167.愛娘
実験が始まっても、アキオはシヅネの傍に置かれたままだった。
日中の数時間は、実験室に連れていかれるが、それ以外は、彼女から見える位置に寝かされている。
そして、相変わらず、少女はミーナと話しながら、アキオに本を読み聞かせるのだった。
時が経つにつれ、見かけ上、彼の身体は人間らしさを取り戻していく。
左目に嵌められていた、いかにも多機能そうな義眼は、クローン再生された焦茶色の目に交換され、手足をつなぐだけだった有機外殻ボディには、チタン骨格と再生された内臓が収められて、ゆっくりとなら、歩くこともできるようになった。
初めてアキオが自分の足で歩いて近づくのを見たシヅネは大喜びする。
それ以降、アキオはガラスの傍の椅子に座るようになった。
彼が席に着くと同時に、カヅマ博士は、アキオの身体が動かないように制限をかける。
彼が暴れたり、逃亡を図るといけないからだ。
シヅネは、腰かけた彼に話し続けるが、相変わらず、彼の表情に感情の変化は感じられない。
「――よし」
数値を確認したカヅマ・ヘルマン博士は、満足そうな声を上げた。
実験体3号、通称アキオに投入したナノ・マシンの反応が良かったからだ。
しかし、不気味な奴だ。
博士は、手術台に寝て、無言のまま無影灯を見詰めているアキオに目を向ける。
決して口にはしないが、博士は、どう身体をいじくりまわしても、うめき声ひとつあげないアキオを密かに恐れている。
こんな男は見たことがなかった。
再生した手足の異常な強さから考えて、この男は遺伝子レベルで強化された兵士だったのだろう。
彼はタッチしなかったが、数年前まで各国で盛んに行われた強化兵士育成の名残に違いない。
その強化プログラムで、痛みに対する体制も授けられたのだろう。
毎回、叫ばれたり喚かれたりされるのは面倒なので、それはありがたいが――
博士が、いま、アキオに投入しているナノ・マシンは、彼の娘の体内に入れてあるマシンと交換するためのものだ。
当然、開発中のものなので、不具合も多い。
体内に注入した途端に暴走して、アキオの指先を破裂させてしまったこともある。
それほどでは無いにしても、常に青年の体内では、苦痛の嵐が巻き起こっているはずだった。
感覚を強制的に遮断することもできるが、どの程度の苦痛かを知ることも目的のひとつなのだから、敢えて痛覚は取り除かないようにしている。
身体の変化は、センサーでモニターしているが、彼自身の感覚、痛いとか、気分が悪いといったものも、数値化して定期的に集計する必要があった。
博士は、それらをアキオ自身に数値化させて、ワイヤレス・キーボードで入力するように命じる。
青年は、言葉は話さなくても、言っている内容は理理解しているようで、今のところ、その命令が破られることはなかった。
博士は、自分が非人道的なことをしているのは理解している。
だが、彼には、いや彼の愛娘には、もう時間がないのだ。
大きく成長した次元孔に奪われていく肉体を維持するため、再生力を強化したナノ・マシンは、いつ制御ヘルメットの能力を超えて暴走し始めるか予測がつかない。
自分のやっていることが、根本治療ではなく対症療法であることは分かっている。
だが、現在の地球の科学では、人に開いた次元の穴を塞ぐ方法は見つけられないのだ。
もし、あのまま放っておいたら、シヅネは、4歳の誕生日を待たずに、全身を穴に取り込まれてしまっただろう。
患者が、次元孔に完全に取り込まれると、その場所、その空間に直径50センチほどの黒い穴が残る。
その穴は、それ以上大きくなることもないが、消えることもなく、その場にぽつんと存在し続けるのだ。
人の死と共に生まれるその黒い穴は、誰言うともなく墓標ならぬ、墓孔と呼ばれるようになった。
各国の政府によって、墓孔は、チタン合金の箱で覆われ、その周りを強化コンクリートで固められる。
博士は、かっと目を見開き、壁に拳を叩きつけた。
自分は、絶対にシヅネの墓孔など作らせない。
そのためのナノ・マシン研究なのだ。
誰を犠牲にしても完成させてみせる――
カヅマ・ヘルマンは科学の天才だ。
その自覚はある。
これは驕りではない。
12歳で発表した、極極小機械工学についての論文は世界の注目を集め、名だたる研究機関から招聘を受けた。
そのすべてを蹴って、適当に作り出した発明品の特許権で、好きなように生きてきたのだ。
枯渇する水資源を求めて、世界中に紛争が広がり、大国が、その資力と兵力をもって小国を蹂躙するのを見て腹を立てると――
つまり、無線ドローンで、自分たちは一切危険を冒さず、大国が他国を攻撃する卑怯な戦い方を見て――
『正義』は為されなければならない、という信念の下、当時、思い付きで作ったナノ・マシンのプロトタイプに、ある特性を与えて、正義の女神であるテミス神の名をつけた武器を、世界中にバラまいたのだった。
そう、自分は、才能を無駄に浪費しながら、人生を好きなように生きていた。
十数年前、突然、彼の子供だという娘が現れるまでは――
母親には覚えがあった。
どこかの金持ちのパーティーで知り合い、彼が気まぐれに付き合った女の一人だ。
たしか、科学者と言っていたが、他の頭が空っぽの女と違い、美しい上に、ある程度、科学的な話も合ったので、比較的長く関係は続いたのだが、ある日を境に女は姿を消してしまった。
彼女は、彼の子供を身ごもり、故郷の研究機関で働きながら、ひとりで産み、育てていたのだった。
だが、研究機関が敵国の攻撃を受け、彼女は死んだ。
残された娘は、彼女が生前残しておいた書類に従って、彼の許に送られてきた。
遺伝子情報から考えて、彼の子供に違いはなかったが、もちろん、彼は、自分で育てるつもりなどなかった。
金ならある。
大金と共に、誰かに押しつけるか、どこかで育てさせれば良い、そう思っていたのだ、娘を実際に見るまでは――
「はじめまして、お父さま」
だが、実際に、娘に会って、その顔をみて、声を聞いて、笑顔を見た彼の世界は一変した。
誰一人として愛してこなかった男、ひょっとすると、自分自身すら愛していなかった男が、老いを体感する歳になって、初めて他者を愛したのだ。
彼のそれまでの人生は、高出力のエンジンを搭載しながら、ハンドルがなく目的地も定まらない競争車だった。
どこへ行く当てもなく、闇雲に突っ走るだけの――
だが、今や、彼には目標ができた。
娘を育て、彼女の成長を見守りながら生きていくのだ。
その矢先に、娘が次元孔病を発症したのだ。
彼は、絶望し、運命を呪った。
思えば、今まで、自分は、突出した能力を与えられながら、遊び半分でしかそれを使ってこなかった。
思いつきで作ったナノ・マシンで、昔の戦場を作り出し、小遣い稼ぎと、ちょっとした研究資金を得るために、スクラムジェット・エンジンを開発して、あとは暗号を作って遊んでいただけだ。
その罰なのか。
自分の能力では手の届かない病に、娘が罹患してしまったのは。
そう思って、初めて自分を責めもした。
だが、すぐに彼は考え方を改めた。
まだ間に合う。
自分の持てるすべての力を使って、娘を救えばよいのだ。
それから十数年、いまだにカヅマ・ヘルマンはもがいている。
振り返った博士は横たわる青年に言った。
「さあ、次の実験だ。これは少し、細胞再生が速すぎて気分が悪くなるかもしれないが、安全装置はかけてあるから、この間のように、身体が破裂することはないはずだ」