね」
少女の言葉にアキオはうなずく。
シヅネは、本をぱたりと閉じ、天を仰いで嘆いた。
「ああ、星座も見たいな。隔離室からでは星を見ることもできないもの。アキオは見たことあるんでしょう?南十字星も」
アキオは再びうなずき、しばらくしてから言葉を発する。
「だが、その本とは少し違う」
「どこが?」
「何年か前、地軸の傾きが少し変わった。地磁気もおかしくなっている」
「そう――でも星座は変わらないでしょう」
アキオはうなずく。
「見える場所が変わっただけだ」
「さすがに、ここからは南十字星は見えないでしょう」
「そうだ。だが、なんのことはない。ただの4つの星だ」
「わかってないわね。アキオは――」
そういって、シヅネはため息をつき、
「分かっているわたしが見ることができなくて、分からないアキオが、見たことあるなんて、人生は意地悪だわ」
「そうか」
「そうよ!」
そんなふたりの様子を、背後から見ていたカヅマ博士は、早足で研究室に戻ると激しく机を叩いた。
新しいナノ・マシン研究は、少しずつ進んではいるものの、望む成果には程遠く、ゴールはいまだに見えない。
それなのに時間がないのだ――
しばらく前から、アキオは、シヅネに頼んで、ミーナに科学関係の本を見せてもらうようになっていた。
見せるといっても、要はミーナに向かって、ガラス越しに本をパラパラとめくって見せてもらうだけだ。
要する時間は一冊が長くて2分、短ければ30秒ほど。
それで、ミーナは内容を記録できる。
そして、AIは、その内容を、空いた時間にアキオに朗読してくれるのだ。
これは、シヅネの朗読で得るものが多いと感じたアキオが考えた学習方法だった。
その動機は――なんとなく、だ。
シヅネを助けたいという気持ちの発露であることは、アキオ自身も気づいていない。
こうして、アキオは、日々専門的な科学知識を身につけつつあった。
これが、後に、工学者としての彼の道を開くことになるのだ――