147.高い城の、6
トルメア王国は、着々と領土を拡大し続けていく。
その過程でアルメデは、多くのことを学んだ。
媚び諂いを受け、裏切りは日常のようにあった。
国の内部はもちろん、外交においてもそれは顕著だ。
彼女は美しいらしい。
自分でも、肩の傷以外はそうかもしれないと思い、アキオもそう感じてくれるなら嬉しいと考える時はあるが、それで他国との折衝がうまくいくことなど皆無だった。
人は見かけの美だけでは動かない。
人類の長い歴史が証明しているように、人をまとめ動かすには、恐怖と欲望を利用するのが一番簡単だ。
人は肉体的、精神的な破壊を恐れる。
その恐怖を利用した統治は、歴史上、集団生活が始まると同時に開始されていた。
そして、欲望を利用する方法も――
欲望の形は人それぞれだが、それを利用するのは比較的容易だ。
金を用いればいい。
安全、快楽、高揚、優越……
金とはつまり、各々が欲する多種多様な欲望を、一見満足させるための汎用道具だ。
圧倒的武力を背景に、それらを、ムチとアメとして用いれば、他民族、異文化の国々をまとめていくことは可能だろう。
だが、彼女はその方法を採らなかった。
恐れで人を操る?
欲望で人を釣る?
その考えは単純すぎて、彼女とは相容れなかった。
世の中が、それだけで動いていると思うのは、稚拙な子供の思想だ。
「金で買えないものにロクなものはない」
某大国の大統領が彼女に向かって言い放った言葉だった。
それは一面、真実を衝いているだろう、だが――
そういった易きに流れ、理解しやすい言葉を耳にするたび、彼女の脳裏に浮かぶのは……
微笑みながら死んでいったアダムの姿、そして出会ったばかりの彼を相棒と呼んで、凄まじい手腕で彼の武器を扱い、助ける理由も必要もまったくないのに、それが当然のように見も知らぬ少女を救った彼の姿だった。
確かに人は恐怖に弱く、容易に欲望に屈する。
だが、同時に人はそれだけのものではない。
それだけでないところが、人を動かし国を統べる難しさなのだ。
恐怖に屈せず、欲望を無視し、自らの内部にある美に従う人間が、やがて鉄壁の国の土台を穿つのだ。
その結果、歴史上、恐怖政治と金に頼った享楽政治で国を治めようとした多くの国家が、短い時代で瓦解していった。
だが、彼女が目指すのは千年王国の建国だ。
歴史から学ぶなら、国家を長持ちさせるために、宗教を屋台骨とするのが定石だろう。
だが、彼女はその方法も採らなかった。
彼女は宗教国家ではなく、科学国家を作りたかったからだ。
人という種は、いずれ広大な宇宙に飛び出し、豊富な資源のもと、居住に適した星で機械生命を友として、ゆったりと長い生命を楽しみながら暮らすことになるだろう。
その考えの根底には、本物のAIであるミーナとの会話経験がある。
それまでの長い移行期間を、安全に人類に過ごさせるのが彼女の王国の目的だ。
キルスに言わせれば、とんでもない夢想家の夢らしいが――
したがって、彼女の国家拡大路線は、トルメアの伝統に則ったわけではないが、武力を用いた覇道ではなく、仁徳をもって行う王道、とは言えないまでも、キルスとアルメデの様々な計略に依るものとなった。
容易な道ではなかった。
だが、それは覚悟の上だ。
楽をするために彼女は女王になったわけではないのだ。
アルメデは、王国の技術開発に多額な予算をつけ、併合した国々から優秀な人材を集めては、科学技術と医学の発展を促した。
その過程で科学について知るほど、いかにミーナのAIが優れていたか、アキオのナノ・マシンが優秀であったかを彼女は思い知った。
いっそ、未熟な自分ではなく完璧なAIのミーナが国を統治し、アキオのナノ・マシンで環境を浄化した方が人類のためになるのではないかとも思う。
しかし、おそらく人々は機械にしたがうことを良しとせず、未だ世界を滅ぼしかけた小さな悪魔たるナノ・マシンに対して、恐怖と嫌悪を感じているため、それもかなわないだろう。
彼らに頼らず、アルメデは自分で解決策を見つけなければならないのだ。
地球規模で安全な水は枯渇し、200年前に突如とした現れたT地帯は未だ世界各地に散らばって、電子機器使用不可の場所は多い。
175年前のナノ・マシン暴走以来、人類の免疫と傷の回復力は飛躍的に向上したとはいえ、事故で死ぬものは多く、健康寿命も平均95歳を下回っている。
それらを、科学水準を底上げすることで、王女は解決しようと図ったのだ。
多くの国が、石油ではなく水を争って戦争を起こす事態も、それらを一国にまとめ上げ、技術で浄化した水を分配することで収めようとしている。
簡単ではないだろう。
だが、時間さえあれば――
気宇壮大な目標に比して、人の寿命は短すぎる。
彼女はまだ若いが、それでも彼女の理想に手を届かせるには、人生は短すぎるようだ。
滔滔と時間は流れていく。
アルメデが17歳になった年、エヴァは奇妙な通信文を受け取った。
その頃までに、彼女は、女王と宰相キルスの双方の補佐、およびふたりの意思のまとめ役としての働きをこなすようになっていた。
通信は、アルメデが国家に対する要望受付口として開設したアドレスに届いていた。
AIがひと通り中身を精査して安全性を確認後、内容に意味がある場合のみ、エヴァの手元に届くことになっている。
彼女が情報整理を女王から任された時、ただ一つだけ厳命されたことがあった。
それは、ミーナあるいはミーナクシという単語が含まれていた場合は最優先で彼女に知らせよ、というものだった。
AIもそれを知っている。
その文面が、その日、届いたのだった。
内容は短かった。
「再統合はなされた ミーナクシ」
アルメデの好みで、重要な文書は紙ベースに印刷して手渡すことになっている。
エヴァは書面を持ち、女王の執務室に向かおうとして――思いついて紙を折って封筒に入れ、蝋を溶かして封蝋を施した。
執務室に近づくと、アルメデがきつい調子で誰かと会話する声が聞こえてきた。
しばらく外で待っていると、執務室は静かになる。
話は終わったようだ。
エヴァは、ドアをノックした。
「入って」
アルメデが応える。
「失礼します」
中にはいると、アルメデが、わずかに頬を紅潮させてテーブルに置かれたティーカップに口をつけていた。
会話に使っていたであろうディスプレイは電源が切られている。
「サイベリア大統領ですか」
「そうです。あのわからずや――」
そういって、鼻息も荒くカップを置くアルメデを見ながら、怒る女王も美しく可愛いとエヴァは微笑む。
「それで――あらエヴァ、珍しいですね。封蝋の手紙だなんて」
アルメデが、エヴァの手元を見て尋ねる。
彼女は黙って手紙を女王に渡した。
「差し出し人もなし?」
封筒を改めたアルメデはつぶやき、
「スタンプはトルメアのものではないですか……」
そう言って、デスクの上のペーパーナイフで封を切った。
エヴァは、礼を失しないように女王から目をそらし窓の外を見る。
「いったい、何のいたずら――」
アルメデが言葉を途切らせる。
エヴァは王女を見た。
「姫さま」
驚きのあまり、昔の呼び名が口をついて出る。
女王が――凛とした毅然さと美しさで、国の内外から敬愛されるトルメア王国女王アルメデが、手で顔を覆って泣きじゃくっていたからだ。
反射的に、エヴァはアルメデに駆け寄る。
彼女は、まるで7歳の少女のように声を上げて泣いていた。
あたかも、ずっと止め続けていた涙が、堰を切って一度に流れ出したように――
どうしてよいかわからず、エヴァは、ただ黙って女王の背を撫でさするのだった。