146.高い城の、5
なんてきれいな方――
彼女が、キルスについて初めてアルメデ姫に挨拶をした時、最初に頭に浮かんだ言葉はそれだった。
もちろん、それまでに、彼女は各種メディアで姫の姿を何度も目にしていた。
それどころか、当時は、連日公開放送される会議や式典で、動き話す姫の姿を目にしない日はなかったのだ。
だが、カメラのレンズ越しで見るのと、直に自分の肉眼で見るのとでは、受ける印象がまったく違う。
だいたい、肉眼で見る本物は、各種媒体で見るより劣るものだ。
デジタル処理された画像は、リアルタイムで修正され、多少難のある容姿であっても、シミひとつない皮膚にスマートな肢体となってディスプレイに届くのだから。
だが、彼女が目にしたアルメデ姫は、美しさという点で本物だった。
年齢こそまだ11歳で、色気という点で劣るのは否めないが、彼女には、それ以上に高貴な美しさが漂っていた。
自分の栗色の髪と比較するべくもない、透けるような金髪、青い眼の毅然とした隙のない美しさだ。
「アルメデです。よろしくエヴァ・マリア」
王女は、彼女が名を名乗ると少しだけ驚き、そう言って手を差し出した。
「キルスを助けてくださいね」
エヴァは、温かく乾いた王女の柔らかい手をしっかりと握り、微笑む。
これは――いったいどういうことなの?
それからすぐ、キルスの下で働き始めたエヴァは再び驚くこととなった。
表向きの無欲な優美さはともかく、多少なりとも上流社会の事情に通じた者なら、アルメデ王女とキルスが、二人三脚で王位奪取に向けて、ひたすら邁進していることを知らない者はいない。
だが、現実にキルスに従って仕事を始めると、彼女は、蜜月であるはずのふたりがほとんど会話すらしていないことを知ったのだ。
キルスが王女の人気を高めるために最善と思われる方法を取り、アルメデが黙ってそれに従う。
彼女の見るところ、主に王女の忍耐によって、その良好な関係は維持されているように思えた。
多少、強引な日程であっても、また危険性があっても、アルメデ王女は、ひとことも文句を言わず公務を受ける。
その際に、話し合いが持たれることはほとんどない。
王女の従順さは、あたかも姫が何か弱みを握られているように見えるほどだった。
だが彼女が抱く印象はどうあれ、二人のコンビは絶妙で、日々その成果を積み上げ続けているのも確かだ。
数か月経つと、キルスは、王女への対応、ただ公務の予定を伝えるだけのことが多いが、をエヴァに任せることが多くなっていた。
必然的に、彼女と王女の接触機会は増えていく。
「……ということで、明日から3日間、ノルトラント地方の辺境地域を回ることになります」
「わかったわ」
彼女が書類入れから取り出した書類を読み上げると、自室でお茶を飲みながら聞いていた王女が間髪をいれずに答える。
「あ、あの……」
「どうしたの」
「お姫さまは、お疲れにならないのですか」
「アルメデ」
「はい?」
「名前で呼んでください。前からそういっているでしょう」
「はい、アルメデさま」
「別に疲れていませんよ」
そういって、王女は歳に似合わぬ艶やかな笑いを見せる。
「しかし、この三週間、まるで休みをとられていないではないですか」
「エヴァ」
「はい」
「どうしたのです。わたしは大丈夫だといっています」
「はい。しかし、わたしはキルスさまからおひ――アルメデさまの体調管理も命じられているのです。ですから――」
「ああ、わかりました。もし、疲れを感じたら、まず最初にあなたに報告します。それでよろしいですか」
背をまっすぐに伸ばして言葉を紡ぐ少女を見ていると、十歳年上の自分の方が子供に思えてくる。
この王女なら、まっすぐにアダムの死の真相を尋ねたら答えてくれるかもしれない、一瞬、その思いが頭をよぎるが、すぐに打ち消す。
天才と呼ばれる王女、実際、彼女の目から見ても確かにそう思えるその少女が、内務卿が手を替え品を替え尋ねても答えなかった真実だ。
そう単純にはいかないだろう。
だが、この点で、エヴァは間違っていた。
彼女がアダムの想い人であることをきちんと伝えさえすれば、アルメデは喜んでアダムの最期を話したことだろう。
時として、こういったすれ違いが、後に大きな齟齬を生み出すもととなる――
話し終わって、ゆっくりと美しい唇をカップにつける少女を見つめながら、誘拐された時に、いったい何があったのだろうとエヴァは思う。
長らく部屋に引きこもっていた彼女でさえ、王宮に招かれた兄や姉の口から、ひねくれてどうしようもない36王女、彼女はそう呼ばれていた、の話を聞かされることが多々あったのだ。
だが、彼女は3年前、アダムが行方不明になった事件を境に劇的に変わってしまった。
その変化にアダムが関わっているかどうかは分からないが、少なくとも、その経緯を彼女は知りたいと思う。
人をまったく変えてしまうほどの出来事とは何なのか――
彼女自身、アダムと出会い失ったことで、どれほど自分が変わったかということに気づいていなかったのだ。
「アルメデさま」
お茶を飲み終えた王女にエヴァは声を掛ける。
「今夜はシャワーではなく、ちゃんとお湯におつかりくださいね」
優美で美しい見かけと違い、物事を合理的に処理したがる王妃は、時間が惜しいといって風呂ではなくシャワーを使うことが多かった。
「しかし時間が――」
「湯につかり体温を上げ、免疫を向上させるのは、姫さまの務めのひとつです」
「わかりました。でもお風呂は独りで――」
「ダメです。せめて召使2人と共にお入りください」
ここ数年、王女は召使の手をできるだけ煩わせたくないと考えているようで、なにもかも独力で行おうとする。
「わかりました」
アルメデ姫は、エヴァの強い調子に不承不承ながら応じるのだった。
3か月後、血の復活日が勃発した。
その日、エヴァは、キルスに言われて、王女の夕食会での衣装を取りに屋敷に戻っていた。
調査の結果、12王女の衣装と色が酷似していることが分かったため、キルスの判断で衣装を変更したのだ。
彼女が屋敷に戻ったちょうどその時、大きな爆発音と銃声が轟き始めた。
エヴァは驚き、急ぎ庭園の近くまで戻ったが、入り口には武装兵士が立っていて、とても中に戻れそうもない。
はらはらしている間に空挺部隊が到着し、テロリストを制圧した。
銃声が収まると、キルスの名を出して庭園に駆け込んだエヴァは驚く。
他の王族たちとともに、いち早く逃げ出しているとばかり思っていた王女が、近衛兵を指揮して最後までテロリストと戦った上に、大けがをしていたからだ。
似合わないことに、キルスまでが市民を守って足を負傷している。
王女が守った人々の中には、彼女の両親と兄も含まれていた。
この事件以降、貴族社会に強大な力を持つエヴァの一族は、そろってアルメデの側に着くようになる。
王女は、11歳という未だ成長途中の小さな身体に銃弾を受け、肩から首にかけて大きな傷跡が残っていた。
これ以降、アルメデは肩の見えるドレスを着なくなり、ハイネック・ドレスを常用するようになる。
「アルメデさま、今日はお湯におつかりくださいね」
怪我が完治し公務に戻ったアルメデに、予定を伝えながらエヴァが注意する。
「でも――」
「いけませんよ……」
「免疫ですね。わかりました。でも、セレーヌたちの手を煩わせるのは嫌です」
アルメデは召使頭の名を出し、
「しかし、お独りでお入りになるのは――」
「エヴァお願い」
「はい?」
「一緒に入って。あまり多くの者に、傷を見せたくないのです」
「わかりました」
ふたりで浴場へ向かう。
かつては迎賓館としても使われた建物なので、古ぼけているとはいえ、湯殿の造りは豪華だ。
エヴァは、さっさと服を抜いだ。
上流貴族の娘である彼女は、召使たちの前で裸になるのは慣れているのだ。
意外だったのは、アルメデが裸になるのを恥ずかしがったことだ。
「そう、じっと見ないで」
先に裸になったエヴァがアルメデの脱衣を待っていると王女が言う。
「何を仰っているのです」
裸になった王女を促して、浴室に入る。
掛かり湯をして王女にも湯をかける。
他人の入浴の世話などしたことはないが、いつも召使たちがやってくれるのを見ているので、その真似事ぐらいはできるのだ。
自分がまず湯に入り、王女の手をとって、肩までつからせる。
「エヴァ」
「はい、アルメデさま」
「あなたの身体はきれいですね」
「ありがとうございます」
「好きな人はいるの」
エヴァは微笑んだ。
合理の塊である王女は、意中の殿方、だの心惹かれる御仁、だのという持って回った言い方をしない、それが好ましかったのだ。
「はい」
「その方に――肌を見せましたか」
「いいえ」
「そう――」
「どうされたのです?」
「わたしの身体をどう思いますか。男性から見たら、やはり――醜いでしょうね」
エヴァは理解した。
王女は、銃弾で傷ついた身体が、男性の目から、どう見えるか心配しているのだ。
だが、11歳の少女が、相手もいないのに何を心配しているのだろうか、将来現れる王子さまの心配だろうか。
その割に、少女の瞳は驚くほど熱に潤んでいる。
まるで、今まさに恋している乙女のように……
あらためてエヴァは王女の身体を見た。
手足の長い、均整の取れた美しい身体だ。
胸は年齢相応にそれほど大きくはない。
しかし、その形は、一流の芸術家によって生み出された、人の理想を具現化した彫像のようにきれいに整っている。
胸から腰にかけて流れるようにくびれた胴は、幼さの残る腰に続いている。
その完成された美の中にあって、やはり肩の傷は異質だった。
少女の肩を貫通した銃創は、奇跡的に骨を避けていたため、運動機能に問題はなかった。
だが、肩甲骨の斜め上の貫通銃創は、放射状の大きな引きつりを少女の美しい体の表裏に残している。
エヴァはどう答えてよいかわからず、とりあえず言った。
「傷など気にしない男性も多いでしょう」
「それは分かります。おそらく――しかし問題は、そこではないのです。あの人には、わたししかいないのに、このような傷をつけた体を――」
はっとして王女は言葉を切る。
「キルスさまはそんなことを気に……」
少女の仮想恋愛の相手なら近くにいる男性だろうと、何気なくキルスの名を出したエヴァは、少女の瞳がそれまでの熱い熱を帯びたものから、氷のような冷たさに変わるの目の当たりにして言葉を失う。
「キルス?」
王女は首を振ると続けた。
「エヴァ、その滑稽な間違いは、一度は許します。しかし、二度と繰り返さないでください」
この時の会話はエヴァに強い印象を残した。
アルメデ王女は、誰とは知れぬ男性に恋をしておられるのだ。
それから一年後、激動の時を経て、アルメデ王女はトルメア王国第29世女王となった。
あの夜以降、幾度となく共に入浴はしたが、王女は決して崩れなかった。
弱音もはかず不安も覗かせなかった。
あの方、の話も出さなかった。
女王となったアルメデは、何かに追われるように凄まじい勢いで周辺国を併合、他国家を統合し始める。