134.要塞
気配を感じて、彼は壁の突起に身を潜めた。
身体のすぐ傍を、黒に迷彩塗装されたドローンが飛び去って行く。
見上げると、ガラスのように光沢のあるビルの隙間を縫って、蟻一匹さえ見逃すまいと、数十の監視ドローンが飛び交っていた。
腕時計で確認すると島に潜入して18時間が経っている。
「制限時間まで、あと6時間か」
そうつぶやき、アダム・ノオトはため息をついた。
トップ・エージェントとしての彼が、極秘の最重要作戦として命じられた任務だ、楽でないのは分かっていたが、これほど過酷だとは思わなかった。
今、彼は、約190年前に、地震兵器のプロトタイプ実験で沈んだニッポンという島国で、唯一残ったフゾサンという島にやってきている。
海中から険しく切り立った350メートルの元火口に、オセニア独立連盟という組織が、某大国の後押しを受けて、科学軍事基地を作りあげたのだ。
そこからの、ある人物の救出が今回の任務だった。
フゾサン島沖10キロまでキャタピラ・ドライブを搭載した無音潜水艦に運ばれ、そこからアクアティック・バイクで島に近づいて単身上陸し、命がけで岩肌を登攀してここまで来たのだ。
ネオノクト・ゴーグルを通して見るビル群のまわりには、信じられないほどの警戒レーザー網が張り巡らされていて、夜中にも関わらず、要塞都市は昼間のように光り輝いている。
「やれやれ」
アダムは、深いため息をつくが任務をあきらめたわけではない。
世界最高のエージェントと呼ばれる誇りにかけて、必ず任務は遂行するのだ。
それから、さらに1時間あまり、やっと彼は目指す中央ビルにたどりついた。
情報によると、ターゲットは、このビルの最上階付近、地上300メートルで、火口から飛び出た尖塔部分に監禁されているはずだ。
実は、その部分はロケットとなっていて、期限以内に色よい返答がなされない場合、成層圏に打ち上げて破壊される予定なのだ。
その情報を思い出して、彼は舌打ちする。
悪趣味極まりないテロリストどもだ。
アダムは、腕の負圧装置を起動させ、指先をビル壁に吸着させながら、垂直のビルを上がっていく。
非合法の装置だが、小型軽量でバッテリーのいらないスグレモノだ。
支給される機械式の真空吸盤は、重い弱い短いの役立たずなので使ったことがない。
全身のかなりの部分を機械化されている彼は、肉体的な疲れとは無縁だ。
時たま通り過ぎるドローンとビルの壁を薙ぐ警戒レーザーを慎重に避けながら、黙々とビル壁を登って行く。
目指すのは、地上270メートルにある、ビルの窪み、その上に展望室があるとされている場所だ。
情報では、そこにだけ10メートル四方ほどの空間があるのだという。
「くそっ」
ナノ負圧装置は優秀なのだが、なぜか時折吸着が悪くなり、10メートルおき程度に2メートルほど滑り落ちてしまう。
だが、現在までに、これ以上の登攀装置は開発されていないため、文句はいえない。
2時間後、彼は展望台下に到着した。
いかに機械化されていても、270メートルを垂直落下すれば死ぬ。
体を平面空間に引き上げた彼は大きくため息をついた。
肉体的には疲れなくとも、緊張の連続で、精神的には大きなダメージがある。
つい愚痴が口をついて出た。
「なんだって、フゾサンくんだりまで……」
「フジサンだ」
暗闇の奥から不意に声が響いた
彼はとっさに銃を引き抜き、叫ぶ。
「誰だ」
「静かにしろ。気づかれるぞ」
穏やかな声が応える。
アダムは、ネオノクト・ゴーグルの感度を最大限にして、暗闇を見つめた。
緑色の光の中に、人影が浮かび上がる。
ひとりだ。
「その装備、トルメアの最新製だな」
男が言う。
「お前は誰だ」
「敵ではない」
「何者だ」
「名前などどうでもいいだろう」
「教えろ」
アダムは、銃を振って威嚇する。
「なんだか乱暴な人ね」
女の声が響いた。
「誰だ!」
言った後で、その声が、男の肩につけられた丸いカメラから響いたことに気づく。
よく見ると、男は壁に、中型のライフルを立てかけてはいるものの、見たことのない型の黒い軍用コート一枚を身に着けただけの軽装だった。
「その服装、やはりお前は革命軍か」
「この人は放っておいて、もう行きましょう。アキオ」
呆れたような女の声が響く。
「待て、敵じゃないのか」
「依頼を受けて、監禁されている人物を救出に来た。お前もだろう」
「ああ」
男の口調からは敵意を感じられず、気疲れもあってアダムは銃を下した。
「あなた、機械化兵ね」
女の声が問う。
「俺は軍人じゃない、諜報員だ」
「その割には、完全武装じゃないの。まるで、今は亡きUSAの海軍特殊部隊みたい」
「科学武装したテロリストとの戦いだ。諜報員にも、これくらいは必要だろう……で、あんたは」
「わたしはミーナ、こちらがアキオ、よろしくね。同じ側の人間として」
「それはいったいなんだ」
「失礼ね」
『それ』扱いされたミーナが怒った声を上げる。
「わたしは世界最高で唯一の本物のAI、ミーナクシーよ。で、あなたは」
ミーナが言い返す。
「俺は――」
彼は一瞬、偽名を使おうと思ったが、なぜかやめて言った、
「アダム・ノオトだ」
「はじめまして、アダム。あなたのエヴァは尖塔で待ってるの?」
「本当に、これがAIなのか」
「失礼ねぇ」
「独立用機能縮小コピーだ。本体と無線でつなぐと見つかるからな」
「劣化版か」
「怒るわよ!」
状況を忘れて、彼は愉快になる。
「すまない――あんた、さっき、ここがフゾサンじゃないといったな」
「ここは、日本で一番高かった富士山の名残だ」
「フジサン……よく知ってるな」
「俺には日本人の血が入っているからな」
「あんた、民族人種主義者か」
「まさか、アキオは、そんな狂信テロリストたちから一番遠い存在だわ」
「そろそろ落ち着いたか」
アキオと呼ばれる男が尋ねる。
「ああ、もういける」
「あと30メートルだ」
「だが、こいつの調子が悪くてな。性能は最高なんだが、たまにおかしくなる」
そう言いながら、アダムはナノ負圧装置を見せる。
「なんせ100年以上前の違法装置だからな。まあ、これを超えるものを作り出せていないのが問題なんだが」
「あら、懐かしいわね、ナノ負圧装置」
AIミーナが声を上げる。
「見せてみろ」
男が近づき彼の腕に触れた。
そのまま、自分の腕のバンドに指を走らせる。
キィンとも、シュインともとれる音が響いて、アダムの腕が一瞬光る。
「なんだ」
「これで不調はなくなるだろう」
「どういうことだ」
「それはもともと、百年以上前に、アキオのスニーキング・スーツ用に作ったものなのよ。原理もわからないまま、それを流用して使っているから、おかしくなっただけ」
「待て待て、ナノ・テクノロジは禁忌のはずだろう。今、これを調整できるのは、ただひとり。あんたは――」
「詮索好きな男は嫌われる。アダム、あなたの肋骨にだって愛想をつかされるわよ」
モバイルタイプの限界か、AIが意味不明な警句を告げる。
「それで、どうやってここまできたの」
アダムは少し迷ったが、詳細は避けて大まかに経緯を説明した。
「こんな場所へ潜入するなんて、あなた、いい腕してるわね」
「俺からすれば、あんたたちの方が――」
「行こう、人質の救出が優先だ」
男がアダムを遮る。
時刻を確認すると、あと3時間たらずだ。
「わかった」
アダムはうなずいた。
男は、その肩に、アダムが見たことのない型式のライフルを担ぐと、散歩でもするかのように、ビルの外に出て行った。
アダムと違い、機械化されているとは思えない身体にも関わらず、ハエのように指先だけをビル壁につけて、まったく突起のないガラス質の壁面をさっさと登り始める。
アダムは慌てて彼を追った。