08
私の間抜けさはジェヒューさんにとても呆れられた。ほぼ婚姻と同じくらい重要な契約の相手だというのに、相手の情報を集めずに決断するとは悪手過ぎると。
もう、ごもっともです。ちゃきちゃきな陛下だから、悪いようにはしないだろうという緩みがあった。実際にそうだから、うん、セーフにして欲しい。
私の手紙を受けて、すぐに訪ねてくる辺りは政治家らしく、迅速を尊ぶ陛下の配下らしいと思う。私の事情で何か予定を潰していなければ良いのだが。どんな補佐役でも細々と忙しいから、無理させてないか不安だ。
そんなことを思っていると、ジェヒューさんは何とも言えない、少し苦々しく見える表情で告げてくる。
「ああ、それでも何と言いましょうか。サナさんはあっさりとされ過ぎだと思います」
あっさりの部分は恐らくチョロいの意味だな。
「人生で初めて口説かれて……駄目でしたね。免疫がありませんでした」
「えっ」
「えっ?」
「いえ……そうだったのですか」
意外そうなジェヒューさんの顔に少しモテ子の資質があったのか私? という浅ましい勘違いをしたくなる。違うんだ、資質ではなく脂質があったんだ私は。
「その、男女の関係で経験がないというのは……個人的な興味で恥ずかしいのですが、どのような? どのくらいだったのです?」
こやつめ、好奇心は猫をも殺すのだぞ。薮蛇だ。
「……生まれてこの方、ほぼ異性とその手の接触はありませんでした。元の世界では絶遠で、手を握るという経験もありませんでした。この世界に来てからもそんな機会はなく。本当に、この歳になってから、陛下が初めてですね」
積み重なった二十四年の澱みだ。色々と拗らせてしまうね、この年月。まだ二十代前半の内に、口説かれるという経験をさせてくれた陛下ありがとうという、ろくでもない気持ちが湧いてくる。
ジェヒューさんが気の毒そうな複雑な顔をしている。哀れんでくれ。つらい。
「そうだったのですか……。その、すみません」
「良いのですよ。一応過去になりましたから。しかし、初めて口説かれたという経験でふらふらになる様は小娘のようで、我ながら恥ずかしく思う所もあります」
おい目をそらすなジェヒューさんよ。その反応如実過ぎて胸に刺さるぞ。私がチョロすぎなんだよな、すまんな。
「けれども、このような間抜けをやらかしても大丈夫な居場所に来られて、私はとても幸運ですね」
仏像アルカイックスマイルで誤魔化し、紅茶を飲んで間を持たせる。その様子を見ていたジェヒューさんは、何やら顔を伏せて考え込む。何時の間にか、彼の纏う空気が硬化していた。如才無い彼がそんな姿を見せるのはただならぬことと察する。
「どうされました、ジェヒューさん?」
「……人払いをお願いします。私は貴女に懺悔をしたい」
思い詰めたかのような彼の声に、私は言われるがまま使用人達を部屋から出て行ってもらった。彼との付き合いは、この世界で一番古いから、出来るだけ彼の意向に添いたかった。
ジェヒューさんは、私が帝国の法律的にも皇帝に取り込まれたのだと確認すると、一つ一つ隠してきたことを話し始めた。
そして、私は年若い彼の深謀遠慮の一端を聞くことになった。
全てはチェスター国での異世界召喚から始まってしまったと。
元々チェスター王国は貧しくなくとも裕福とはいえない財政状況であった。良くも悪くも貴族社会が力を持っており、このままでは国政は先細りの想定を現実に示しつつあった。けれども裕福な商人や農民、職人に力を与えたくなくて、貴族社会の延命措置として私が召喚されたという。
「魔術師十人と魔法陣だけで、魔力が膨大な何かがすんなりと現れるのかという疑問は浮かびませんでしたか? ……ああ、サナさんの世界では魔法はありませんから、その異常さは分かりにくいですね。尋常ではないのですよ、そんな都合良く行く訳はない。様々な方法でその確率を高めていくのですが、チェスター国の遣り方は古来と変わらない術で、貴女を喚びました。家畜百頭、死すべき人間を男女十人、そして優れた魔術師の魔力三十人分、それらを魔法陣の刻まれた部屋にて儀式行い地底の神々に捧げて、漸く指標を得ることが出来ました。そして王族が見守る中召喚は実行され、サナさんが現れた」
おい、血みどろの古代そのままの贄の捧げ方じゃないか。家畜百頭とか、百牛犠牲を求める古代ギリシアの神か私は。そして召喚された当時の、腥い饐えた臭いの正体が知れて気分が悪くなる。人が十人、贄にされていたとは。
「話の腰を折ってごめんなさい。ではもしも、私が元の世界に戻ると決断したならば、そんな凄惨な犠牲を払わなくてはならなかったということですか?」
そんな恐ろしい儀式をしてまで、私は帰っても良い資格があったのだろうかと怖気がくる。そんな私に、ジェヒューさんは僅かに笑みのようなものを口の端に浮かべた。
「何の縁もゆかりもない場所へ呼び出すには、大きな犠牲を地底の神々は要求をされます。けれども、縁のある場所へ送るならば——肉親等の血の繋がりや生育した土地の縁ですね——そんな悍ましい血の贄を払わなくても良いのです。だから、先の戦での褒賞で皇帝陛下から賜わった金貨百枚を用いれば、確実に元の世界に帰る用意と準備が出来たのです」
「そうだったのですね。しかしあの褒賞すら、そこまで織り込み済みのものだったのですか……」
アタナージウス帝は何も示唆しなかったし、引き止められてしまったが、選択したのならば一応の実行出来る資金をあらかじめ渡していたなど思いもしなかった。驚きつつも私は頷いて、ジェヒューさんに話の続きを促すことにした。
「お教えくださってありがとうございます」
「いいえ、どういたしまして。では、続きを良いですか?」
「はい、よろしくお願いします。私が結局召喚されてしまった所からですね」
彼も頷き、告白をまた紡ぎ始めた。
ジェヒューさんは古くとも力の無い男爵家の末子であったから、その異世界人に延命される硬直した社会に限界を見てしまった。つまりは失望した。
「出世を狙い、宰相補佐に配され奔走していて見えたものは、変化を厭い腐り落ちてゆくだろう硬直した屍肉のような政治の中枢の有様でした。そんな中で、このような大それた召喚の内容に内心嘆息して、そして悍ましさを感じながら眺めていました。そんなものに頼るほど、この国の政治は落ちぶれていたのかと。せめて召喚されるものは生物で無ければ良いと思い、願いました」
結局召喚されたのが年若い自分よりも更に若い女であったことが、失望を加速させる。手前の身勝手で異世界の娘を召喚し、おざなりで冷淡な王国の態度に、失望が深まる。自分だけでも、この世界は冷たいだけではないのだと知らせたくて、ジェヒューさんは政務の合間に尽力するが、焼け石に水で、あっさり牢獄に幽閉されてしまった私の身の上に無力感を覚えてしまったのだという。
そして、私がこの世界で初めて泣いてしまったと看守の記録から知ってしまい、今までの王国の変化の無さに、諸共チェスターを見限ってしまった方が良いと判断を下してしまった。此処は冷徹な政治家の視線だなと思う。判断の基準になっていたらしい私がいうと、あれなんだけども。
そして実家とも絶縁所か災禍が及ぶのを覚悟でグントラム帝国へ亡命して、運良く就いた帝国宰相補佐の地位を上手く利用しチェスター王国を攻めるようにと上に進言していった。私という異世界人の存在、魔力の膨大さも餌にして。皇帝の興味を引くことが出来てからは、容易に王国を正せると嬉しく思ったと。
ジェヒューさんは執念の人だった。宰相から皇帝へ王国の統治の不味さを訴え、実際の被害を詳細に書類にして示した。農村から農民が逃散、都市部でも治安悪化で、その余波は隣国のグントラムへと渡るだろうと。元からチェスター王国と仲が悪かったグントラム帝国を王国へ本格的に侵攻させて、チェスター王国を根本的に壊すか立て直すかのどちるかへと誘った。それは今までの、王国から亡命した者達からの訴えを圧力にして。
見事に王国と帝国を交戦状態させて、ジェヒューさんは未だに私が牢獄で過ごしていることを看守から伝え聞いて、更に策を弄した。
嫡子を産んで産後の肥立ちの悪さで亡くなった正妃を忘れられず、孤独でありながら帝国を統べるアタナージウス帝に、私の孤独を語った。一人寂しく囚われている異世界の娘の心情を、チェスター国で親しくしてきたアドバンテージでもって、それらしく。
現地で体感した王国を覆う呪いの魔力、そして王都を容赦なく焼いたおぞましき炎で、私と皇帝との邂逅を確信したジェヒューさんは、敗色色濃いチェスター国へ密かに一つ告げる。異世界の娘を寄越す位の甲斐性を見せてみよと。それならば、王国の統治運営へ帝国の厳しき目が弱まるやもしれぬと。
私の足萎えや自傷行為以外は、ジェヒューさんの思惑通りに進んだという。
しかし、グントラム帝国に私が来てからは、ジェヒューさんの思惑通りに行かぬようになってきた。帝国皇帝の予想以上の情け深さは、ジェヒューさんの計算外だった。異世界の娘を手元にと欲しがるとは思わなかったのだ。そして、私のお人好しさを計算して元の世界に戻らぬと計算していたものの、皇帝陛下の申し出で彼の計算は色々歪んだという。ジェヒューさんはただ、グントラムの元で自由の身になった私をサルヴァトル・イングラムにでも預けて、この世界は冷淡だけではないと少しでも見て欲しかったのだという。そしていつかは、と。
しかし、今の状態では何も出来なくなってしまった。執念で動いてきた彼は、今途方に暮れているという。女も出世も望んで、結果半端になってしまったと。
此処までの出来事を血を吐くように告白したジェヒュー・シアボールドは、皮肉げに笑って、彼が持つその利発な雰囲気を殺してしまっていた。
「貴女という女を未練がましく欲しがった、愚かな男の失敗です。初めから好意を示していたら、貴女は振り返っていたかもしれないなんて今更知って後悔するなど」
皇帝の迅速な行動をジェヒューさんは感心すると共に、恨めしくなってしまった。
だから、こうして私に懺悔を告白しているのだという。年齢的にも釣り合うだろう、身分でも見合う方だったろう、心の距離だって王国では三本指の中に入るくらいには近かったろう。その有利を生かせなかった己を歯噛みすると。
ジェヒューさんは、腹の底で濁り凝っていた思いを吐き出して、私に告白してくる。
「小手先で策を弄する浅ましさを後悔しています。それでも、貴女の心の片隅に、どうか私の思いを置いてください」
自分が言いたい事を言って、彼は私を抱きしめてきた。ジェヒューさんは私を包むというよりも、縋りつくように身を寄せてきていた。
じっと彼の懺悔の告白を聞いてきた私は、彼の背中をさすることにした。ジェヒューさんはあの五年前の当時は二十二歳の若者で、今だって三十路にもならない若い青年なのだ。出世を夢見る下級貴族の出身で、才気走った己を上手く使うなど難しかろう。
「貴女はもう手に入らない人になってしまった」
此処までジェヒューさんに思われていたとは、私は想像もしていなかった。憐れな小娘を気の毒と思って、気遣ってくれていたのだとばかり思っていた。
苦しいくらい抱きしめられて、彼は彼なりに私を求めてくれていたのだと知る。これは王国では知る事が出来なかった思いなのだろう。
「ジェヒューさん、それでも私は貴方に救われていました。初めて私に名前を尋ねてくれたのはジェヒューさんで、王宮での暮らしを気配りしてくださったのはジェヒューさんだけで、王国から逃れる事が出来たのはジェヒューさんが動いてくれていたからです。ジェヒューさんの真心を、この世界で生きる支えにしても良いですか? 私がこうして生きて居られるのはジェヒューさんのお陰だから、生きる術にさせてください」
「真心などと加飾しないでください、私は浅ましく貴女と出世を求めて、敗北した身なのです」
私が差出せるのは、言葉だけだった。嘘偽りのなく告げた言葉は上滑りして、余計なものになってしまう。けれども、私の中では本当なのだと訴える。この世界で初めて優しくしてくれた人は特別なのだと。
「サナさん、この未練がましく浅ましい男を、そうやって期待させないでください。想いを断ち切る事が難しくなります」
ジェヒューさんは漸く私から離れた。苦悩の色ある表情で、私の手を握る。
「けれど、皇帝陛下以外にこの世界で生きる支えになれるというなら、私はなりましょう。これがサナさんを利用してきた王国の一員として償いとなれるのなら」
「償いなど、そんな」
「そうさせて下さい。貴女の慎ましやかな願いを叶えたい」
薮蛇をつついたのは私の方かもしれない。若き青年の人生の一部を縛るような真似をしてしまった。
握られた手が痛い。けれど、私の安易な言葉の所為で生まれた柵に、心が醜く引き攣って、そちらの方が痛かった。
ジェヒューさんは握りしめていた手を緩め、私の指先と手の甲に口付ける。赦しを請う様が更に私の心が引き攣った。