142.高い城の、1
彼は、自分に強運がないのを知っている。
子供の時からそうだった。
だが、同時に、運というものが自身の才覚と努力で覆るものだということも、経験から理解するようになっていた。
才覚、彼の場合は「野心」と言い換えてもいい。
生来の性質としてそれを持っていたこと自体、彼に多少の運があったということなのだろう。
彼の母国は、産業革命後にいち早く民主化を果たしながら、その後のテロと疫病が支配する混沌の時代にあって、再びカビの生えた君主制を復活させた東ヨーロッパの小国だった。
その後、世界に拡散したナノ・マシンによって疫病は収まり、社会は落ち着きを取り戻したが、その小国は、いかなる歴史の悪戯か、戦争で共倒れする国を併合し、政略結婚を用いて取り込んで、いつのまにかユーラシア大陸の多くを支配する中堅国家になっていた。
しかし、急ぎ過ぎた覇権主義の反動で国の内外に敵を作り、他国の外圧もあって君主制と貴族が廃され、再び、元首が国民から選ばれる共和制に変わったのだった。
結局、それも長くは続かず、10年あまりで君主制に戻ってしまった。
それが75年前のことだった。
彼の家柄は、復活した貴族の中でも、中の上に位置する可もなく不可もない貴族だった。
一度は消え去った貴族という階級に、彼の家系が、曲がりなりにも復帰したのが彼に与えられた第二のささやかな幸運だったのかもしれない。
しかしながら、両親は共に野心などなく、小さな領地から上がってくる収益を穏やかに民に再配分し、自分たちは最小限の利益を受け取る生活に満足していた。
おそらく領民にとっては、良い領主だったのだろう。
彼には年の離れた兄がいた。
子供のころから、彼は、この兄が苦手だった。
金色の髪、青い目、大きな体、大きな笑い声、明るく快活で行動的な兄は、屋敷内でいつも皆の注目を集め、家の中心だった。
黒髪、灰色の目をした陰気な自分とはまるで違うのだ。
学校などという時代遅れのシステムはすでに消え去っていたが、自室で端末による能力別学習を受けた後、他人との交流方法を学ぶために強制参加させられるフラタニティにおいても、スポーツ万能の兄は絶大な人気を誇っていた。
兄がいる限り、彼が家督を継ぐことはない。
弱小なりとはいえ、貴族の力を手にすることはないのだ。
彼には、それが悔しかった。
自分に力を与えれば、より大きな権力を手に入れることができると信じていたからだ。
彼は、自身がなぜそのような野心家になったかを自己分析する気はなかった。
それが、つまり自分なのだ。
表向き従順で利発な弟を兄は愛した。
スポーツの苦手な彼を野外に連れ出し、様々な運動を経験させる。
結果的に、それが後に彼の命を救うこととなった。
11歳になった時、彼に転機が訪れる。
10歳年上の兄が、家督を放棄して国の特務機関に入省したのだ。
「正義のためですよ」
なぜ家を継がない、そう尋ねた両親に、まっすぐに青い目を向け兄は言った。
青臭くて鼻につく言葉も兄が言うと様になる。
「正義」、間違っても彼は口にしない言葉だ。
100人の人間がいれば110の正義がある。
さらりと「正義」という言葉を口にし、あまつさえそれが似合う兄が、彼は苦手だった。
より正確に言えば嫌いだった。
だが、その虫が好かない兄の、気に食わない動機による行動が結果的に彼に利することとなった。
兄が家督を放棄したため、彼が家を継ぐことになったのだ。
ついに彼は権力を手に入れた。
その後、優秀な成績で飛び級を続けた彼は、16歳ですべての課程を終えて、王族付きの補佐官僚となった。
ただのお守りと揶揄されながらも、彼は誇らしかった。
36人の王位継承者のひとりに仕えるのだ。
彼が正しく導けば、次期王座につかせることも不可能ではない、そうすれば思いのままに力をふるうことができるだろう。そう思っていたのだが――
辞令がおりて彼は失望した。
仕える相手が、よりによって王位継承権36位の庶子の少女だったからだ。
しかも、噂ではIQが高くEQの低い扱いずらい我儘姫らしい。
6歳という年齢と王位継承権36位、しかも庶子という身分のため知名度は低く、彼ですら少女の姿を知らなかった。
天才と呼ぶにふさわしい頭脳を持っているらしいが、それこそ王族にもっとも不要な能力だ。
彼らに必要とされるのは、多少の愚鈍さと子作りの能力なのだから――
翌日、失意のあまり珍しく何の備えもせずに彼は少女に会った。
その日は朝から、どんよりとした陰鬱な天気だったと彼は記憶している。
場所は城内ではなく、いくつか街に用意されていた、今は使われていない老朽化した来賓用の宿舎だった。
現王のご乱行が激しすぎて、あまりに急激に庶子の数が増えたため、少女はその館で暮らしていたのだ。
王位継承順位を考えてもひどすぎる扱いだ。
つまり、それが少女の価値だった。
彼が窓辺に立って、手入れの行き届かない庭園を眺めていると、扉の開く気配があった。
振り返って挨拶をしようとし、彼は一瞬言葉を失う。
そこには、文字通り人形のように整った顔立ちの少女が立っていたからだ。
その美貌によって、陰鬱な天気の下の粗末な部屋ですら、色鮮やかな輝きを放つ豪奢な御殿に感じられるほどの美少女だ。
はっとして、すぐに衝撃から立ち直ると、彼は少女に近づき膝をついた。
「お初にお目にかかります。お姫さま」
「つまらない社交辞令はいらない。あなたが今度の子守なのね。何日もつかしら」
容姿にふさわしい涼やかな声ながら、その話す内容は辛辣だった。
「立ちなさい――」
少女の言葉に従って彼は立ち上がり、長身をまっすぐに伸ばすと言った。
「わたしはキルス、キルス・ノオトと申します。お姫さま」