132.帆走
少女の、言葉による挑発に反応したわけではないのだろうが、魔獣ムカクが空に向け吠えた。
地球のトドに似ている姿、そして咆哮の声量から考えて、鰓呼吸をする魚類ではなく、肺呼吸の哺乳類なのだろう。
重低音の響きが、ボート上の若者の体を揺さぶる。
叫び終えたムカクが首を振り、頭を取り囲むように生えた五つの角を順に発光させ始めた。
頭の周りを回転するように走った光が頭頂部の長い6本目の角に達すると、細い光の線となって少女を襲う。
ムカクの挙動から、攻撃方向を予想していたピアノは、高電圧の奔流を、横回転して避けた。
的を外れ湖上に飛び去った電気エネルギーを見て、ムカクが再び吠え、次の放電動作に入る。
だが、少女は、それを待っていなかった。
再度横回転し、片手を床についたピアノは、そのまま強力な腕力で前方に跳ね、腰の入った蹴りをムカクに放った。
白磁のように白く形の良い脚が閃き、角に突き刺さる。
嫌な音がして、ムカクが再び吠えた。
折れはしなかったが、角の数か所にヒビが入っている。
もう電撃は出せないだろう。
しかし、巨体の魔獣の体力は、少女の予想を上回っていた。
ピアノが、蹴った勢いを利用して魔獣から数メートル離れた場所に降り立つのと、ムカクがヒレのような前足を利用して船上を突進してくるのは同時だった。
感覚がマヒしたように、それまで動けなかった若者たちが、叫ぶ。
「危ない」
だが、ムカクの巨体は、少女に当たる寸前で、何かに弾かれたように、後方へ押し戻された。
突然、少女の前に現れた金髪の男が、ムカクを殴りつけ弾き返したのだ。
「魔獣のような巨体動物は、見た感じの2倍ぐらいの体力を持つ感覚で戦うと、ちょうどいい。覚えておけ」
「はい」
彼女がうなずくと、アキオは、もう一度ムカクの鼻先を殴りつけようとして――
拳を下して少女に向かって言った。
「止めを刺せ、ウサギ」
「了解です」
少女が目を瞑り、足に力をこめる。
美しい形はそのままに、彼女の足が、鍛え抜かれたアスリートのような筋肉をつけていき――
少女は、ジャンプしながら高速回転し、その勢いのまま、魔獣の長い角に踵を落とした。
豪快な破壊音が轟いて、根元から角が折れる。
魔獣は、叫びながらボートを滑り落ちて行った。
そのまま、海に沈んでいく。
しばらくして、浮かび上がった魔獣の血が海面に広がった。
「よくやった」
アキオが少女の頭を軽く叩く。
少女の足は、元通り、すっきりときれいな形に戻っていた。
「行こう」
アキオの言葉に少女がうなずく。
ふたりは甲板を軽く助走し、空高くジャンプすると、きれいなアーチを描いて、ボートの周りに広がる血の輪の向こう側に飛び込んだ。
着水時に、ほとんど水しぶきをあげない。
20メートルほど前方に浮かび上がると、素晴らしいスピードで泳ぎ去っていく。
「何なんだ、あれは……」
それを見て、カップを投げた男が唖然とする。
「あの娘、ムカクを蹴り飛ばしてたね」
派手な水着を着た女が、呆然とした口調でつぶやいた。
砂浜が近づき、渚で戯れる人々が見分けられるあたりまで来ると、アキオの前を進んでいたピアノが泳ぐのを止めた。
立ち泳ぎを始める。
アキオも泳ぐのを止め、少女の傍に近づいた。
「アキオ!」
ピアノが水から飛び上がるようにして、アキオに抱きついてくる。
柔らかい胸が顔に当たり、強く抱きしめられたアキオは、沈まないように立ち泳ぎの速度を上げた。
「どうした」
言いながら苦笑する。
これまで、彼は、灰色髪の少女の、こんな子供っぽい、明るい姿を見たことが無い。
王族として生まれながら、早くに両親を亡くし暗殺者として育てられ、望まぬ殺人を繰り返してきた少女には、良くも悪くも落ち着いて口数の少ない、大人びた印象があった。
しかし、今日のピアノは年相応、というより、さらに幼い印象ではしゃいでいるように見えるのだった。
「ありがとう、アキオ――」
少女は、彼の頭を抱える手を緩めると、下に滑り降りて、そのまま口づけた。
「あのムカク、もう死んでましたね。甲板に上がる前に、あなたが下半身を切り裂いていたから」
「倒したのは君だ」
「はい。わかりました」
輝くような少女の笑顔の、その透明な美しさに、不意にアキオは不安を感じる。
「ピアノ、意識が遠のくような感じはしないか」
「大丈夫です――ただ、うれしいのです。城でみんなと過ごすのも楽しいけれど、二人だけでこうしているのが」
「そうか」
少女はそういうと、軽く唇を彼の頬にあて、ぱっと水に飛びこんで泳ぎ始める。
「早く陸に戻りましょう。次は、ケスラに乗るんです」
浜辺に戻ると、ピアノは、湖畔に建つ受付小屋でケスラを借りた。
「前回は、無断借用しましたから」
係の男から札を受け取って、アキオの元に戻った少女が笑う。
更衣所に寄って取り出した薄い上着を彼に渡し、自分も羽織った。
浜辺から突き出た、小さな白い桟橋に泊められたケスラに乗り込む。
「動かします」
彼女の操船技術はユスラ奪還で知っているので、彼は、安心して小型ヨットのシートに座った。
滑るように動き出したケスラは、陽光きらめく水面を裂いて、沖に出ていく。
それほど風は強くないが、少女の風の捕まえ方がうまいのか、ケスラは速度を落とさず、すでに湖上に出ている他の船を次々と抜いていった。
「こんなにのんびりとケスラに乗るのは初めてです」
髪を風になびかせ、細かく反射する水面の光を全身に映しながら少女が笑う。
「俺もだ」
彼が船に乗るときは、常に上陸任務で、ライフルや拳銃、弾薬、グレネードにネオ・クレイモアなど、100キロを超える重量の装備をしていた。
こんなに身軽に乗船を楽しんだことはない。
船上を大きな影が過る。
見たことのある鳥影に、アキオが目で追っていると、ピアノが説明してくれる。
「あれは、サクト・ガルです。通信で使うガルとは似ていますが別種です。水辺で棲む大型ガルですね」
アキオはうなずいた。
地球のカモメのようなものだろう。
それから小一時間、ふたりは湖上の疾走を楽しんだ。
耳元を風が過ぎ、空をサクト・ガルが飛びかう。
「アキオ」
遠い眼をして空を、雲を見る恋人に少女が声をかける。
「どうかしましたか」
彼は、少しだけ逡巡して口を開いた。
「地球にいたころ、俺にとって景色は戦いに勝つために利用するデータに過ぎなかった。風も水も太陽も空気の匂いも、周りの人間さえ――だが、この世界に来てから、風景の意味が変わった気がする……」
続けて言いかけた言葉は言わずに呑み込む。
――俺は弱くなったのかもしれない。
しばらくして、船を操りながらピアノが言う。
「あなたが変わった、それが――わたしでなくても、わたしたちが原因だったら嬉しいです。アキオ」
少女は寂しそうに微笑み、
「以前、カマラがいっていました。アキオは味方は守ろうとする。だから、キラル症候群の治療法を必死に探してくれている、と。でも、それは――アキオが優しいから。わたしたちだからということではない。アキオの心は、彼女で一杯。300年前から硬質のガラスのようなもので覆われていて、わたしたちが、どれほど叩いても響かない、爪を立てることもできない、だから、たとえ傷をつけてでも、アキオの心に残りたい、と」
「――ピアノ」
「その時、わたしは彼女の言葉が理解できなかった――でも、今ならわかります。わたしも、消えるなら、あなたに何かを残して消えたい」
少女はひと筋の涙を流す。
「君は消えない」
即座にアキオは言い、
「馬鹿なことを考えるな」
手を伸ばし、指先で涙をぬぐう。
「はい」
「そろそろ浜に還ろう」
「わかりました」
浜辺に戻ってケスラを返したふたりは、更衣所で水を浴び服を着た。
「アキオ」
港から通りへ歩き出すと、しばらく沈んだ表情をしていたピアノが、明るさを取り戻して彼の腕につかまった。
「お腹が空いたので、何か食べたいです」
「そうだな」
「お店で何かを買って、食べながら歩きましょう」
ピアノの提案で、ふたりは、目抜き通りを門に向かって上りつつ、様々な料理を買って、食べながら歩いた。
「今日は会えませんでしたね」
歩きながらつぶやくピアノの言葉に、アキオはうなずいた。
エストラ事件以来、ノラン・ジュードの行方が分からなくなっているのだ。
なんとか、早くユスラに連絡を取らせて誤解を解きたかったのだが、それが叶わない。
神出鬼没に、様々な地域で活躍しているらしいのだが、その足取りがつかめないのだ。
行く先々で、彼が、魔王を退治する、と言っているらしいのも問題だ。
ただでさえ、ニセ魔王が横行しているのだから、できれば魔王の存在を広めて欲しくは無い。
だから、彼は、出かける先々でノランに会えないかと探しているのだった。
出店を冷やかしながら、ふたりで通りを歩いていると、突然、ドンと大きな爆発音が響いた。
音の方角を見ると、アキオたちの向かう街門から、少し下った1つ目の円形広場に、爆炎らしきものが上がっている。
「アキオ!あれを」
ピアノが指さす先には、黒い服をまとった長身の男が立っていた。
「どうやら魔王には会えたようだな」
アキオが静かに言った。