161.虚無
マドライネは父を知らなかった。
彼女が生まれた時には、もう亡くなっていたのだ。
母は、上流貴族の娘だったが、嫡子ではなかったため、彼女がものごころつく頃には働きに出ていた。
その仕事は不規則で、朝早く夜遅いことが多かったため、彼女は祖父母に与えられた乳母によって育てられた。
だからといって、母との接点が少なかったわけではない。
母は、毎夜、帰ってくるたびに彼女を抱きしめ、すでに眠りについている彼女を起こしては丁寧に謝った。
そして、彼女に、その日起こった出来事や、昔あった事件を、物語のように、子守歌のように語って聞かせるのだった。
母の語る物語の多くは、父の思い出から始まっていた。
彼女は、夜毎のように、娘の目から見ても美しい横顔を仄かに紅潮させながら、父が、いかに優しく力強く、素晴らしい男性であったかを、繰り返し幼い娘に語ってきかせるのだった。
やがて大きくなった彼女は、生来の利発さもあって、男性という存在が、母の想う父のように単純ではないことを頭では理解したが、刷り込まれた父への想いは容易に消えなかった。
8歳になったばかりの頃、彼女は、使用人たちの会話から、自分が屋敷にあって異質な存在であることを知った。
それまでも、祖父母たちの態度から、何かしらの違和感を感じてはいたものの、ふたりが上流貴族らしく、あからさまな態度にあらわさないために、彼女も気づかないふりをしていたのだ。
しかし、頼みたいことがあって、出向いた使用人たちの控え部屋の前で、扉越しに聞こえる彼女たちの歯に衣着せない会話から、彼女は自分自身の隠された秘密を知った――
生物学上は、生みの母であるにもかかわらず、法律上、母は彼女を引き取った養い親に過ぎなかったのだ。
そして、彼女には、屋敷における財産権がまったくなく、18歳で成人すると家を出ていかねばならず、それ以後は、母以外のいかなる家族との接触も禁じられることを知った。
さらに、彼女を打ちのめしたのは、自分が、父の同意なく生み出された、人工授精の子供であるという事実だった。
すでに亡くなっていた父の精子を手に入れた母は、誰の同意も得ないまま彼女を身ごもったのだ。
受胎処置を受けた母は、一年近く祖父母と戦って、先の条件で彼女を生むことを納得させたのだという。
その話を隠れ聞いたマドライネは、祖父母の彼女を見る目が冷たい理由を、改めて理解した。
人工授精は法的に禁じられた医療行為ではないが、貴族の遺伝子を勝手に入手、使用して、相続権を主張する行為が多発したため、貴族、特に上位の貴族からは、そういった行為は蛇蝎のように嫌われているのだった。
彼女は、また、母が名を変えて働きに出ていることも知っていたが、その日、なぜ母の名が、もとの貴族名とまったく違うものなのかを理解した。
アダムの恋人で、処女受胎をして自分を生んだ女性なら、エヴァ・マリアと名乗るのは当然だ。
だが、そうやって、何もないところから生み出された自分はどうなるのだ。
何者でもない、空っぽな器だ。
ゼロであり、虚無だ――
その夜、帰ってきた母が、いつものように、彼女の髪を撫でながら話し始めると、それを遮ってマドライネは尋ねた。
なぜ、勝手にわたしを作ったの、と。
エヴァは目を閉じ、再び開けると、話し始めた。
アダムとの出会い、逢瀬、別れ――
「わたしは、どうしても彼との子供、あなたを生みたかった。後悔はしていないわ――あなたには申し訳ないけど」
彼女は、アダムの死の真相を知るために、女王アルメデと宰相キルスの傍で働いているのだ、とも言った。
「本当は、もう少し大きくなってから話そうと思っていたのだけれど、マドライネ、あなたは頭の良い子だから、きっとわかってくれる、そうでしょう?」
マリアの言葉を、表情を変えずに聞いていた少女は言った。
「エヴァが愛するアダムの子供を欲しがるのはわかります」
「今までのようにお母さんとはいってくれないの?」
少女は、それを無視して続ける。
「お願いがふたつあります」
「おいいなさい」
「成人したら、わたしをエヴァの補佐として働かせて。わたしなら、アダムの死の真相を探し出せると思うから」
「――わかったわ。もうひとつは?」
「名前を変えたい」
「――なぜ」
少女は答えない。
「わかったわ。新しい名前を教えて」
「カイネ」
「カイネ……」
エヴァは、ほんの少し眉をよせたが、すぐに、いいわ、と答える。
彼女の家の力を使えば、名前を変えることぐらい容易いことだ。
嫡子なら難しいだろうが、マドライネの立場なら、なんの問題もない。
いつものように髪を撫でられながら、カイネになった少女は、天蓋の一点を見つめていた。
カイネという名は、彼女の心と覚悟を表している。
昼間も感じていた、ゼロであり、虚無な自分を表す名前。
ドイツ語で、NOを表すカインの語尾変化形。
そして――
なにより、父アダムの死の真相が明らかになった時、その責任を取らせるために、自分は行動を起こさなければならない。
ならば、アダムとエヴァの子供にして、人類最初の殺人者であるカインの名を、女性名に変えて使うのは当然だ。
一年後、カイネはエヴァから、延命措置の話を聞いた。
「だから、あなたが処置を受けてね」
「エヴァは受けなくて良いのですか……」
栗色の髪の女性は、少女を優しい目で見つめながら言う。
「あなたは、お利巧だけどおバカさんね」
「どうして――」
「そんなものを受けたら、アダムに会うのが100年先になっちゃうじゃないの」
冗談ではなく本当の理由を、と言いかけたカイネは、エヴァの目を見て口を閉じた。
彼女が本気で言っていることを理解したからだ。
それからしばらくして、カイネは、エヴァから、アダムの死の真相を聞かされた。
長らく、彼女が、愛しながらも疑いを捨てきれなかった女王自身が話してくれたらしい。
肩の荷を下ろしたように、すっかり有頂天になったエヴァを見て、かえってカイネは心配になる。
エヴァは騙されているのではないだろうか。
頭は良いが、彼女は、良くも悪くも上流貴族のお嬢さん育ちだ。
心根も真っすぐな彼女は、天才と評されているアルメデにかかれば、容易に騙されるに違いない。
やはり、自分が、ことの真偽を見極めなければならないだろう、そう考え、カイネは、予定通りエヴァの補佐になるべく、飛び級で進学した大学での勉強に励むのだった。
14歳で、予定より早く、彼女はエヴァの補佐として高い城に登城することになった。
実際に、間近で見るアルメデ女王は、メディアで見るより、そして思っていた以上に美しかった。
それだけでなく、周りにいるものすべてを愛し、許容する包容力も感じる。
生まれも育ちも能力も、すべてにおいて敵いそうにはなかった。
だが、彼女は見極めねばならない。
そのために、高い城にやって来たのだから――
女王への初顔合わせが終わったあと、エヴァは、キルス宰相の執務室に運ぶ書類の山を、カイネに持たせた。
部屋に入ると、宰相がエヴァに、この娘はなんだ、と目で問う。
カイネは、エヴァに紹介され、自分に今できる最高のカーテシーを宰相に見せた。
「そうか、よろしく頼む」
よく通る声でそう言われると、反射的に彼女は宰相を見た。
ふたりの目が合い、視線が絡まる。
そのまま、カイネは、彼の目から視線を外せなくなった。
どういうわけか、キルスの目に、彼女と同じ光があるように思えたからだ。
孤独で、何かに飢え――
「カイネ」
ぶしつけにキルスを見つめ続ける少女をエヴァがたしなめた。
我に返ったカイネは、視線を宰相から外し、エヴァの後について部屋を出て行く。
それ以来、カイネは、キルス宰相を意識するようになった。
アダムと、その死の真相以外に興味を持てなかった少女が、初めて他者に興味を抱いたのだった。
こうして、彼女の、王城での生活が始まった。
人並み以上に頭がよく、気が回るカイネは仕事に慣れるのも早かった。
さすがに国の機密に関することは話さなかったエヴァだが、かわりに高い城における、やんごとなき方々の日常生活について、毎夜のようにカイネに話してくれていたため、ふたりがどのような考え方をし、何を望むかを先回りして実現することができたのだ。
カイネが、アルメデとキルスにとって必要不可欠の右腕になるまでに時間はかからなかった。
それから、2年後、エヴァが死んだ。
人ごみの嫌いなカイネが、休みを取って家にいた時のパーティ会場で、女王を守って撃たれたのだ。
夜中のうちに、病院でエヴァの遺体と対面したカイネは、長い間、彼女の穏やかな死に顔を眺めていた。
朝になれば、祖父母もやってくるだろう。
その前に、母とひそやかな無言の会話がしたかったのだ。
エヴァは、彼女の愛したアルメデ女王を守って死んだ。
だが、実際、父の死の真相を聞いてからのエヴァは、常に死ぬ機会をうかがっているようなところがあった。
科学の力を使って、父のいない娘を作り出したエヴァだが、一方では信心深くもあったので、アダムの待つ冥界へ早く行きたかったのだろう。
そのために、アルメデの暗殺者は利用されたともいえる。
カイネの生物学上の母は、早くに死んだ父と自身の短い生涯の代わりに、彼女に100年を超える寿命を与えてくれた。
彼女は、それを有効に使わねばならない。
エヴァに別れを告げて病室を出たカイネは、人気のない病院の廊下を歩くうち、キルスの姿を見つけた。
手術を見学している。
エヴァと同時に撃たれたスタン・ステファノのものだろう。
独り、手術を見ながら普段とまったく違う姿を見せる宰相は、彼女に強い印象を残すのだった。
さらに2年が経って、彼女は、エヴァが与えてくれた延命措置を受けることになった。
処置当日、女王に冷静さを指摘された。
実際、彼女に感慨はなかった。
とにかく早く処置を受けたいだけだ。
若く、美しいと言われる自分の容姿を保つことに興味はない。
それより、女王や宰相のように、簡単に死なない身体が欲しかった。
女王が腕を撃ち飛ばされ、宰相が腹部を撃たれても平然としていたことは、王城内では周知の事実だった、
エヴァのように撃たれてあっさり死んだり、アダムやスタン・ステファノのように、全身を機械化されて不自由に生きていくのは我慢ならなかった。
彼女には、やらねばならないことがあるのだ。
そして、彼女は、女王に代わって服を受け取りに出た城下で誘拐された――
アルメデ女王が、悪魔と呼ばれ、かつて世界を滅ぼしかけた男に盲目的に恋していることはエヴァから聞いていた。
だが、普段、女王はその気持ちを巧妙に隠しているので、カイネもすっかり忘れていたのだが……
処置のために男が王国にやってくることを知った女王の態度が、まるで思春期の少女のようになるのを見てカイネは驚く。
その可憐で無防備な態度と仕草に、彼女までが微笑ましく思ってしまったほどだ。
普段、服に頓着せず、与えられた衣装を着るだけのアルメデが、わざわざヴェールで顔を隠して、城下で話題の店で服を作らせたのも、男に見せるためらしい。
それを知ってカイネは苦笑するが、キルスが微妙に不機嫌になるのが気にかかる。
突然に決まった来訪で、服を受け取りに行けない女王のために、彼女は出かけ、その結果、誘拐されたのだった。
髪の色と瞳の色が似ているため、女王と間違えて攫われたものの、人違いと判明しても特に手荒い扱いはうけなかった。
首謀者らしき初老の科学者は、大人しくさえしていれば、危害は加えないと言う。
そして――
科学者と共に窓から見下ろす広場で、縦横無尽の闘いぶりを見せ、ロボットを破壊し、ドアを蹴破って現れた黒づくめの男は、老人をナイフで刺し、カイネを開放すると尋ねた。
大丈夫か、と。
人質である自分の安全を考慮しない態度に冷たく反応したカイネだったが、男の焦げ茶色の瞳を覗き込んで、密かに身震いする。
彼の目が、キルスと違って、どんな色も光も浮かべていなかったからだ。
果てしない深淵につながる二つの裂け目、それがカイネの見た男の目の印象だった。
男が200年近く生きているのは知っている。
しかし、どのような人生を歩めば、これほど虚無的な瞳になるのか想像もつかなかった、
これは、もはや人間の目ではない――
だから、少女は、処置をするために全裸になれと男に言われても抵抗がなかった。
相手が人間でなければ恥ずかしがる必要もないからだ。
――あっさりとナノ延命措置は終わり、彼女は120年の若く健康な命を得る。
男の、城まで送ろうという申し出を断り、彼女は、機能を回復した通信機で城と連絡を取ったのち、階段を下りてビルの外に出た。
高い城に向かおうとして、ビルの壁にもたれて死んでいる白髪の男と、その掌の上に置かれたキイ、そして、彼の脇に寝かされた、壊れてはいるものの原形は留めている二輪車を目にする。
確か、この黒いバイクは、悪魔が乗っていて、ロボットにぶつけられたものだった。
それが、なぜ、ここにあるのだろう。
おそらく、あの黒い男が、どうやったのか、壊れたバイクをここまで運んで来たのだ。
その理由はわからないが――
カイネは、狂ったように二輪を乗り回し、多くの人間を傷つけた黒髪の男の瞳を思い出し、ため息をついた。
悪魔のやることは常人には理解できない――