135.任務
「あんたの体、どうなってるんだ」
壁面を上りながらアダムが尋ねる。
「アキオでいい」
「わかった」
うなずいて、諜報員は、アキオの指先を見つめる。
指や靴が離れた壁面には、くっきりと穴が開いていた。
つまり、彼はアダムのように壁に真空吸着しているのではない、指と靴が壁に当たる時だけ、壁面の材質と同化しているのだ。
「それは、ナノ・テクノロジだな、するとやっぱりあんたは、ジヤヴォ――」
「やめて!」
ミーナが、かつてサイベリア戦線で名付けられ、ナノ・マシンで世界を破滅の縁に追い込んで以降も、そう呼ばれ続けている二つ名『悪魔』で彼を呼ぼうとしたアダムを遮る。
「その呼び名は好きじゃないわ。わたしがね。彼はアキオ、その名が嫌なら――アラン・スミシーとでも、ジョン・ドウとでも呼んで」
「なんだかわからんが――」
「君の想像どおり、これはナノ・テクノロジだ。だが詮索はあとにして集中しろ、ここは敵の真っただ中だ」
「わかった」
自分より、ずっと若く見える黒髪の男の頭ごなしの警告は、不思議と不快ではなかった。
それも当然だ。
もし、彼がアダムの思っている通りの男なら、その年齢は200歳近いはずだ。
「しかし、すごいな。俺は、いま歴史の証人と一緒に高さ300メートルの壁を上っているんだ。弟に教えてやりたい」
「あなた、怖くないの?世界の破壊者と一緒にいるのに」
「さあ、それなんだが、意外に何とも思わないな。現に世界は破壊されていないし、昔の話だしな。噂では、その時、全人類にナノ・マシンが入って、そのお陰で簡単な怪我や病気は自然治癒するようになったんだろ」
「アダム、あなた。案外おしゃべりね」
「これが俺さ」
「トルメアで最高の諜報員なのに」
「知っていたのか」
「わたしのメモリバンクを侮らないで欲しいわ」
「限定版だろう」
「失礼ね」
「だが、なぜだ、百年以上身を隠していたあんたが、こんな危険な任務に……」
「気まぐれよ」
ミーナはそう言ったが、実際は、人質救出の見返りに、彼女を蘇らせる実験に必要な、ある装置を渡すとの取引が示されたのだった。
「まさか俺以外にも救出を依頼しているとはね」
「失敗回避策でしょう。重要人物だから」
アダムは、ふと笑い、
「本人はそう思っていないがね」
「それは――」
ミーナの言葉を押さえてアキオが言う。
「着いたぞ」
アキオが示す先には、尖塔最下部の丸窓が見えていた。
「さて、窓につけられたセンサーを無効化して取り外すのが腕の――」
「どいて、アダム。ここはアキオに任せて」
ミーナの言葉とともに、アキオが窓に近づき、指先で丸窓いっぱいに円を描いた。
五本の指を広げて窓ガラスに当てて押すとそのままガラスが向こう側へ外れる。
「それもナノ・テクノロジか。便利なものだな。まるで魔法だ」
「制限の多い魔法だが」
そう言って、ガラスを持ったまま、アキオはするりと塔内部に入り込んだ。
続いてアダムが入ると、彼はガラスを元通りはめなおし、接合部を軽く押さえてナノ接着させる。
外で鳴り響いていた風切り音が止み、静寂が二人を包んだ。
建物内部は、床も壁も天井も艶やかな白色で統一された無機質な造りだった。
間接照明が穏やかに辺りを照らしている。
「君の計画は」
「複数の妨害爆弾を使って、敵を攪乱し、救助に向かう」
「それより良い方法があるわよ……端末はある?」
「そこだ」
アキオは壁に備え付けのディスプレイ端末を指さし、歩み寄った。
ディスプレイ下のネジを外し、カバーを取ると、小さなクリップのようなものをいくつかコードに挟む。
「急がないと監視マシンが来るぞ」
「繋がった。この階より上の警備システムをほぼ把握したわよ。もう大丈夫。人はほとんどいないわ。いま、この建物にいるのは、わたしたち以外は機械だけ」
「さすがに科学要塞だ」
「どっちだ」
「左に進んで、その先を右」
ミーナが教える。
「便利だな、AI」
走りながらアダムが感心する。
「いいでしょう。欲しくなった?でも残念。わたしはアキオ専用なの」
「おまえ人間だったらいい女だろうな」
「当然でしょ!」
角を曲がるとドアがある。
「そのドアの先が階段になってるの。リフトを支配できたらいいんだけど、それは無理。階段で上がって」
「わかった」
アダムが凄まじい速さで階段を駆け上がる、が、驚いたことに、アキオはそれにまったく遅れない。
アダムは、アキオの『悪魔』の呼び名が、地球を滅ぼしかける以前から、その傭兵としての戦闘力の高さで名付けられたものであったことを思い出した。
「もうすぐ最上階よ、そこの扉を開けたら、10メートル進んで左が尖塔への入り口」
「わかった。おい、ミーナ。任務が終わったら、もう一度会おうぜ」
「まあ、アキオ。どうしましょう。わたし口説かれてるみたいよ」
「俺は、いい女なら人間でもAIでも気にしない。アキオも一緒にきたらいい。会わせたい人もいる」
陽気に笑いながら、
「俺の弟にも紹介したいからな。若いが、トルメアで結構エラいんだ」
「自慢の弟ね」
「ああ」
「いくぞ」
階段最上部の扉に取り付いたアキオが言う。
「気をつけて」
ミーナが警告する。
案の定、扉を開けた途端に手ひどい攻撃が襲って来た。
「ここの警備は、建物とは別系統みたいね。ビル外を飛んでいる監視ドローンまで混じってるわ」
「くそっ」
アダムが、担いだ複数の銃器を駆使して反撃を始めた。
アキオも、小型レイルライフルM12を連射しつつ前進し、なんとか尖塔の通路まで行きつく。
「俺がここで食い止めるから、早く塔に行って連れてきてくれ」
アダムが、銃撃の轟音に負けないように大声で叫ぶ。
「でも、この攻撃じゃ」
「行けって!」
アキオは、銃撃を続けるアダムの肩を叩くと、尖塔への細い登り通路を駆けあがった。
エアロックのような扉を開けて中に入ると、短い廊下に扉が3つ並んでいる。
「ドアから離れろ」
アキオが言った。
時間が惜しいので銃の3連射ですべての扉のロック部分を破壊する。
二つの扉が開いて、中から、老人と幼女が出てきた。
「SUG社最高顧問サイモン・ゲゼルか」
「わしを呼び捨てにするな」
「ご本人のようね」
ミーナが呆れたように言う。
この干からびた老人の救出と交換に、入手困難な光量子コヒーレンス精密測定器が手に入るのだ。
アキオは幼女に目をやり、
「この娘を――知っているか」
「知らん。ここの技師の娘じゃないのか、見せしめに閉じ込められた。静かなので、わししかおらんと思っておった」
「あなたは、愚痴と泣き言ばかりいってたものね」
幼女が歳に似合わぬ皮肉な口調で言う。
鈴のように美しい声だけに、その冷たさが倍加されて通路に響く。
「な、なんじゃと」
「まあ、いい子じゃないの!」
ミーナがつぶやき、
「あなた、お名前は?」
優しく尋ねる。
「あら、あなた――AIね。ここに無線は通じないから、おそらく独立型……すごい性能ね」
「ありがとう、それで、お名前は」
「ミニョン」
「フランス語の可愛い?それともゲーテの?」
「それはオペラでしょ。わたしの名前がミニョンなの」
「なぜ、ここにいる」
初めてアキオが口を開いた。
幼女は、じっと彼を見上げて言う。
「親が、ここの指導者に逆らったからよ」
「ご両親もここにいるの」
「いないわ」
そう言って、幼女は部屋に戻ろうとする。
「どこに行く」
「あなたは、その泣き言ばかりのお爺ちゃんを助けにきたんでしょう。わたしは放っておいて」
「何をしている、早くわしを連れ出さんか」
老人が癇癪を起こした。
「ここから出たくないの?」
ミーナが尋ねる。
「いいの、ここにいる」
「でも、ここは……」
「知ってるわ、もうすぐ宇宙に飛ばされて爆発するんでしょ。昨日の夜、聞かされたもの。わたしが怖がるのを見たかったのね。でも無駄。怖がってやらないから」
「アキオ」
ミーナの呼びかけで、彼は膝をつき、少女と目を合わせた。
痩せた体に質素な服を着せられ、髪の乱れた幼女は、それでも拳を握り、目を見開いてアキオを睨みつける。
身体は小刻みに震えていた。
「どうせわたしの値打ちは36分の1。ここで死んでも――」
幼女の言葉をアキオが遮る。
「しばらく、お前を俺の自由にする。嫌だったら後で怒れ」
そういって、素早く左手で幼女をつかむと、コートの中に巻き込むようにして保持する。
「いや、やめて、悪党、誘拐魔、人殺し!」
自分を見上げて青い炎のような瞳でにらむ幼女に彼は苦笑した。
「君の言葉は全部正しい」
自嘲するように、静かに告げる彼の言葉にミニョンは黙った。
「さあ、行くぞ、ゲゼル」
「おい、こら、その小娘と、えらく扱いが違うではないか。わしは老人だ。SUGの最高顧問だ。どこの馬の骨とも知れん小娘とは違う――おい、手ぐらい貸さんか」
「そこからは下り通路だ。歩けないなら蹴り落とす」
氷のようなアキオの声に、彼が本気だと知った男は、よたよたと通路を下り始める。
「ねえ」
胸元から発せられた幼女の声に彼は下を向いた。
「あんなこといって大丈夫なの。あなた、あの人に雇われてるんじゃないの。有名な会社の偉いひとなんでしょ」
「君とあの男のどこに違いがある。勝手に自分の値打ちを決めるな」
「社会的に役に立つ人を大事にすべきじゃないの」
「うふふ」
ミーナが笑いだす。
「あなた、おいくつ?今からそんな考えでいちゃだめよ」
ドン、と階下から爆発音が響く。
「急ごう」
アキオは、老人の腕を持つと通路の先まで引きずっていった。
「来たか」
アダムが弱弱しい声で言う。
「この下に、脱出艇があるはずだ。早く……行け」
「あなたも一緒にでしょう」
「その予定……だったが、俺は……いけない」
リズミカルに銃を撃ちながら、アダムが振り向いた。
「――」
彼の頭は半分近くなくなっていた。
機械化兵は、身体の取り換えは効くが、頭脳を損傷すると死ぬしかない。
「俺が意識を失っても、しばらくは自動応戦でしのげる。行け」
アダムは微笑んだ。
「行けって――」
「アダム!」
「すまないな、ミーナ。約束は……」
アダムが意識を失うが、身体は自動で銃を撃ち榴弾を投げ続ける。
「行こう」
アキオは、老人を引きずりながら階段へ進もうとして――
突然、今までに倍する攻撃が始まる。
外部から集まった監視ドローンの大群が到着したのだ。
「アダムはこれを防いでいたのね」
ミーナが絞り出すように言う。
アキオは、ミニョンを降ろし、ゲゼルと共に通路に押し戻すと、アダムの頭に触れて優しくつぶやいた。
「武器を借りるぞ。相棒」
そう言いながら、動きを止めたアダムの体から、いくつもの銃器とグレネードを取り外した。
もちろん、その間も、銃弾はアキオに集中している。
「ああ、そんなに当たったら――」
「いいから!」
ミニョンに向かってミーナが強い口調で言う。
「そこで見ていなさい。あなたは滅多に見られないものを見ることになるから」
その言葉を合図にしたように、複数の銃器を首から掛け、手にしたアキオが攻撃を開始した。
幼女に、武器の種類は分からない。
だが、彼の攻撃が凄まじいのはよくわかった。
複数の武器をほぼ同時に連射し、その合間に爆弾を投げつける。
分かるものが見れば、彼の攻撃の武器ローテーションが、武器の熱ダレつまり放熱時間を加減しながら間断なく最高効率で使われているのが分かったはずだ。
アキオの動きを見ながら、ミニョンは、なぜか美しい舞のような、完璧なスポーツの演技のような、そんな不思議な印象を受けたのだった。
しばらくして、
「よし、行こう」
アキオは武器を置いて、ミニョンを抱き上げ、コートで包んだ。
ゲゼルの肩をついて、先に階段へ向けて歩かせる。
「あの人を置いていくの」
幼女が叫ぶ。
「彼は死んだの。任務に殉じてね」
ミーナが優しく言う。
一度は弱まった攻撃が再び激しくなる。
盾となったアキオに、何発か銃弾が命中する。
その振動を体で感じて、幼女が悲鳴のような声を上げた。
「何しているの、あなた、当たっているじゃないの」
「問題ない」
問題は、老人の足の遅さだ。
階段に着くと、我慢できずにアキオは老人を担ぎ上げた。
飛ぶように走り降りる。
「脱出艇はどこだ」
ミーナに尋ねる。
「その扉を開けてすぐのハッチよ」
アキオは扉を蹴破って廊下に飛び出し、ハッチにたどり着く。
扉横の端末から、座標を打ち込んだ。
「集合予定地をセットした。これでお前は助かる」
そうゲゼルに告げながら、ハッチの中に押し込む。
「お前は付き添わんのか」
扉に手をかけて老人がわめく。
「定員はひとりだ。座ってベルトを締めろ」
そういってアキオはハッチを閉じた。
5秒待って発射ボタンを押す。
「さあ、次は君だ」
アキオは、階段に戻って下に向かう。
「あなた、嘘つきだわ」
しばらくして、幼女が彼を見て言う。
「アキオ」
「え?」
「俺の名だ。ミニョン」
「アキオ、あなたは嘘つきだといったの。あの脱出艇は二人乗りだったわ」
「そうか」
「気づかなかったの!」
幼女は驚き、すぐに続ける。
「そんなわけないわよね。なぜなの。わたしを置いてあなたが乗っても、わたしを乗せてあなたが身軽になっても良かったのに」
「アキオはね、あなたをゲゼルみたいな男と一緒に脱出させたくなかったのよ」
「あんなお爺ちゃんに襲われたりしないわ」
ミーナが吹き出す。
「なに?」
「可愛い金髪の淑女さん。あと十年たてばその心配をしたでしょうけど――違うわよ。あなたの身元がわからないから、アキオは、ゲゼルのような、何もかも自分の利害で考える男に渡したくなかったのよ。きっとあなたの気持ちを無視して、金儲けの道具にするだろうから」
「甘い男」
「そうだな」
「なんで、嬉しそうなのよ。やっぱり変わってるわ、あなた」
ミニョンが口を尖らせる。
「緊急ハッチはどこだ」
「一つ下の階にあるわ」
「ウイング・スーツで脱出後、トランジで回収してもらう。あっちのミーナは」
「分かってるはずよ。ただ、ハッチの制御は、4階下のメイン制御室でないとできないの」
「制御盤のコードをクリップすればいいな」
「でも、ものすごい数の監視マシンがいるわよ」
「問題ない」
階段から扉を開けて通路に出ると、アキオは、通信コンソールのパネルを外した。
「君が小さくてよかった」
そういって、コートからミニョンを出して、中に入れる。
「あん、せっかく暖かくて気持ちよかったのに」
「まあ、すっかり女の子モードね」
アキオは、固定バックルを外すと丸いミーナの本体をミニョンに渡した。
「行ってくる。二人で話でもしててくれ」
そういって、パネルを元通りにはめる。
「ちょっと――」
「行ったわね」
「だ、大丈夫かしら」
強気だった幼女が、不安に顔を曇らせる。
「心配ないわ。彼は強いもの。わたしたちにできるのは待つことだけ」
ミーナのレンズが動き、ミニョンを覗き込んだ。
「それまで、女の子の会話でもしてましょう」