101.指話
鍵は入口の横に置かれていた。
それを使って小屋に鍵をかけると、ふたりはザルドを置いた場所まで坂を下って行った。
陽はすっかり暮れて、空には3つの月が昇っている。
新月ではないので月明かりが明るく、夜道もそれほど危なくはなさそうだ。
「どうしますか」
ザルドの綱を解いたカマラに尋ねられ、アキオは答えた。
「ストーク館に向かう」
「わかりました」
アキオたちは、暗視強化をしているので夜道がよく見えるし、ザルドも夜目が効くので問題はない。
安全のために速度を落として移動したので、行きよりは時間がかかったものの、20時過ぎには、行くときに休憩した、ストーク館が見える湖畔にたどりついた。
見上げると、館は、夕方見た時より賑やかに明かりが灯っている。
「これからの予定は?」
「取り得る計画は2つだ。A、強行突破してジュノスを救い出す。B、嘘をつかずに素直に行く」
アキオは少女を見た。
「どちらを取ったほうが良いかわかるな」
カマラが輝くような笑顔でうなずく。
「アキオが前衛、わたしが後衛という形で行きましょう。楽しみです。アキオとその――殴りこむのは。俺のP336が火を吹くぜ、というやつですね」
「違うだろう」
そう言いかけたアキオは、カマラが悪戯っぽく笑っているのに気づいて苦笑する。
「からかうな」
「ごめんなさい。でも、ワイルドなアキオも見てみたかった」
そう言ってから、カマラは表情を引き締める。
「わたしたちは、シャルレ農園から頼まれて、薬草をオルビスさんに届けに来ました。けれど道が落石で塞がれていたので、迂回してここまで来ところ、日が暮れてしまいました。山の上に明かりが見えたので、それを頼りに館までやってきました。どうか一晩の宿をお願いします、ですね」
実際、小屋への往復を除けば、それは事実だ。
「一点を除いてその通りだ」
「ダメです、嫌です。聞きません」
カマラが拳を握りしめて断言する。
「まだ何もいってない」
「どうせ、わたしたち、ではなく、俺だけ、というのでしょう。アキオはいつもそうです。ダメです嫌です聞こえません。わたしも行きます」
興奮に頬を染めて抗議する、少女の的を射た指摘にアキオは苦笑する。
普段は素直なカマラが、時折、駄々っ子のような言動を見せるのは、可愛いが扱いに困る。
「だが、敵地への潜入行動を君はやったことが――」
「男性ひとりより新婚夫婦の方が、絶対に怪しまれません」
アキオは何とか説得を試みたが、最後はカマラに押し切られてしまった。
館を目指して進むと、比較的広い道に出た。
最近、通ったものがいるのか、馬の足跡と轍のあとが残っている。
ザルドをいたわりながら、ゆっくり坂道を上がっていくと館が見えてきた。
近づくと、ストーク館は、思っていた以上に大きな屋敷だった。
石造りの門の鉄扉は開けられていて、人影はない。
玄関わきの馬留めにザルドを置いて、アキオたちは扉に向かった。
背の高い扉の、ノッカーらしきもの使って訪いを入れる。
しばらくすると、扉が開いた。
エクハート邸で見たような、執事らしき黒服を着た男が顔を出す。
「どなたですか」
「旅の者ですが困っています。お助けください」
アキオが口を開く前に、カマラが言った。
彼を抑えるように前に出て、不安気な様子で、打ち合わせ通りの事情を説明する。
「お気の毒ですが、当家の主は人嫌いなものでして」
「そこをなんとかお願いします。ここでひと晩泊めていただかないと、慣れぬ夜道を進まねばなりません。道を踏み外すかも知れませんし……もし、ゴランが出ようものなら、ひとたまりもありません。マーナガルでも、きっと死んでしまいます。うちの人は――」
そういって、カマラは、ドン、とアキオの広い背中をたたく、
「身体は大きいんですが、荒事の方は、まるでダメなんです。夜道でムサカが出てきても、きっと腰を抜かしてしまうでしょう」
そういって、可愛らしく笑う。
「さっきもいいましたが、わたしたちはシャルレ農園から頼まれてやってきています。もし、行方不明にでもなれば、皆で探しにくるでしょう。そんな迷惑をかけたくないんです」
うまい言い方だ。
アキオは感心する。
館のものにとって、たとえ素人であっても、屋敷の周りを人にうろつかれると困るだろう。
かといって、やって来る者を片っ端から殺すわけにもいかない。噂になると、また困るからだ。
「お待ちください。主人に聞いてまいります」
男が顔を引っ込めるとドアが閉まった。
カマラが待ち構えたように、アキオに抱きつく。
「ああ、楽しかった。わたしだけですよ。アキオを腰抜けだなんていったのは。みんな、怒るだろうな。特にヴァイユなんかは――」
そういって、きゃっきゃと笑う。
アキオは、叱るべきか迷ったあげく、結局、苦笑いする。
敵地にあって気を緩め過ぎだと思うが、カマラにとっては、初めての、いや、コフを引いて歩いた時以来の、ふたりきりの旅だから、何かにつけて喜ぶのは仕方ない。
その分、彼が警戒すればよいのだ。
「お待たせいたしました。どうぞ、お入りください」
先ほどの男が現れ、扉を開けてふたりを招き入れた。
「山奥なもので、満足のいくおもてなしもできませんが、お泊りいただくように、とのことでございます」
「ありがとうございます。ご厚意、感謝いたします」
カマラがしとやかに礼を言う。
「馬がいるんだが」
「ザルドですね。お任せください」
入ってすぐ、中は広間になっていた。
装飾品や調度品はすべて古ぼけているが、その装飾の多さと多彩さから、かつては絢爛豪華な広間だったことがうかがわれる。
赤く毛足の長い絨毯をふたりは歩いた。
正面には巨大で奇妙な絵画が掛けられている。
その前を、左右対象の広い階段がカーブを描いて二階へ続いていた。
階段を上り、長い廊下を歩く。
歩きながら、アキオは、館からダラムアルドス城に似た感じを受けていた。
やがて、男はひとつの扉の前で立ち止まる。
「こちらです。どうぞ、お入りください」
そう言って扉を開けた。
アキオたちに続いて男も部屋に入り、ざっと部屋の様子を確かめる。
客を泊める準備ができているか、チェックしているようだ。
「お食事はとられましたか」
「まだだ」
「では……ご用意ができましたら、お呼びいたします」
そう言って男は部屋を出て行った。
「建物も廊下も古いですが、手入れはきちんとされていますね」
カマラが、さっと部屋を回って、調度品を確かめて言う。
「でも、なにより良いのはベッドが大きいことです。新婚といったのが効いたのでしょうか」
アキオはやれやれと首を振る。
「もう、あなたったら」
カマラが言って、アキオに飛びつく。
そのままベッドに倒れ込んで、アキオの耳朶に噛みつくふりをして囁いた。
〈冗談はともかく、アキオ、気配を感じましたか〉
〈ああ、3人いや4人か。隠れて俺たちを見ていた〉
アキオも低い声で囁く。
〈この部屋も〉
〈おそらく隠されたのぞき窓があるだろう〉
その直後、カマラの手が、アキオの手を包んだ。
生き物のように、その指がアキオの指の間で動き出す。
アキオの表情が固まった。
信じられないものを見るように、カマラの横顔を見つめる。
だが、彼の指は、意志とは関係なく少女同様に生き物のよう動き出していた。
これは、指の動きで意志の疎通を行う戦闘指話だ。
指話を使って、少女はこう言っていた。
〈それなら、こちらのほうが安全ですね〉
〈いつのまに、こんなものを〉
アキオに応えて、少女の指が言葉を紡ぐ。
〈いつか役に立つと思って、ミーナにねだって教えてもらったのです〉
彼は少年兵時代に、この技術を叩き込まれた。
音を立てず、秘密裏に、しかも目を瞑ったまま会話できる指話は、とりわけ潜入作戦で有効だった。
もっとも、早いうちに、彼は腕を失って義手になったため、それほど長くは使っていなかったのだが。
〈なぜ、初めからこれを使わなかった〉
〈だって、アキオの耳を噛みたかったから〉
〈馬鹿な〉
指話で会話しながら――何か得体のしれないものが、心の奥底から湧き上がってくるのを彼は感じていた。
もう二度と使うことはないと思っていた遠い昔の、少年時代の技術に再び触れて。
その勢いのまま――本当に、信じられないことに、我知らず、彼はカマラの薔薇の唇に口づけしてしまっていた。
彼の過去すべてを尊重し、学ぼうとする少女の態度に感謝の念を抑えきれなくなったのだ。
少女の指は、一瞬だけ止まるが、すぐに再び動き始める。
〈嘘です。突然使ってアキオを驚かせたかった。それは成功したみたいですね〉
〈確かに驚いた――ありがとう〉
アキオは指話をしながら少女を抱きしめた。
彼の胸に当たるカマラの心臓が、早鐘を打っているのを感じる。
少女は驚愕していた。
彼女の英雄が自ら口づけしてくれたことが信じられなかった。
次に、自分だけに、こんなことをしてもらってはいけないと彼女は考えた。
自分は細胞の一つまでアキオのものだが、彼は少女たち全員のものなのだから。
だから、カマラは、アキオを軽く抱き返すと、指話を使って言う。
〈こちらこそ……ありがとう、アキオ〉
そして、こう続けた。
〈今後の計画は、どうしますか〉
〈まず、食事に出向こう。おそらく誰かが相手をするはずだ〉
冷静さを取り戻したアキオが伝える。
〈その会話から、次の行動の糸口をつかめるだろう〉
〈食事に毒が入っていたらどうしますか〉
〈毒が効いたふりをして隙をうかがう〉
〈わかりました〉
エロティックに見えるほど、滑らかに激しく指を動かして会話しながら、カマラはアキオの胸に顔をこすりつける。
もし、誰かがその光景を隠れ見たとしても、新婚のふたりがイチャついているようにしか見えなかっただろう。
「あなたの匂いって素敵。食べちゃいたいな」
どこでそんな言葉を覚えたのか、カマラが口に出して言う。
清楚で美しい少女の過激な発言に、観察者もさぞ驚いていることだろう。
アキオも呆れて、空いた手でポンポンとカマラの頭を叩いた。
実際は、ナノ・マシンが体内にいる限り、体臭などほとんどない。
それから、ふたりは、ドアがノックされるまで、外面的には新婚らしく振る舞いながら、流れる指先で入念な打ち合わせを続けたのだった。