120.女王
「爆縮の時の軍用機に乗っていたのか」
「そうよ。そして、あの裂け目に吸い込まれ、あなたより20年前に、この世界に来たの」
「なぜ、そんな危険なことを」
爆縮実験地域は、地球最大国家のリーダーが出向く場所ではない。
ふふ、と声は笑い。
「どうしても、行きたかったから」
「――」
「わからないの、アキオ」
突然、ミーナの声が響いた。
いつからか、彼女は会話を聞いていたのだ。
もちろん、遠隔操作のドローンが動いているのだ。電波障害は復旧している。
「メデは、あなたを助けに来たにきまってるじゃないの」
「メデ――」
アキオがミーナの言葉を繰り返す。
「そこは、驚くところじゃないでしょ」
「ミーナ!」
アルメデ女王が叫ぶ。
「久しぶりね。メデ。もしやとは思っていたの。あなたがこちらに来ていないことを祈っていたのに……」
「きちゃった」
「もう、あなたって人は……」
表情はわからないが、互いに喜んでいるようだ。
「仲が良かったんだな」
「そんなことよりアキオ、時間がないの。用件だけいうわね」
「ええ」
彼のかわりにミーナが答える。
「最初に確認したいわ。アキオ、その子は……あなたのなに?」
「メデ、時間がないんじゃ――」
「大切なことなの!」
強い口調でアルメデが遮る。
「俺の守るべき子供のひとりだ」
「そう――恋人じゃないのね」
「あいかわらず即答ね」
女王がつぶやき、女神がため息をつく。
「いいわ、わかった――あなた、その子にナノ・マシンを使った?」
「ああ」
「昏睡状態は、それが原因よ」
あっさりとアルメデが告げた。
「どういうことだ」
「一緒にこちらに来たトルメアの科学者がそういっていたわ。その娘、昏睡したのは初めて?」
「そうだ」
「だったら、まだ時間はあるわ。慌てなくていい」
「時間って」
「科学者たちは、来てすぐ死んでしまったから、あまり詳しいことはわからない。でも、最初の昏倒から1年は大丈夫と彼らはいっていた――分かる範囲で説明するわ。ただ、科学者じゃないから、わたしの言葉は、アキオ、あなたがちゃんと理解して」
じっと、ドローンを見つめるアキオに向かってアルメデは続ける。
「まず、地球と、この世界では、量子世界において渦の巻き方が反対らしいの」
「量子世界の渦?」
「その結果――彼らの言っていた通りに伝えるわね、ふたつの世界は、微小世界においてキラルだと」
「何だと」
アキオがうめくように言う。
「地球とこの世界では、量子レベルで対掌性があるのか」
「まさか?不確定性の世界でキラリティ?」
ふたりの声を無視して、女王は続ける。
「いくつかの重要な物質において、エナン……」
「エナンチオモルフ――」
ミーナが補足し、
「地球の物質とこの世界の物質は、量子レベルでエナンチオモルフなのか――」
茫然とアキオが呟く。
エナンチオモルフとは、ある物体の鏡像、鏡に映った像が、もとの物体と重ね合わせできないキラルであること言う。
具体的にいえば、右手と左手のように。
右手は、左手が鏡に映った像の形をしているが、右手と左手は重ね合わせることができない。
つまり、右手と左手はエナンチオモルフなのだ。
「要するに、地球の物質と、この世界の物質は、見かけではなく、その深い微小世界の部分で、根本的に違うということね」
「その可能性は――考えはした。だが、調べるための精密機器がなかった」
「初めに食事をとって、特に影響がなかったのも深く考えなかった原因ね。大気も呼吸可能だったし」
「幸いにも、わたしの乗り込んだ機体には、爆縮を記録、調査するための機材が多数そろっていたから、ある程度は調べることができたの」
アルメデ女王が言う。
「一緒にきた科学者は、爆縮の研究グループか」
「そうよ、わたしは、彼らの実験機に無理やり乗り込んだの――でも、科学者たちは、こちらに来てすぐに死んでしまった。この世界の食事から栄養を取れなかったから」
「キラリティのせいか」
「そう」
女王が答える。
「栄養を吸収できずに、お腹を壊すような、そんな、はっきりしたものではなかったわ。彼らは、この世界の食事を食べて味わうことができた。ただ、いくら食べても体が吸収しなかっただけ。だから彼らは地球から持ち込んだ食料を食べつくすと、研究をつづけながら、衰弱してひとりずつ死んでいった」
「君はなぜ生きている」
彼の質問に、女王は、ふふと可愛く笑って言い返す。
「あなたはなぜ、生きているの」
アキオが答えないまま、彼女はつづける。
「冗談よ、アキオ。研究者たちがいうには、彼らの体内に生まれながらに存在する、あなたが与えた汎用ナノ・マシンより、ナノ延命措置を受けた、わたしたちのナノ・マシンの方が値段が高くて性能が良いから、らしいわ」
「テロメア・ブロック機能などの違いだけで、同じはずだけど――」
ミーナがつぶやく。
「嘘よミーナ。延命ナノ・マシンの何かの機能が、偶然、食物の分子変換をやってくれているおかげらしいわ」
「偶然――」
「アキオは信じないわね」
「不思議に空気や水は吸収できるみたいなの。科学者たちも、最後は水だけを飲んでいた……」
「つまり、ナノ・マシンの延命機能によって俺たちはこの世界の食物から栄養をとることができる。そしてこの世界の人間にナノ・マシンを与えると――」
アキオの言葉を受けてアルメデが言う。
「一見、ナノ・マシンは正常に働いているように見えて、やがては脳内の神経伝達物質を阻害するようになるだろう、そう科学者たちは予想していたわ。最終的には脳機能を停止させてしまうだろうと」
「本当なの、メデ」
「残念ながらね。彼らは自分の命が危ない時に、この世界の生き物へのナノ・マシンの影響を調べていたのよ。まったく、科学者って理解できないわ。最後には、わたしの手を握って、健康と長寿を祈りながら――逝ってしまった」
「メデ……」
ミーナには、声を震わせて憤る女王の気持ちがわかっていた。
王として、何もできなかった自分が悔しいのだ。
「だが、君が彼らに命じて爆縮弾の実験をさせ、この世界に導いた」
「違うわ」
女王は強く否定する。
「違うの、あれは――」
「今はその話はいい、それより」
アキオが遮り、
「トルメアの科学者が予想したことが起こっている方が問題だ。彼らは、その原因と対策を突き止めたのか」
「いいえ。まだわかってないわ。ナノ・マシンによる実験ができなかったから。彼らの栄養摂取不良も、ナノ・マシンのプログラムを変えて実験できれば、もしかしたら改善できるかもしれない、といっていたけれど――」
「無理だろうな」
「カヅマ・ヘルマンは天才だものね」
アルメデは、ぽつりと言った。
「よく知っているな」
アキオが驚く。
「こう見えても、地球で最大規模の国の女王だったのよ。情報は集まるわ」
アキオの開発したナノ・マシンの肝心な点は、彼以外にナノ・マシンにコマンドを与えられないということだ。
もしナノ・マシンに外部からコマンドを与えられれば、その者に生殺与奪の権利を握られることになる。
だからこそ、ナノ・マシンのコマンドは、厳重に暗号化されなければならないのだ。
その技術は、彼がナノ・マシン研究を引き継いだカヅマ・ヘルマン博士が作り上げたものだった。
博士は科学全般で優秀だったが、なにより整数論、暗号理論に秀でていた。
暗号を解読させないためには、解くために膨大な時間を必要とさせることで安全性を担保する『計算量的安全性』と、与える情報量自体を、共通鍵・公開鍵などを使って少なくして安全性を上げる『情報量的安全性』の双方の安全レベルを上げる必要がある。
そこで量子力学に基づいた量子暗号が考案されたのだが、博士が考えたのは、ナノ・マシンを制御する暗号鍵をナノ・マシン自身の不確定性部分に書き込むことだった。
これによって、鍵自体があたかもクラインの壺のように裏表がなく、自らによって自らの鍵を規定し続ける構造となり、見かけ上、鍵が無限増殖することになって解析が不可能となったのだった。
もっとも、その理論についてはアキオも完全に理解はしていない。
ただ、カヅマ博士の成果を使っているだけだ。
爆縮爆弾を作るほど才能のある科学者であったとしても、カヅマ博士のナノ暗号を破ることはできなかったのだろう。
「君のもとに解析装置はあるのか」
「あるわ、でもダメなの。わたしには触ることができない。当時のデータにアクセスすることもできない」
「さっき、メデは時間がないといったわね。それに関係するの」
「そう、わたしはニューメアの女王だけど、死にかけていて自由を奪われている身。あなたの位置を探り出して、やっとサンクトレイカに隠したドローンで姿を見るのが精いっぱい……」
「それは、彼のせい?彼もこっちに来てるの?」
「――そうよ」
「なぜ、俺に接触する」
「――それは……あ、誰か来たわ。わたしの余命はあと1年足らずだから、もう会えないかもしれないけど、元気でね、アキオ」
唐突に会話が途切れると、ドローンは高速で飛び去って行った。
「なんなんだ」
アキオがつぶやく。
「わからないの、アキオ」
「どうした」
怒りの声を上げるミーナに、彼は、訳が分からないといったふうに尋ねる。
「アルメデ女王は、死にかけている身で、あなたの姿を見て声を聴くためだけに無理をしてドローンを操作したのよ」
「俺の姿を見るため……なぜだ」
「もう、腹が立つ、あなたが――好きだからに決まっているでしょう」
「好き」
アキオは首をひねる。
キイにそっくりの女王のことは、キイの体をデザインする時まで、その名すら忘れていたのだ。
延命措置を行った時も、簡単な会話を交わしただけだったはずだ。
アキオがそう言うと、
「もういいわ。これはわたしのミス。わたしがもっと早くにあなたにいろいろ教えておけばよかった」
「よくわからないが――」
アキオは跪いてカマラを抱き上げた。
「このままでは、俺のせいで、カマラや子供たち全員が死んでしまうということは分かった」
激しく降り始めた雨が、コートで包まれたカマラの体に当たってしぶきを上げる。
「まずは城に帰る」
アキオは、いったん、少女を崖ぎわの木にもたれて座らせ、倒れているザルドから荷物を取ると、崖に向かってP336を連射した。
深く抉られ、小さな洞窟のようになった窪みに二頭のザルドを安置し、その上部を撃って洞窟をうずめる。
これで、ヴァイユとミストラのザルドは、動物に食べられることなく土に還るだろう。
アキオは、シャルレで受け取った荷物を体にくくりつけると、カマラを抱き上げ、走り始めた。