114.犠牲
「マキュラで屋敷が吹っ飛ぶ――」
アキオがつぶやく。
「だが、PS、マキュラが噴出してきても、人や建物には影響がないはずだ」
以前に、カマラとPSについて話したことがある。
素粒子サイズのPSは、通常の物理現象の影響を受けない。
だから、風やブラウン運動によって移動、拡散はせず、一度、PSが消失した場所は、再びPSで満たされることはない、と。
「ああ」
サフランが、何かに気づいたような顔になる。
「ソマル以外の人間には知られていないんだね。普通のマキュラなら何も問題はないんだ。でも、ものすごく濃いマキュラが当たると、どんなものでも消えてしまうんだよ。だから屋敷も消えるのさ」
「消える」
「なんていったかな……ああ確か、存在が希薄になる、とか」
それは、ジュノスが言っていた言葉でもある。
「さっき、あたしが巨人に変化して、マキュラをたくさん使ったんだけど、その時に蓋が壊れかけたらしいんだ。かなりの勢いでマキュラが増えたから」
部屋で感じた衝撃は、PSの噴出が原因だったようだ。
「でも、今度のはそんなもんじゃないはずさ。まあ、マキュラはずっと出つづけるものじゃないから、しばらくたったら落ち着くだろうけど」
「屋敷の近くも危険か」
アキオが尋ねる。
「ああ、さっき逃げた白い子を心配してるんだね。たぶんダメだ。あきらめるんだね。あたしも、せっかく名前をつけてもらったけど。まあ、物足りないかもしれないけど、あたしが一緒に死んでやるから――あんた、何するんだい」
少女は、アキオがナノ・コートを防御モードに変形し、フードを被るのを見て、巨人の肩から飛び降りてくる。
巨人とは細い線でつながったままだ。
「俺が、二番目に嫌いなのは、あきらめることだ」
そういって彼は少女の両肩をつかむ。
「サフラン、すぐに巨人を切り離して、この洞窟から逃げろ。マキュラはなんとかする」
「なんとか……そんなことできないよ」
「できる。だから逃げてくれ。俺にはお前が必要だ」
独立型シェイプ・シフターのサフランの身体は、彼の知りたい秘密の宝庫だ。
アキオは隠さずそう言い、
「だから、死なせるわけにはいかない」
「そうかい、あんたはあたしが必要なのか。体が欲しいんだね。本当のことを言ってくれて嬉しいよ。あたしは嘘つきが嫌いだから……でも、でも、あたしが逃げて、あんたはどうするんだい」
「これを使う」
アキオは、拳に巻いた黒いリボンを見せる。
「これは、ポアミルズ胞子消滅器、このあたりのマキュラを光に変える道具だ」
「光……でも、こんな濃いマキュラを光に変えたら……」
「爆発するだろうな。だが、それでドラッド・リーニエへの口を塞ぐことができるはずだ。だから、お前は早く上に行け」
「そんな、ダメだよ。あんたを犠牲にして、あたしが助かるなんて」
「サフラン」
アキオが硬い声を出す。
「俺は、あきらめるのは二番目に嫌いだといった」
「そうだね」
「だが、一番嫌いなのは、自己犠牲という言葉だ。だから俺は死ぬ気はない。早く上に行け」
「わ、わかったよ……でも、凄い道具だね。どうやって使うんだい」
「この銀のエンブレムを押して、滅せよ、というだけだ」
「簡単だね。じゃあ、行くよ――あ、最後に、あんたの名前をまだ聞いてなかった」
「俺はアキオだ」
「アキオ――」
サフランはアキオに近づき、しっかりと抱きついた。
「アキオ、アキオ、良い名だ。ありがとう……アキオ」
少女が彼から離れる。
その手には、黒いチョーカーが握られていた。
「サフラン――」
いきなり、巨人の拳が少女の背後から飛んできた。
避けることも防ぐこともできず、アキオは吹っ飛んだ。
「ごめんよアキオ、でも下に行くのはあたしさ。普通の人間が、下まで行くことはできない。それほどマキュラが濃いんだ」
少女は、アキオから奪ったチョーカーを首に巻く。
「本当は、さっき下に落ちた時、皆を道連れにするために、あたしが蓋を壊しておいたのさ」
そう言って彼に近づく。
「あたしだって自己犠牲なんて嫌いだし、考えたこともない。だから死ぬ気はないよ」
アキオの上にしゃがみ込み、顔を覗き込んだ。
「あんたと違って、あたしはマキュラに慣れてるし、エネルギーに変えることもできる。下に着くまでに溜めた力で身を守るさ。もし、あたしが死んでも、また、あいつに作ってもらったら研究はできるだろう」
少女は、アキオが口を動かすのを見て、耳を近づけた。
「もう一度、名前を付けるのが面倒だ」
彼が、かすれた声で言うのを聞いて、サフランは、とろけるような笑顔を浮かべる。
「優しいね、アキオ。嬉しいよ」
少女はアキオの髪をかき上げ、顔を近づけると軽く口づけた。
「白い子には内緒だよ」
そう言うと、
「乱暴で悪いけど、許しておくれ」
少女が横に寄ると、巨大なシェイプ・シフターが、片手でアキオをつかんで、空間の最上部、洞窟への扉がある場所に向けて彼を投げ上げた。
見事に扉の前に落ちたアキオを見てサフランがつぶやく。
「あんたなら、すぐに動けるだろう」
巨人と共にプール・サイドに立つと、サフランは、メナム石が満天の星のように輝く高い天井を見上げて、囁くように言う。
「シスコ……あんたは可愛がってもらいな」
シェイプ・シフターは底の見えないプールに飛び込んだ。
暗闇の中を一直線に降下していく。
「大丈夫かねぇ」
シスコが、噴水の傍で、カマラが連れ出してきたザルドの首を軽く叩きながらつぶやく。
「アキオは大丈夫です。ただ――いえ、大丈夫ですよ」
「カマラ」
ジュノスが少女に声をかけて、かがみ込んだ。
「ジュノス!」
カマラが走り寄り、オレンジ色の目の女を、近くの石の長椅子に寝かせる。
「どうしました」
「どうもしない。ただ、命の期限が来ただけ――」
美しい女は、穏やかにして気高い爬虫類の眼で少女を見つめる。
「できることは」
「ない。それよりも、あなたにいっておくことがある」
「はい」
「本当は、あなたに直接ではなく、彼にいいたかったのだが、もう時間がないのだ。わたしの話は、おそらくあなたにとって好ましいものではないだろう。それでも聞く勇気はあるか」
「はい」
躊躇することなく少女が答える。
「わかった。では話そう」
存在が消えつつある、数百万年を生きた異世界の生物は静かに語り始めた――
「以上だ」
ジュノスが話し終わると、銀髪の美少女は、しばらく黙ったあとで言った。
「教えていただいてありがとうございました。感謝します」
「カマラ、カマラ……」
泣きながらシスコが抱きつく。
「そんな、あんまりじゃないか。いったいどうして……」
「運命なのだ。シーズの娘よ」
ジュノスは言い、
「次は、このわたし、ドラッド・グーンと、この世界について伝えておくべきことを話す。よいか」
「はい」
ジュノスの話が始まってしばらくして、凄まじい爆発音が轟き、巨大地震のように地面が揺れた。
ストーク館が半壊する。
だが、ジュノスもカマラも、まるでそれに気がつかないような素振りで会話を続けている。
ふたりとも、優先させるべきことが何なのかがわかっているのだ。
やがて――
「カマラ……」
言葉半ばで、苦しそうにジュノスが少女の名を呼んだ。
「申し訳ないが、どうやら最後まで語れそうにない――」
「ジュノス」
「それに――あなたの男が戻ったようだ」
ジュノスの言葉通り、ストーク館の瓦礫を押しのけて、アキオが姿を現した。