141.湯屋
「すまなかったな」
後片付けに向かう少女たちを残し、食堂から研究室に戻りながら、アキオがミーナに話しかけた。
「なぜ?」
「せっかく、皆が楽しめるようにお膳立てしてくれたが――」
「あら、みんな喜んでたわよ。あなた、全部食べたから……」
アキオは首を振る。
どう考えても、少女たちが望む反応を示せたとは思えない。
「俺には、味を楽しむというのが、まだわからない」
嘆くわけでもなく、淡々とした口調で言う。
「アキオ……」
こういうアキオを見ると、ミーナは限りなく哀しく愛おしくなるのだ。
人には、本能に根差した三大欲求というものがある。
「食欲」「睡眠欲」「性欲」だ。
人として生まれながら、アキオは物心がつく前に、某大国によって洗脳薬物強化兵、いわゆる狂化兵としての実験対象にされ、薬物と暗示による洗脳によって、味覚に対する興味と睡眠に対する渇望を消されていた。
味が分からないのではない、寝なくて良いのでもない、ただ、どちらも肉体の維持のために必要と感じるだけで楽しむことができないのだ。
兵士として、味を気にせず栄養素として食物をとり、眠っても安全な時だけ眠った方が戦闘効率が良いという理由での改造だった。
長じて、自ら女性に対する欲望も抑えた彼は、それ以来、事実上、生物としての三大欲求と無縁の生活を過ごしてきたのだ。
もちろん、AIであるミーナにも味覚はないし、基本的に眠る必要もない。
だが、最初からその能力が与えられていないのと、使えないように阻害されていることには大きな違いがあるだろう。
味覚と睡眠は、精神的な阻害なので、ナノ・マシンでは解除できない。
時間をかけて解除していくのが、唯一の治癒方法だと思われるのだが、過去300年近くアキオはその努力を放棄して孤独に実験を続けていたため、いまだに、その呪いはかかったままだ。
それでも、この世界に来て少女たちと交流するうち、よい傾向が表れて来たとミーナは喜んでいる――
パネルに浮かぶスライダーに触れて、変圧器を調整していたアキオは、ノックの音で手を止めた。振り返る。
金髪の少女が、開いた扉を軽く叩いて彼の注意を引いていた。
ヴァイユだ。
今は、派手なサンタ服を抜いで、ワンピース風のタイトな服に着替えている。
そのウエストは、強く触れば折れそうに細かった。
足元はすっきりとしたサンダル履きだ。
「お風呂ですよ、アキオ」
「わかった」
少女について、風呂場に向かう。
ジーナ城の風呂は、地下庭園の横にあった。
男女に分かれた脱衣所に入り、服を脱ぐ。
どうせ同じ湯舟につかるのだから、脱衣所も共通で良いと思うのだが、少女たちにとって、そこは譲れないらしい。
シャワールームの横を通って浴場へ向かう。
個室は、男性側は1つだが、女性側は8つある。
ナノ・マシンによって、身体は常に清潔に保たれているから、そんなものは必要ないと思うのだが、少女たちの要望で用意したのだ。
大きな浴場には、まだ誰もいなかった。
かつて、旅をしながら作った簡易風呂ではなく、解体を考えない固定風呂は、岩風呂風の豪華な造りをしている。
とはいえ、ジーナ城の風呂も、基本は庭園の中に壁で目隠しを作り、浴槽を設置した露天風呂だ――
明かりはメナム石ではなく、太陽光発電を用いた照明を使っている。
農園作業などをする少女たちの便宜のために、いつでも入浴できる24時間風呂だ。
掛かり湯をして湯につかる。
岩壁にもたれて空を仰ぐと、昼間の雨はすでにやんだのか、くっきりと明るい三つの月が浮かんでいた。
地下の風呂で夜空が見えるのは、崖上に設置したカメラで撮りこんだ映像を浴槽の天蓋ナノ・シートに投影しているからだ。
初めての入浴が露天風呂だった少女たちが、ぜひジーナ城でもそうしてほしいと願ったのだった。
やがて、ユイノとシジマを中心とした、にぎやかな話し声が響き、少女たちが浴室に入ってくる。
掛かり湯の音が響き、身体が揺れて少女たちが湯につかるのがわかった。
少女たちは広い浴槽に広がって、思い思い話を始める。
とん、と彼の横に誰かが座る。
「アキオ」
シジマだった。
入浴時に彼の横に座る順番は、少女たちの間で決められているらしい。
美少女は、長い緑の髪を器用に巻いてまとめていた。
「調子はどうだ」
アキオが尋ねる。
胸から下の、身体の大部分を再生した彼女は、最もキラル症候群を発症しやすいのだ。
「大丈夫だよ」
少女は、紫がかった青い瞳で彼を見つめる。
大きな目には空の月が写りこんでいた。
「アキオ……」
「どうした」
少女は、アキオの上に横乗りして、首に手を掛ける。
湯につかる少女たちは、会話を続けながらも全員がふたりに目を向けた。
「アキオは、ボクたちに怒ったことないよね――いや、ボクたちだけじゃなく、他の誰に対しても」
シジマは知っている。
監獄で、崖でそしてポカロで。
相手を倒す時はもちろん、殺す時でさえアキオは怒ってはいなかった。
「そうだな」
「でも、もし、ボクが、アキオがどうしても許せないことをしたら怒る?」
「怒らない」
少女は、ふ、と笑い、
「即答だね。でも、きっと怒ることがあると思う。怒ってもいい、でも嫌いにならないで。アキオに嫌われたくないんだ。嫌われたまま――」
「なんの話だ」
「分からなくていいんだよ。ただ、信じて欲しいんだ。ボクが、ボクたちが、アキオの幸せをいつも考えていることを」
「わかっている」
アキオはシジマの髪を撫でる。
「嬉しいよ、アキオ。必ず覚えておいてね」
少女はアキオから離れると、ピアノと話をするミストラに近づき言った。
「ありがとう」
栗色の髪の少女はうなずくと、泳ぐようにしてアキオの隣にきた。
どうやら、シジマはミストラの時間を少し使わせてもらったようだ。
「ミストラ」
「意識ははっきりしてますよ。アキオ」
少女はアキオの肩に頭を預け、
「お祝いの席でいうのは嫌だったので黙っていましたが、サンクトレイカと西の国で、不穏な動きがあるようです……」
優秀な外交官である彼女は、城にいながらも様々な情報を得ているようだ。
「ガルによる報告か」
「いえ、敵の存在が明確になって以来、この城の位置を特定されないために、ガルによる通信は行っていません。本当は、通信装置を街の者に持たせたいのですが――」
「この城以外では、あまり科学を使わない方がいい」
「はい、ジュノスの考えは分かりますから」
「不穏な動きの内容は?」
「西の国と、この国とで合同軍事演習をしているみたいです」
「手を組んでニューメアかエストラを攻略する、か」
「それは分かりませんが――いずれにせよ、もう少し詳細な情報が欲しいですね」
「今度、出た時に調べてくる」
「わたしも連れて行ってください」
「考えておこう」
「はい――固い話はここまでです」
少女は、シジマと同じように、するりとアキオの上に乗って首に腕を回した。
まるで若鮎のようにしなやかで若さあふれる動きだ。
「シジマを見て、わたしも同じようにしたくなりました」
柔らかく微笑む少女を見、浴槽のそこかしこで穏やかに交わされる他愛ない会話を聞きながら、アキオは夜空の月を眺めるのだった。