164.月下
夜中にアキオは目が覚めた。
窓から差し込む月明かりで、部屋の中は、ぼんやりと明るい。
左右からは、穏やかな寝息が聞こえる。
彼の右手をシジマが抱き込むようにして眠り、左手はミストラが優しく抱きしめているのを見て、アキオは微笑んだ。
かつての彼なら、利き腕を取られたまま眠るなど考えられないことだった。
だが、それでいいのだ。
寝る時、歩く時、食事の時――常に利き腕を使えるように、物を持たず、手をつながず、組まず、常に攻撃に備えて、斜めにテーブルにつくような生活が異常だったのだ。
俺は、この娘たちによって、人間らしい生活を送るようになっている――
少女たちの寝顔をしばらく見つめて、彼は静かにふたりの腕を外して床に降り立った。
音を立てないように部屋を出る。
特に、どこに行こうという目的はなかったが、知らぬ間に、彼の足は研究室に向かっていた。
部屋に近づくと、空気の摩擦音がしてラボの扉が開く。
中に入ると自動的にライトが点灯した。
アキオは、部屋の隅に置かれたコフに近づく。
キラル症候群の治療を優先させているため、彼女のための研究は手つかずのままだ。
アキオは、コフの天板に手を触れて、表示されたキーボードを使って素早く文字を打ち込んだ。
銀色だった天板が透明になり、内部が見える。
コフの中で、彼女が眠っていた。
全裸の彼女の体は、出会った時そのままに美しかったが、頬から上は、まるで仮面のような灰色の靄が覆っている――
地球の気候変動が激しくなり、多くの島国が海面上昇で水没し始めた頃、ごく少数の者が奇妙な病気にかかるようになった。
後に、次元孔病と呼ばれる病気だ。
ある日、突然、体の一部に穴が開く。
そして、その小さな黒子のような穴は、徐々に大きく育っていく。
それは、外科処置で取り除くことはできない。
穴というのは例えではない。
実際、ペンを差し込めば、どこまでも入るほど深い穴なのだ。
当然、医師たちは内視鏡ロボットを投入したが、それらは穴の中に入ったとたんに通信が途絶して行方不明になり、有線カメラの場合は何も映らず、引き出すと信じられない形に変形していた――
ある程度、穴が大きくなっても、身体の機能に異常がないことから、消えたように見える部分は、目には見えないものの元の肉体につながっていると思われた。
やがて、ある学者が、次元孔病は、身体の一部が、何らかの形でつながったまま、別次元に転移させられた状態であるとの仮説を発表した。
死に至る病ではあるが、発症者が限られていたため、それほどパニックにはならなかった。
だが、細菌やウイルスによるものでもなく、ガンのように細胞分裂のミスが原因でもないこの病気には、有効な治療法が存在しなかった。
穴ができても、すぐに人は死なない。
それでも、長くて2年、おおよそ体の80パーセントが穴に取り込まれると、眠るように患者は死んでいくのだった。
効果的な治療法のない、物理的な病気、それが次元孔病だった。
その病気に正面から取り組んだのが、娘をこの奇病に冒された天才カヅマ・ヘルマン、彼女の父だった。
彼は、誰も思いつかない方法で、娘の命をこの世界につなぎ止めたのだ。
その方法は――
理論上は語られていても、まだ誰も実用化していなかったナノ・マシンを開発し、消え去った穴の中、現実的には表層部のみだが、をその機械で埋めたのだ。
こうすると、穴が大きくなっても、転移された元の生体物質ではなく、穴埋めされたナノ・マシンと身体が、栄養や情報をやりとりして患者は死ななくなるのだ。
しかし、穴が大きくなると、それを埋めるために、ナノマシンの増殖速度を上げる必要が出てきた。
通常のナノ・マシンでは、穴に消えていくマシンの量に再生速度が追い付かなくなるのだ。
方法はある。
ナノ・マシン研究者なら誰もが知っている方法が――
だが、それはナノ・マシンを開発するものが、決して手をつけてはならない禁忌だった。
溺愛する娘のために、カヅマ博士は迷わずそれに手を染め……そして悲劇が起こった――
アキオは、コフの天板に手を触れると不透明にし、研究室を出た。
目を覚まして彼がいないと、ふたりが寂しがるだろう、そう考えて部屋に戻ろうとして、ふと廊下の窓から外をみると、庭園の広場で動く人影を見かけた。
アキオは庭に降りる。
そこでは、ナノ・ファイバーで取り入れられた月光の下、少女がひとり無心に踊っていた。
蒼白く冴えた3つの月の光を浴びてユイノは踊る。
それは、真夜中の静かな庭園内にもかかわらず、まるで美しい音楽が聞こえてくるようなダンスだった。
きれいな足さばきで、大胆に動いたとみると、片方の爪先を他方の膝につけるパッセをしたまま、激しく回転するピルエットを行い、そのまま流れるように大きくジャンプする。
アーチ型に広がった足が弓矢の放物線のような軌跡をなぞり、軽やかに地面に着地した。
身体をのけぞらせると、長い手足が波打つように優雅に動く。
月光に向かって掲げた手が美しく回転し、細い指先が研ぎあげられたナイフのように夜気を斬る――
少女は、その顔に、楽し気な微笑みを浮かべて踊り続ける。
美しく流れる赤い髪が月光に光り、木陰で見つめるアキオは陶然とした気分になる――
まさに、天性の舞姫だ。
しばらく、赤い髪の妖精が、思い切り人生を謳歌するような踊りを見つめた後、邪魔をしないように、彼は踵を返した。
「アキオ!」
背後から声を掛けられ、振り返る。
ユイノが体の線がはっきりわかるタイツ姿のまま、息を弾ませて駆けてくるところだった。
「すまない、邪魔をした」
「いいんだよ。ちょっと目が覚めてね。身体を動かしたら眠ることができると思ったのさ」
アキオは、走り寄って彼の前に立つユイノを見下ろした。
その体の小柄さに、アキオは改めて驚きを感じる。
踊っているユイノは、圧倒的な存在感で、巨大といってよい印象を与えていたからだ。
だが――どうして彼女に見つかってしまったのだろう。
俺のスニーキング技術は衰えたのだろうか、そう考えていると、
「アキオ、あんた、なぜ、あたしに見つかったか不思議に思ってるんだろう」
ユイノが笑う。
「そうだ」
「当たり前だよ。あたしだけじゃないよ。あたしたち全員が、あんたが傍にいると感じるんだ。その存在を――嬉しいことにね」
そう言って、ほんの少し逡巡したのち、ユイノはアキオに抱きついた。
「今日は、シジマとミストラと寝てたんじゃないのかい。あの子たちに悪いね」
「今から戻るさ――だが」
「なんだい」
顔をアキオの胸、というより腹のあたりに押し当ててユイノが甘い声を出す。
「素晴らしい踊りを見せてくれた。礼をいう――」
「水臭いじゃないか。あんたが踊れっていうなら、いつだって踊るよ」
「前にもいった――おそらく俺のためだけではなく、この世界のために君の踊りはある」
「いいすぎだよ。でも、嬉しいよ、ありがとう」
アキオは、ユイノの頭をポンポン叩くと、脇の下に手をいれて軽々と持ち上げた。
「あ」
そのまましっかりと胸に抱きしめる。
「意識は途切れてないな」
「あ、ああ。大丈夫だよ」
アキオの顔に触れるユイノの頬は、火をもったように熱い。
やがて――
とん、と彼は舞姫を地面に降ろした。
「あまり夜更かしせずに早く寝るんだ」
そういって部屋に向かって去っていく。