163.この卑しい地上に、
「お父さま」
無影灯の光に照らされた部屋の中、ひとりの少女が白いガウンに手をかけながら呼びかけた。
分厚いガラス越しに、初老の男が応える。
「なんだい」
「いつになったら、この部屋から外に出られるの」
「もう少し、あと少しの辛抱だよ」
「わたしね、お話のできるお友達が欲しい――本も楽しいけれど」
「外に出られれば、いくらでも友達はできる。さあ、早くお脱ぎ」
少女は、ガウンを肩から滑らせ、床に落とした。
あとには、一糸まとわぬ白い裸体が残る。
無影灯の強い光に照らされて、その美しい体は光り輝いていた。
「腕を上げなさい」
「はい」
「回って」
「はい」
少女が回るにつれて、男が自ら開発した検査装置から発せられた、可視および不可視光線を含む放射線が、細い首筋から形のよい胸、腰回り、そして足先までを走査していく。
同時に、男は左目の眼窩に嵌まった片眼鏡に似た装置で、少女の皮膚の状態を確かめる。
「少し――恥ずかしい」
「ああ、ごめんよ。でも、どうしても、やらなければならないことなんだよ」
一通り検査すると、男は言った。
「髪をあげなさい」
少女は、背中まである黒みがかった栗色の髪を手で持ち上げる。
やがて、装置のスイッチを切って男は言った。
「終わったよ、服を着なさい」
「はい」
「――おまえ、いくつになった?」
ガウンを着た少女に男が尋ねる。
「この間、16歳になったお祝いをしてくださったでしょう」
鳶色の瞳が彼を見つめた。
「そうか……そうだったな」
彼は、こめかみを揉んだ。
男の愛娘は、2歳で原因不明の奇病に冒され、彼の必死の対症療法で、この年まで生きながらえさせることができた。
だが、今は先の展望が見えない。
現状維持が精一杯だ。
「わたし、外に出たいのです。お父さま」
少女はベッドに腰かけて、古ぼけた旅行ガイドブックを開きながら再び言う。
部屋の一面は巨大な書架になっていて、そこには様々な本が所狭しと並んでいた。
「気持ちは分かるが――それは危険だ」
少女は男に背を向けて俯く。
「危険なのは、わたし?それとも世界?」
「それは――」
「少しぐらい良いでしょう。この仮面もあるのですから」
振り向いた少女は、頭部を覆う乳白色の仮面に触れる。
ぴったりと顔にフィットして頬から上を覆う仮面は、目の部分だけ穴があけられ、そこから美しい鳶色の瞳が覗いていた。
仮面は、昔話にある鉄仮面のように、彼女の顔の頬から上と、頭全体を覆っていて、首元から美しい髪が流れ出している。
「お父さまがくださったこの仮面のおかげで、前みたいに、身体中がおかしくなることはなくなったのですから」
男は首を振る。
「外にでてはいけない。もちろん、危険があるのはお前なのだよ。世界は恐ろしく、汚れに満ちている……」
彼は、娘に手を差し伸べるようにガラスに手を当てた。
「お前は、この卑しい地上に、間違って降りてきた素晴らしい生き物なんだよ」
「嘘よ。お父さまは嘘をついている。世界は美しいわ。きれいで素晴らしいもので溢れている!」
そう言いながら、少女は、本棚から次々と写真集を取り出して、男に広げて見せる。
「それは昔の話だ。いま世界は争いに塗れ、各地で戦争が起こっている――もう少し、あと少し待っておくれ、必ずわたしがなんとかするから……お前が外に出られるように」
「わかりました。お父さまを信じます」
少女は、棚から北欧の著名な童話作家の物語を取り出して読み始める。
「大丈夫だ。必ず何とかする――」
そう言いながら男は部屋を後にした。
歩きながら、彼は考える。
何体か、いや一体でもいい、実験用の人間が手に入れば、研究は飛躍的に進むだろう。
それが悪魔的な考えであることはわかっている。
だが、このままでは――
父が出て行くと、少女は、本を置いてベッドから起き上がった。
いつもの習慣で、彼女の身体データを測定したあと、父が必ずそのデータの解析をするために、実験室ではなく自室に籠ることを彼女は知っていた。
今なら、見つからない!
彼女は、長い時間をかけて練り上げた、脱出計画を敢行することにした。
デスク・ライトを手にして、監視カメラに向けて光を明滅させる。
観察と思考で導き出した、あるパターンを何度も繰り返す。
20分ほど続けて、もうだめかと諦めかけた時、ディスプレイを兼ねたガラスに文字が表示された。
〈ご命令を〉
彼女は、早口で言う。
「警報を切って、隔離室の扉を開けて、早く!」
静かに扉が開き、負圧になっている部屋に、外部の空気が吸い込まれる音が響いた。
〈うまくいった!〉
少女は、研究所の管理AIに、光を通じて強制コマンドを入力したのだった。
簡単に言うと、AIに光催眠をかけたのだ。
外部からの防御は完璧になされている研究所だが、内部には甘さがあって、それが彼女の付け入る隙だった。
暗号の天才である父が本気を出せば、とても破ることは不可能だが、そうでなければ、その血を引く彼女にも勝機はある。
そして、彼女は賭けに勝った。
普段、着ることのない、父が、彼女の気分を引き立てるためだけに買ってくれる外出着を、クローゼットから取り出すと、手早く着込んで少女は廊下に出た。
滅多に室外には出ないが、あらかじめ研究所の見取り図は調べてあるので、迷うことはない。
それに――
「わたしを外部出口へ誘導して」
「わかりました」
命令を受けたAIが、廊下の壁に大きな矢印を表示して、彼女を出口に導いてくれる。
やがて、大きな円形の、金庫室の扉に似た出口に彼女は到着した。
「外部ハッチを開けて」
「危険です」
「今は午後2時過ぎでしょう。何が危ないの」
「外は雪嵐です」
「じゃあ、それを止めて、できるでしょう?」
彼女は、父が研究所の周囲3キロにドーム状の防御幕を張っていて、必要に応じて自然環境を操作できるのを知っていた。
「早く!」
彼女は、一刻も早く、本で読んだことがあるだけで、触れたことのない雪の上を歩きたいのだ。
この美しき世界を――
「仰せのままに」
AIの言葉と共に、ハッチが開いた。
少女は外に飛び出す。
研究所の外は、昼間にもかかわらず雪嵐のために薄暗かった。
「明るくして」
「わかりました」
彼女の命令で、照明ドローンが射出され、地上50メートルで静止して明るい光を放ち始める。
見渡す限り、白一色の景色だ。
「ああ」
ため息をつくように呟きながら、屈んで雪を手に取ると、その冷たさが身に染みた。
彼女は、嬉しくなって笑いだす。
これが、世界だ――
「あら?」
その時、少女は目の端に黒い物体を捉えた。
「何かしら?」
そう呟きながら、それに向かって歩き出す。
近づくと、それが何か奇妙な形をしたものであることに気づいた。
本当に奇妙な形のものだった。
人間を胸のあたりで切断して、上半身だけを雪の上に投げ出したら、こうなるだろう、という形をしているが、そんなものが、この世にあるとは思えない。
血も流れていない。
「人形かしら」
そう思いながら、少女はさらに近づく。
しかし、それは、人形でも、物でもなかった。
金属に覆われているけれど人間だった。
服装から判断すると兵士のようだ。
若い男性だ。
まだ生きている!
少女は、彼の額に手を当てた。
男は、うっすらを目を開けて、彼女を見た。
さっと手が動いて額に置かれた手をつかむ。
少女は声をかけようとし――
さっきまで読んでいた物語を思い出して、こう言った。
「気がつかれました?お寝坊な兵隊さん」