152.拍動
トルメア王国宰相キルス・ノオトの朝は早い。
陽が昇る前に目覚め、一日の予定を確認し、政務および軍務等、様々な事柄について密かに研鑽を積む。
そうでなければ、如何に女王アルメデの国内での人気が高かろうが、単なる国からの目付け役であった若造に宰相が務まるわけがない。
アルメデが女王になった時、彼は二等政務官として王国の政治に携わるか、それまで通り、アルメデ付きの役人として生きていくかの選択を迫られた。
当時は、愚王を無視して老宰相が国の全権力を掌握していたため、ポッと出の王女付きの若造が政治に食い込む余地など、まったくなかったのだ。
だが、キルスは悲観しなかった。
天才と呼べるアルメデの敏さと、自分の能力、人に見せられない暗部も含めて、を使えば、それほど間を置かずに老宰相には退去してもらえるだろう。
事実、2年と経たぬうちにキルスは老人を引退に追い込み、宰相の地位に就いたのだった。
当然のことだ。
徒手空拳、その手に何も持たず屋敷の前に捨てられていた孤児が、兄を追い出してまで手に入れたノオト家の嫡男の地位、それを利用して王国の中枢を目指しているのだ。
どのような権謀術数を用いようともトルメアを掌握し、世界に冠たる国に押し上げる。
その強い思いにとりつかれて、キルスは働き続けているのだ。
汚れ仕事はすべて自分が行う。
アルメデには清廉な女王として、表看板を引き受けてもらえばいい。
『地球で一番美しく聡明な人』が世界を救う――馬鹿げたキャッチフレーズだが一般受けはする。
奇妙なことだが、彼は生まれてこの方、自分の心臓を意識したことが一度もなかった。
つまり、ことに及んで不安や緊張で鼓動が速くなって、心臓の存在を感じたことがないのだ。
学生時代、唯一親しかった辺境伯の嫡子バロネスにそのことを話すと、いつも陽気な彼が少しまじめな顔になって、たしかに君は心臓無しなところがある、といった。
ハートレス・キルスだと。
その愛称を、彼は気に入った。
ぜひ、墓標にその名を刻んで欲しいものだと思う。
3年前に受けた延命措置で、さらに彼の野望は加速した。
処置によって寿命が延びただけではなかったのだ。
まるで魔法のように身体が疲れにくくなり、記憶力さえよくなった。
常に頭をクリアにしておけるために、一度に複数のことに思考を集中できる。
さらに、運動能力さえ上がっていた。
だが――キルスは喜びと同時に不安も抱く。
まだ公に彼らがナノ処置を受けたことは知られていないが、アルメデが言うように、いずれは老化の遅さで、周囲に気づかれるだろう。
それまでに、どのように内外に告知するかを考えておかねばならない。
他国の指導者が処置を受けたという話も聞いていないが、どんな気まぐれで悪魔が延命措置を彼らに施すか分からないのだ。
それに対処するために、なんとか早めに、悪魔の研究所の所在地を突き止めておかねばならない。
手はすでに打ってある。
資料を求めて、自室を出たキルスは書庫に向かった。
朝焼けに輝く空を見ながら、高い城の空中庭園を見下ろす渡り廊下を歩いていると、視界の隅に何かが動くのが見えた。
立ち止まって見つめる。
アルメデだ。
彼女は、庭園の開けた芝生の上で、独り激しく身体を動かしていた。
すらりとした細身の身体がしなやかに動き、それにつれて、上りつつある朝日が芝生に長い影を作っている。
少女は、数本の棒を持ち、それらを巧みに操りながら、交互に持ち替え、回転させ、自らも美しい足さばきで動いていた。
しばらくすると、それまでの動きを確認するように、俯いて静止する。
また少しすると、軽やかに動き出し、手足が美しい軌跡を描く。
それはまるで、赤く染まる庭園の中で行われる独り舞台のようだった。
「女王さま」
キルスは廊下を下りて少女に声をかけた。
「ああ、キルス、おはよう」
アルメデは動きを止めて笑顔になる。
「おはようございます――何をなされているのですか」
「ふふ」
少女は悪戯を見つかった子供のように笑った。
「王立軍の軍事教練で複数武器を効率的に使う方法を考えていたのです」
「女王さま、それはあなたがなさることではありません」
「そういうと思いました。わたしは考えるだけです。動きが出来上がったら、コルビコに伝えて教えさせるから大丈夫ですよ」
「彼は将軍です」
「上の者こそ、兵卒の技術を知っておかねばなりません」
目を輝かせる女王を見て、キルスはため息をつく。
だいたいにおいて聞き分けのよい女王なのだが、時折、どうしようもない頑固さを感じるときがある。
エヴァが間に入ってくれるから、今は、何とかなってはいるが――
「近いうちに、サイベリア軍と小競り合いがあるかもしれないでしょう」
「可能性は高そうです」
「その時に備えて、わが軍の兵には強くなってもらいたいのです」
アルメデは遠くを見る目になり、
「わたしの考えた動きは、理想からは程遠いものでしょうが――」
「わが王国は科学力で勝利します、女王さま。先日、開発を終えた、硬化外骨格があれば、時代遅れのサイベリアに後れをとることはないでしょう」
「おそらくはそうでしょう。しかし、備えは怠らぬことです。わたしは無駄に兵を失いたくありません」
「わかりました」
キルスが折れる。
「それにね、キルス」
朝陽を背に美少女が笑う。
運動にそなえて藍房の紐でひと纏めにくくられた金色の髪が揺れ、
「わたしは、あの太ったカブトムシのような装備がどうしても好きになれないの」
その瞬間、気まぐれな一陣の風が吹き渡って、少女の前髪を柔らかく揺らした。
それを目にして――なぜか、キルスは胸の鼓動を意識する。
彼は、今更ながら、出会った時から十数年、出世のために利用する小動物だと思い続けていた幼女が、美しい女性になっていたことに気づいたのだった。
「キルス、どうしました」
動きを止めた彼にアルメデが不審な声を出す。
背後に走り寄る軽い足音を聞いて、キルスは、ひとつ咳をすると言った。
「硬化外骨格のデザインは再考させます。それでは失礼します。女王さま」
王女に背を向けると、タオルをもって走ってくるエヴァが見えた。
「おはようございます」
彼女の挨拶にうなずいて、キルスは書庫に向かう。
心臓の鼓動は通常に戻っていた。
ナノ・マシンの影響かもしれない、一度検査を受けたほうがよいだろう、そう思いながら彼は渡り廊下への階段を上っていく。