131.湖水
「かわりませんね」
活気づく眼下の街と、その先に広がる湖水を眺めながら、ピアノが紅い目元をほころばせる。
ふたりは、いま、かつてユスラを奪還するために来たシュテラ・バロン近くの丘に立っていた。
まだ昼前の時刻だが、すでに太陽は高く昇り、あたりの景色は陽光に輝いている。
「あの時は、風が強く雲が流れていて、あの辺りに――」
そう言いながら湖畔のハミル港を指さし、
「旗艦が停泊していました」
「よく覚えているな」
彼がつぶやくと、ピアノは彼の手を握り、
「アキオと過ごした時間は、全部覚えていますよ」
きっぱりとした口調で言う。
アキオは、まっすぐ彼を見るピアノの、揺らぎのない紅い目を見つめる。
この世界の少女たちは、皆、こうなのだろうか。
何かに追われるように、一所懸命に生きている気がする。
キラル症候群で生命を脅かされている今だからではなく、出会った時からずっとそうだった。
むろん、彼が、少女たち以外に知っている地球の女性は、彼女しかいないので、女性を語るだけのデータを彼は持ってはいないのだが。
「俺も全部覚えている」
何気なく彼が答えると、ピアノは全身で喜びを表して彼に抱きついた。
「嬉しいです」
アキオは、少女の肩を叩いて身体から離すと言う。
「街に入ろう」
今回は、通行文を使って、普通に街に入るつもりだ。
魔王が出没するようになって、彼の名も要注意人物・リストに乗せられているかと警戒したのだが、ここ最近、いくつか訪れた街でも、そういったことはなかった。
歩きながらふたりのコートのデザインをサンクトレイカ風に変え、彼のコートの色は明るい・オリーブドラブに変える。
髪の色も金色に変えたあと、思い出したように少女に尋ねた。
「背を低くした方がいいか」
「え」
「ユイノやシジマの時はそうした。俺と話すと首が疲れるらしい」
「まあ、あの人たちはそんなことを」
ピアノは絶句し、
「確かに、顔の高さが同じくらいの方が、色々するのに有利な気もします」
と不穏な口調で小さくつぶやいたあと、しばらく考えて言った。
「わたしは、いつものアキオが良いです。本当は髪も黒の方が好きですが――それは仕方ないですね」
シュテラ・バロンの街門は、人と荷馬車で混雑していた。
「アキオ、今、街では湖水市が開かれています」
衛士の詰め所横に張られた告知文を呼んで、少女が大喜びする。
「大市のようなものか」
「はい。年に一度、ラトガ海の恵みに感謝をこめて開かれる大市の一つです。月の満ち欠けで、開催日が変わるので、今年は無理だと思っていましたが――」
「ついていたな」
「はい」
返された通行文を持って街に出る。
通りは、街門から、なだらかな下りになっていて、終点が湖岸のハミル港だ。
並んで歩きながら、ふたりは坂を下っていく。
通りには、大小さまざまな店が立ち並び、彼の見たことのない魚の干物などが並べられている。
活気あふれる街だ。
前に来た時、アキオは、小形ロケットの一つ目小僧を使って、街の外から直接ラトガ海の海戦場へ向かい、帰りは、灰色髪の少女が操るケスラで、人里離れた湖岸から、そのままシュテラ・ゴラスに移動したため、バロンの街中を一切目にすることがなかったのだ。
「君は、この街を知っているのか」
「はい。アキオと来る前に、3度ほど来たことがあります。そのうち、一度が湖水市の頃でした」
「そうか」
「でも、全部仕事のためだったので――」
少女が言葉を濁す。
ピアノは暗殺者だった。
故にその仕事は――
アキオは、彼の横を歩く少女の手を取って引き寄せて言う。
「では、休日に来るのは初めてだな。いろいろ見て回ろう」
「はい」
突然意識を失う病気のためとはいえ、ずっとジーナ城に閉じ込もるのは精神衛生上もよくない、そう、きつくミーナに言われているため、アキオは、せめて外出時は、できる限り、少女たちのわがままをきいてやることにしている。
実際は、少女たちも、睡眠を削って研究に明け暮れるアキオの気分転換を図ろうと外出させているのだったが……
「あ、アキオ、あの店に不思議なものがあります」
子供のように、実際まだ子供だが、走って行くピアノを見ながらアキオは苦笑する。
その輝く笑顔に、シュテラ・ミルドのヴィド桟橋で、アキオの命を狙いつつ王兵と戦っていた面影は感じられない。
やがて、彼はピアノに付き合いながら、坂を下り湖畔に到着した。
驚いたことに、湖畔に着いても、港は、まだその先にあった。
ハミル港は、木を組み合わせた巨大人工浮島だったのだ。
大きな桟橋によって、湖水に浮かぶ巨大人工浮島は、湖岸がつながっている。
「海戦の時は気が付かなかったな」
アキオのつぶやきを耳にして、ピアノが説明してくれる。
「模擬海戦の時は、船の数が多いので、テルベ川の河口付近に移動するのです」
湖岸エリアは、湖水浴場になっていた。
カラフルなパラソルが、横一列に数多く並び、空の青と湖水の青の間で、絶妙な境界線を形作っている。
そして、遠浅らしい砂浜には、老若男女、数多くの人々が水と戯れていた。
ラトガ海ほど大きいと、砂浜に打ち寄せる波も発生する。
人々は地球と似た水着を着ていた。
アキオは少なからず驚く。
全体として緯度が高く、気温の低いアラント大陸で湖水浴が行われているとは思わなかったのだ。
そういえば、前回来たときは早春だった。
湖水市の季節とは、つまり湖水浴の季節でもあるのだろう。
「はい」
ピアノが、肩からかけていた大きめのバッグから、タオルと黒い下着らしきものを出してアキオに渡した。
「これは――」
「水着です」
「――」
アキオが黙っていると、少女は朗らかに説明した。
「これからアキオは、そこの更衣所でこれに着替えてわたしと泳ぐのです」
「わかった」
アキオが答える。
「いつもの即断が素敵です。さすがわたしのアキオ」
ピアノから水着を受け取ったアキオは、湖岸に並ぶカラフルな更衣所に向かう。
金を払って、1.5メートル四方ほどの、資料で見たことのある電話ボックスのブースのような小屋に入る。
一人でひとつの個室のようだ。
アキオは、装備を外すと備え付けの木製のボックスにしまった。
今日は危険な武器も持ってきていないため、さほど盗難を恐れる必要はないだろう。
水着は、おそらくミーナが用意したものだ。
さっさと着替えると、更衣室に鍵をかけ、それを監視員らしき男に預けて砂浜を歩く。
湖岸に立って湖を眺めた。
たくさんの人々が、水際で遊んでいる。
中には、少し沖合まで泳いでいる者もいた。
少年兵の頃、厳しい訓練を受けたため、泳ぎは得意だ。
だが、任務で嵐の海も密林の川も泳いだことはあるが、こういった、穏やかな観光用の水場を泳いだことはない。
重い義手義足になってからは泳ぐこともなかったので、水泳自体は約280年ぶりだ。
「アキオ」
背後から声を掛けられて振り返る。
灰色の髪、紅い眼の美少女が、白い水着を着て立っていた。
どういうタイプの水着かはわからないが、周りの女性たちのものより布の面積は多い。
アキオは、ちょっと間をおいて言った。
「似合っているな」
「ありがとう。アキオも素敵です」
一応、彼はうなずいたが、意味がよくわかっていない。
素敵といわれても、普段、風呂に入っている恰好とほとんどかわらないのだ
周りでは、若い男女だちが、ボールのようなものを打ち合って遊んでいる。
それには見向きもせず少女が言った。
「泳ぎましょう」
彼の先に立って、ピアノが水辺に向かう。
浜辺にいる者、特に男たちのほぼ全員が、その後姿を目で追った。
「君は――」
泳げるのか、と聞くより早く、ピアノは美しいフォームで水に飛び込むと、さらに華麗なフォームで泳ぎだした。
なかなかのスピードだ。
アキオも飛び込み、少女を追う。
もし、泳いでいる最中に意識が途絶すると危険だからだ。
そのため、彼は、常にピアノの傍にいなければならない。
ナノ強化を使わずに泳ぐ少女は、なかなかの泳者だった。
アキオも強化せずに、大きなストロークで穏やかに泳ぐ。
その気になれば、ジェットボート並みの速度を出して、国境を越えて対岸のアンヌの街まですぐに行けてしまうだろうが、そんな目立つことはできない。
いまは、低速のゾディアックボート並みの速度でゆっくり泳いでいる。
ピアノが不意に泳ぎを止めた。
水に沈みだす。
「大丈夫か」
アキオが近づくと、少女は水から顔を出し、彼に抱きついた。
「ここは、浜辺から5キロほど離れて、ほとんど誰からも見えません」
そう言ってアキオと口づけを交わす。
「一度、これがしてみたかったんです」
再び唇を合わせる
「泳ぎがうまいな」
しばらくして、唇を離してくれた少女に彼が言った。
「子供のころ、お城の水場でよく泳ぎました。その後は、仕事に必要だからと、訓練させられたのです」
「俺もだ」
「一緒ですね」
穏やかに立ち泳ぎをしながら、ふたりは会話する。
突然、彼らに向かって口笛と指笛が鳴り響いた。
少し離れた場所から、小型のボートに乗った男女が、ふたりを囃し立てている。
野卑な言葉も発しているようだ。
「ラトガ海に危険な生物はいないのか」
思いついて彼が尋ねる。
ボートの若者たちなど、彼にとってはいないも同然だ。
「街の近くにはいませんが、沖に行くと、珍しい魔獣がでることがあるそうです。わたしは見たことがありませんが」
ピアノがアキオの腕につかまって楽しそうに答える。
少女もボートは完全無視だ。
水音を立てて、彼らの近くに何かが落ちた。
ボートから投げられた木製のカップだった。
「戻るか」
アキオは、少女の紅い眼に不穏な光を感じて言う。
「そうですね――ですが、その前に、大切な、アキオとわたしの良い気分を邪魔した償いをさせましょう」
そう言って、ピアノはカップを手にすると、手首を効かせてボートに投げ返した。
かなりのスピードで飛んだ木製のカップは、まず投げた男を直撃し、跳ね返って近くにいた男女を昏倒させた。
「行きましょう」
朗らかに笑うと、ピアノは岸に向けて泳ぎだした。
アキオも後を追う。
しばらくすると、ボートが彼らを追い始めた。
発動機を持たないこの世界の船にしては、速い速度だ。
おそらく、人力を効率的に推進力に変える何らかの機構が積まれているのだろう。
だが、その程度では、ふたりの速度には追い付けない。
徐々に彼我の距離は離れていく。
しかし――
突如、背後で起こった悲鳴に、ふたりは泳ぐのをやめて振り向いた。
ボートの上に、身を乗り上げるようにして、角の生えた巨大な生物、地球におけるトドのようなものが叫び声をあげている。
「まあ、珍しい、アキオ、あれがさっき話していた魔獣です。たしか、名前は――ムカク」
「魔法の種類は」
「角から放電するはずです」
「雷球の亜種魔法だな」
アキオはうなずき、
「どうする」
少女に尋ねる。
別に放っておいてもかまわない。
「アキオは助けるのでしょう」
「よし、まず、君がボートに行け、ウサギ。俺は後で行く」
少女は、久しぶりのコードネームにほっこり笑い、答える。
「了解です」
アキオは指を組んで、少女の足を乗せると空中に跳ねあげた。
ピアノ=ウサギは空中で回転しつつ体を捻って向きを変え、美しく甲板に着地する。
少女は魔獣と反対側の船縁近くで震えている男女を見ると、両手を打ち合わせてムカクの注意を引いた。
形の良い胸を張って魔獣に叫ぶ。
「アキオとの時間を減らした償いはしてもらいます」