109.開始
「館の中を案内してくれないか」
お茶を飲みながらアキオが頼む。
「でも、部屋にいろっていわれてるんだよ」
「それは昨夜のことでしょう」
「え、でも」
「今日、あなたのお父さまは、わたしたちと一緒にいなさいっておっしゃっただけ。だから、一緒に館を回るのは問題ないと思うけど」
「うーん。そうかな」
「そうでしょう」
「確かにそうだ。わかったよ」
結局、シスコは、カマラに納得させられる。
ふたりにとってありがたいことに、シュテラ・サドムの街で苦労してきたはずの少女は、意外と押しに弱いようだ。
「まず見せるならここだね」
シスコは館の外に出て、庭に建つ、水晶が多用された建物にふたりを案内した。
天気は良く、午前中の明るい日差しによって、壁にはめ込まれた水晶がきらめいている。
「ここは温室なんだ。さっき飲んだお茶の葉も、ここで栽培してるんだよ。摘み取った茶葉は、そこの部屋で発酵、乾燥させる。ここは高台にあるといっても、山間だから、すぐに日陰になるからね。こんなものが必要なんだ」
「アキオ、参考になりますね。ジーナ城にも同じ施設が欲しいです」
カマラが目を輝かせる。
当初の目的を忘れているようだが、興味をもつ気持ちは分かる。
「夜は光で照らさないの?」
カマラが天井を見上げて尋ねた。
「そうなんだ。メナム石を使えば、もっといろんな植物を育てることができるんだろうけどね。昔はあったみたいなんだよ。でも、ここも古いからね。いろんな設備も壊れて、今や夜は真っ暗さ」
「館が建ってどのくらい経つの」
「さあ、少なくとも180年は経ってるって、アルムがいってたけど」
「洞窟をみる限り、300年は経っているな」
アキオが口を開く。
「そんなになるのかい?まあ、確かに古そうだけどね」
それからも、シスコによる館の案内は続き、アキオたちは、厨房、洗濯室、布部屋などを見て回る。
山奥で、住人の数が少ないにも関わらず、使用人の数が多い。
「いつも、こんなに人がいるの」
「いいや、ここ何日かで一度に増えたね」
「道にザルドと轍の跡があった」
アキオの指摘にシスコがうなずく。
「この間から、何人か客は来ているみたいだ。あたしは会えないけど。すぐに帰ってるみたいだし……いろいろ準備があるんだろうね。儀式に備えて」
「クラノがシーズになる儀式だな」
「そうだよ。あたしは親父さんに見限られたから関係ないけど……」
シスコが立ち止まり、俯く。
カマラは、黙って少女に寄り添い、手を握った。
「いいんだよ、カマラ。親父さんが決めたことだから……そうだ、とっておきの場所に案内するよ」
そういって、少女が連れて行ったのは、館の最上部にあるバルコニーだった。
「まあ、いい景色」
扉を開けて外に出たカマラが思わず声を上げる。
前方には深い森が広がり、左手にはダルネ山に連なる青いパルナ山脈が伸びている。
眼下では、水面が陽光にきらめき、時折、魚が跳ねる水しぶきが湖面に変化を与えていた。
カマラは広いバルコニーの端まで歩いて、山々を眺める。
アキオは湖の奥に目を向けるが、さすがにオルビスの小屋は見えなかった。
「いいところだろ。こんなに綺麗なのに、普段から、だれもここには来ないんだ」
シスコはバルコニーの手すりから身を乗り出して、笑顔で遠くを見る。
「それには理由があってね――」
その時、突然、すさまじい風が山から吹きおりてきて、少女の赤い髪を吹き上げた。
同時に、背中を押すようにバルコニーの外へはじき飛ばす。
「あ」
少女は、一瞬、驚いた顔をするが、すぐ、少し悲しげで穏やかな表情になって、はるか下方の湖面へ――
「え」
激しく布のはためく音が耳を聾すると、彼女は、たくましい腕にしっかり抱きしめられて空を舞っていた。
「ええっ」
空と湖が入れ替わった次の瞬間、彼女はバルコニーに立つアキオの腕に抱かれていた。
何が起こったのか一瞬わからなかったが、彼女を見下ろすアキオの顔を見て理解する。
風にあおられてバルコニーから落ちた彼女を、どうやったのか、親友の夫が助けてくれたのだ。
「シスコ」
アキオが、きつい調子で名を呼ぶ。
「はい」
「命が危ない時に、あんな顔はするな」
「え」
「どんな時でも、生きるために最後まであがけ」
「は、はい」
そう言ったとたん、今更ながら少女の体はガクガクと震えだした。
「その震えは、お前の体が生きたがっている証拠だ」
アキオが優しい声で言う。
シスコは、涙ぐんでアキオに抱きついた。
彼の胸の温かさが、シスコを落ち着かせていく。
彼女の視界の端に、驚いたように自分たちを見つめる銀髪の美少女の姿が映るが、シスコはアキオから離れることができなかった。
やがて、そっと足から床に降ろされた少女に、もうひとつの温かい塊がぶつかってきた。
カマラだ。
「何をしているのです。あなたは」
そう言って、ぎゅっと抱きしめる。
「あ、いや、ごめんよ。あんたの旦那だってことは――」
「そうじゃなくて、なぜ、あんな危ない目にあってるの」
シスコは、澄んでよく通る声の叱責を、なぜか心地よく感じながら答える。
「あ、あれが、ここにあまり人が来ない理由なんだよ。たまに、すごい突風が山から――う」
息ができないくらい、強く抱きしめられてシスコは絶句する。
「いやです。いやですよ、シスコ。せっかく友だちになったのに――勝手にいなくなったら」
「カマラ……」
それからしばらく、銀色の髪の少女と赤い髪の少女は黙って抱き合っていた。
いきなり、ふたりの髪が大きな手で、ワシャワシャと掻きまわされる。
「落ち着いたか」
アキオの声が上から降ってくる。
「はい。申し訳ありませんでした」
「ごめんよ。落ち着いたよ」
ふたりが口々に謝り、顔を見合わせて笑う。
アキオはうなずいた。
突然の恐怖体験も感情の発露も、ある程度時間をおかなければ収まらない。
水を飲ませれば、少し早く落ち着くことは経験上知っているが、ここにはそれもない。
だから、しばらく待ったのだ。
「さあ、次はどこに行きたい」
気を取り直してシスコが言う。
「あなたの部屋に行きたい」
カマラの希望に、シスコが困った顔になる。
「あたしの部屋は洞窟の中だからね。さすがに連れていけないよ」
「でも、昨日は――」
「あれは特別だよ」
カマラは、アキオを見た。
彼がうなずく。
「いいわ。あなたに無理はさせたくないから」
「よかった。親父さんを困らせたくないんだ」
「シスコ、あなた、お父さまが本当に好きなのね」
「だって、あたしを……いや、あたしが必要だっていってくれたのは、あの人が初めてなんだ」
「わたしも、あなたが必要よ。シスコ」
まっすぐに、目を逸らさず言う少女を眩し気に見て、シスコは頬を赤らめる。
「あ、ありがとう。うれしいよ」
「一度、部屋に戻ろう」
アキオの言葉に少女たちはうなずく。
「そうだね、しばらくしたら昼飯だし」
シスコが笑顔で言う。
部屋に向けて歩きながら、アキオは考える。
午前中をかけて、館の、ほぼ全てを見て回ったが、ジュノスが閉じ込められているような場所は見当たらなかった。
PS濃度から考えても、彼女は地下洞窟内に囚われていると考えて間違いはなさそうだ。
ジュノスが連れ戻されたのと、クラノの儀式が同時期に行われるのは偶然ではない。
彼女が戻ったから、シーズの儀式が行われると考えたほうが自然だ。
そうであるならば、儀式が始まるまで、ジュノスの身は安全ということだ。
強行突破ができないわけではないが、彼はもう少し様子をみるつもりだった。
さっき、カマラには、ザシンがアキオたちを殺人者だと思っていないといった。
おそらくそれは事実だろう。
だが同時に、最終的に、彼がアキオたちを殺すつもりなのも、また事実だ。
殺す予定だからこそ、シスコの生まれたソマル・ヌルの話を彼に聞かせたのだ。
シーズの儀式さえ終われば、シャルレの人々が彼らを探しにきても、知らぬ存ぜぬで押し通すことができると考えているのだろう。
そういった点から彼がとる最善策は、事が動いた時に、一気にジュノスを見つけ、救出することだ。
それまでに行動の準備をしておかねばならない。
「面白かったかい」
部屋に戻り、椅子に座ったシスコが尋ねた。
「そうだな」
「いろいろあって、少し疲れたね」
「でも、楽しかった」
カマラが笑顔で言う。
「もうすぐ、アルムが呼びに来ると思うから、それまでゆっくりしていようよ」
だが、その言葉が実現されることはなかった。
シスコが言い終わると同時に、激しい爆発音が轟き、建物が大きく揺れ始めたからだ。