145.高い城の、4
少女は孤独だった。
貴族として、身分の高い生まれではあったが、三女として生まれ、優秀な兄と姉の陰に隠れて両親の愛情を感じることが滅多になかった彼女は、常に独り、部屋に籠って過ごしていた。
高い緯度に位置する彼女の国は夏が短く冬が長い。
その長い冬と短い夏の間の、さらにほんの一瞬といってよい春の季節が彼女は大好きだった。
人見知りする少女は、滅多に屋敷を出ることはなかったが、この季節だけは、毎日のように王都の公園に出かけるのだった。
そして、公園の巨大な池を取り囲むようにして植えられたユスラウメが満開に花をつける様子を見ながら、ゆっくりと公園を散策する。
かつて東方に存在したニッポンという国では、春に桜という花が満開に咲き誇ったそうだが、彼女はその花を知らなかった。
彼女にとっては、ユスラウメこそが春を彩る至高の花だったのだ。
「あ」
いつものように、花を見上げて歩いていると、何か大きなものにぶつかった。
「す、すみません」
それが人だと気づいた少女は、とっさに謝ったが、その時にバランスを崩して倒れそうになる。
「おっと」
力強い手で抱きとめられた少女は、その人の青い瞳が優しく笑っているのに気づいた。
「失礼、花に見惚れて、気づかなかった」
それは、背の高い大きな青年だった。
髪は金色で目は青く、整った顔立ちをしている。
青年は、彼女を抱きとめたまま、優しい眼でじっと見つめた。
少女は恥ずかしくなって身体を動かす。
「ああ、すまない。今度は、あなたに見惚れてしまった」
青年は、そういって少女をまっすぐに立たせてくれる。
「まあ、お口のうまいこと」
反射的にそう言ってから、少女は口を押えて顔を赤らめた。
男性に、そんな馴れ馴れしい言葉を発したことはなかったからだ。
しかも、見も知らぬ青年に。
「いやぁ、本当だよ」
彼は大きな声でそう言い、
「どうです。美しいあなたに、そこの店で売っているジェラートをごちそうさせてもらえないかな」
いつもの彼女なら男性を怖がって、すぐに逃げ出すはずだったが、なぜかこの時はそうしなかった。
彼の瞳の温かさが彼女に伝わっていたからかもしれない。
うなずく少女に、青年は大きな声で明るく言った。
「ああ、失礼、まだ名乗ってなかったね。俺の名は、アダム、アダム・ノオト――」
「よろしく、アダム。わたしは――」
少女も名乗る。
その後も、ふたりは暇を見つけては公園で待ち合わせ、池の周りを散策した。
ふたりは恋に落ちたのだ。
家格は、少女の方がずっと上であったが、幸いにして彼女は三女だ。
ノオト家の身分なら、彼女の親も反対はしないだろう、そう少女は思っていたのだが――
「すまない、俺はノオト家の家督を放棄してるんだ」
アダムはそう言って、彼の仕事が国の機密に属するものであることを告げる。
「だから、君と結婚することは、たぶんできない。いつ死ぬかわからないから」
彼女は泣いた。
彼を忘れようとした。
しかし、どうしてもアダムを忘れることはできなかった。
それからも、ふたりは時間がとれる限り会い続けた。
「すまない――愛してる」
それが、別れぎわに彼がいつもいう言葉だった。
出会って数年、突然、長期間にわたって彼と連絡がとれなくなった。
数か月後、連絡を受け、公園で会った彼の体に触れようとして彼女は止められる。
「触らない方がいい」
よく見ると、アダムの体は、ひと回り大きくなっていた。
「仕事で怪我をしてね。体のほとんどが機械になってしまった。だから、もう君を抱きしめることはできない」
別れよう、とアダムは言った。
彼女は拒絶した。
「あなたが、あなたである限り、身体は関係ありません。ただ――」
「ただ?」
「できれば、あなたの子供が欲しかった……」
アダムは、出会った時と変わらない優しい眼で彼女を見て……やがて口を開いた。
「仕事柄、こうなることも想定して、職務規定で精子を保管することになっている」
「え、ということは」
「子供が欲しいなら作ることはできるんだ。でも、おすすめできない。これからも、俺はいつ死ぬかわからないから」
「アダム――」
少女は、彼の唯一残った生身の部分である頬を手で挟むと優しく言う。
「お願い、あなたの子供を産ませて――」
そしてアダムはいなくなってしまった。
彼女は、自らの高い身分を使って彼の仕事を調べ上げ、内務卿に会いに出かけた
数年前なら、自分にこれほどの苛烈さがあることを信じられなかっただろう。
「彼は、ある任務で命を落としたのです」
なかなか口を開こうとしない内務卿を、国の要職にある父の名を出し、激しく揺さぶって、ついに真実を引き出した。
かつての彼女なら、決してそんなことはしなかっただろう。
だが、今の彼女にはできる。
何が、誰が、彼女から、彼女だけのアダムを奪ったかを知らなければならないのだ。
アダムは、単独で王女アルメデを救出に向かい、行方不明になったのだという。
しかし内務卿はそれ以上詳しいことを知らなかった。
それを知るのは、当事者であったアルメデ王女だけだが、なぜか彼女はその詳細を話そうとはしないらしい。
彼女は、しばらく考えた後、身分を偽り、偽名を使ってアダムの弟キルスの部下になることにした。
アルメデ王女の侍女になることも考えたが、アダムの言動から、彼の運命を変えた張本人こそが、キルスであることを知っていたから、彼の弟に近づこうと考えたのだ。
もし、アダムの死に、キルスやアルメデ王女が関わっていたなら許すつもりはなかった。
どのような手を用いても、彼女自身が彼らに鉄槌を下すのだ。
彼女は慌てなかった。
目標は決まったのだ。
あとは、それに向かって進めばよいだけだ。
さらに、やるべきことも多かった。
それから二年、彼女は、ある出来事について、両親と死に物狂いの闘いを繰り広げた後、彼らに打ち勝ち、昼間は率先して父の仕事を手伝って王国の事情に通じ、夜は寝る間を惜しんでさまざまな資格取得と訓練を邸宅で受けた後、内務卿を通じてキルスと会った。
「初めまして、キルス様、この度、内務卿からの推薦を受けまして、あなたの補佐をすることになったエヴァ・マリアです」
兄とまったく似ていない、黒髪、細身の青年に対し、生真面目な表情で彼女は言った。
「苗字がマリアというのは珍しいな――まあいい、内務卿には借りがある。だが、しばらく使って使い物にならなければ辞めてもらうぞ」
「失望はさせません」
彼女はキルスをまっすぐに見据えて断言する。
失望などさせるはずがなかった。
この日のために、父に付き従って、キルスの好きそうな王国の汚れた内部事情に通じ、様々な技能を身に着けてきたのだ。
初めのうちは、彼の独特な性癖を呑み込めずに些細な失敗をすることもあったが、すぐに彼女はキルスの右腕としてなくてはならない存在になっていった。
そして、彼女がキルスに仕えて半年後に、血の復活日が起こったのだった。