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 私の答えは結局、未だ出せていない。ぽつねんと放り出された選択肢は、ゆらゆらと揺れている。

 アタナージウス帝の妾に求められた事で、私の身の上は宙ぶらりんから更に不安定になっている。実は、今は病床の身ということになっているので、帝国貴族の手紙攻勢から遮断されている状態なのだとか。……正直、異文化で育った庶民が貴族社会に馴染めるかと思うと、我ながら無理じゃないかと思ってしまう。

 元の世界に帰るとなると、どうやって魔術師十人と魔法陣を用意するかという問題もある。褒賞で貰った金貨百枚で足りるのか、そこも悩みどころだ。というか魔術師って何処で伝手を得たら良いのか皆目見当がつかない。

 ……アタナージウス帝もジェヒューさんも、選択肢を出してくれてはいるものの、その選択する術になる情報が少ないような気がする。だから決めきれてないのでは、という八つ当たりじみた気持ちが出て来る。

 この選択、本気で人生決まるのだぞ。自分をそう脅して紙に様々と書き出したりして、そうして貴いお方から提案されて五日過ぎた。

「夕刻、皇帝陛下が此方へ内謁されます」

 時間切れである。アタナージウス帝が客室に訪問してくる時間が指定された。その時間に間に合うように私は身綺麗にされていく。昼間の湯浴みとか贅沢だ。香油で髪も身体もつやつや良い香りになる。

 傷跡が目に入らないように、今回もまた包帯で覆う。そして前回紅茶で汚れたドレスではなく、いつのまにか増えていた深い藍色のドレスで身を飾る。誰が用意したんだろうなー。想像したくないなー。

 化粧も丁寧に施されて、三割増しの美人に仕立てられ、その顔周りをアクセサリーでキラキラと飾り立てる。

 準備をしてくれている侍女の人達は普段よりも緊張と気合が入っているようである。これは何を想定しているのか想像してみると震えが来る。大それた事になっているなと、周囲の反応につくづく思う。つられて緊張が高まるわい。

 いくら気安いと感じたとて、相手は皇帝陛下である。私の返答次第では宜しくない末期になるやも知れない。緊張と不安で胃がじくじくと沁み始めた。

 青白い顔で深呼吸を繰り返していると、侍女が皇帝の来訪を告げてきた。出迎えに行くと、相変わらず恐ろしげな男前の皇帝陛下の姿が見えた。

「皇帝陛下、わざわざの内謁を賜り——」

「無理をするな」

 前回と同じようにさっさと抱き上げられて、談笑用のソファ席へ連れられた。茶番に見えるかもしれないが、こういう礼を尽くす様を見せないといけないのが階級社会の面倒臭さなのだ。面倒臭いと一番思っているのはこのお方だろうけど。私の足が悪い事を嵩に、さっさと行動してしまう所が茶番を疎んじていそうだと感じる。

「さて、根を詰める程悩んでおったそうだが、答えは出たか?」

 いきなり本題が来てしまった。さようなら私、来世で頑張れよ。そんな心地になりながら、情け無い有様を皇帝陛下に赤裸々に語った。何の話術も武器も無い私は、正直者は馬鹿を見るでもそれしかないのだ。

 甘みのない金色に見える瞳に見据えられ、冷や汗が出る。呆れの色が見て取れるのがもう身が縮む思いだ。皇帝陛下は長い脚を組み、自分の手を顎に当てて、じっとりと狼の眼を向けて来る様は決まっていて格好良いが怖い。皇帝こわい。

「……全くもって仕様のない娘だ。皇帝の求めすら迷うとは。そなたは何方も選び切れぬままで終わるつもりか」

「本当に、お恥ずかしい限りです」

「まあ良い。今から決断して貰おう」

 皇帝陛下優しかったー! だけどそりゃ結論求めるよなー! 脳みそ振り絞れー!

 もう、ここまで迷うなら将来後悔するのも覚悟して、神頼みの籤引きをしてしまうのも有りかもしれない。日本人、古来から公正な選択肢として籤引きを行ってきた歴史があるのだし。室町将軍だって籤引きであの半将軍を輩出した訳だし。その分権威が弱かったとかいう史実は無視だ。

「——脳味噌を絞り切って一気に覚悟を決めます」

 言葉が少々淑女らしくなかったが無視だ。脳内で「何方にしようかな、神様のいう通り」と唱えて選択決定させるのだ。

「ろくでもない術で決めようとはしてまいな?」

 ぎくりとなる。何故見破れる。うろうろと視線が彷徨って、目の前に座っている皇帝陛下の確信が深まってしまった。

「当てずっぽうであったが、こやつめ。自棄になったか」

 静かな声音に溜め息をつかれ、仏像アルカイックスマイルで誤魔化そうとして失敗する。何だか皇帝陛下相手だと、誤魔化しが難しい。

「自棄になったつもりは——」

「そんなに迷い惑うのなら、俺に素直に口説かれると良い」

 ソファからにじり寄って来たアタナージウス帝の目が飢えた獣のように光っている。距離が縮まり、自分が赤面していくの分かった。はいもう今までの考え吹っ飛んだー! いきなりそんな行動されると困る!

「ひぇっ、あのっ、今ので自分が何を考えていたか飛びました。今、頭が真っ白です。照れが、うう」

 鼻と鼻がぶつかりそうな程近くなった皇帝の顔に思考停止になる。今の状態を告白して「どうにかご容赦ください」と懇願したかった。したかったのだが、その前に楽しそうな男前の顔が眼前に映る。

「えっと、そのですね」

「そなたは男から口説かれた経験は無いのか?」

「……な、ないです」

「ふむ。だからこそ此処まで初心なのか。そなたの周りに居た男共は、一体何をしていたのだろうな」

 悪い笑顔の皇帝陛下は私の体を引き寄せ、彼の膝の上に座らされた。この照れの状態で相手の体温が、呼吸が分かる状態は心臓に悪い。私の命日、此処だったか。

「へ、陛下……」

「なあ、サナよ」

 アタナージウス帝の声音が、今までのものと全く違う。大きな体で包まれているこの状態が恥ずかしい。

「一人の女を求めるこの俺を捨て置き、世を去ろうとは悪いと思わぬか? 僅かばかりの逢瀬すら許さず、他の男共に笑みを浮かべ身を任す様を見せ付けておきながら、ちっとも心を寄せて来ぬこの薄情を、悪いとは思わぬか?」

 アタナージウス帝の掌が私の頬に触れて来る。心臓が壊れそうだ。恐ろしげな男前なのに、この柔らかく責め立てる言葉達の落差に目眩がする。甘やかさのない金色の瞳は今、眇められてとんでもない色気が溢れていた。

「俺と共に、この世界の美しい様を見ようとも思わぬのか?」

 低く潜められた声が間近で聞こえてきて、自分の指先が震えたのが分かった。緊張やら何やらで呼吸が浅くなっている。

「へいか、恥ずかしい、です」

 照れでもう呂律が回ってない。皇帝の口説きが効いているのが丸分かりで更に恥ずかしい。

「つれぬものだな。そなたを欲しがる俺に冷たくするとは」

 冷たくした覚えはないし、完全に分かって言っているアタナージウス帝は私の片頬に唇を寄せた。照れで死ぬ。やっぱり今日が命日。

「へいか……」

「サナよ、俺の名を呼べ」

 貴いお方がそんな事言っちゃ駄目だぞ。名は親しい人にしか……あーあーあー!

「へいか」

「名を、サナ」

 低くて甘い声になった皇帝の声音に、脳味噌が溶けて行きそうになる。この甘やかな声で名を呼ぶことをねだられては、軟弱な私では逆らえない。

「アタナージウスさま」

 この皇帝陛下なら口説きの序の口だろうけども、私はもう既にいっぱいいっぱいになっている。彼は満足そうな笑みを浮かべて、触れるだけの口付けを私の唇に贈った。

「そうだ。このまま俺のものになれ、そなたのゆく道に俺がいる事を許せ。郷愁に襲われるなら俺を頼れ。俺はそなたのみならず、その孤独をも愛そう。サナよ、俺の横に居てはくれぬか?」

 頬に当てられた男の掌が熱い。顔面間近にある男の呼気が恥ずかしい。香水と男の匂いに包まれて現実感を失っている。完全に許容を超えて、私は今強く思った気持ちを口にするしか出来なかった。

「私は、頭が良くなくて、陛下を煩わせるかもしれません。人様に自慢出来るような女ではないと思います。——きっと、一生郷愁に囚われて、鬱陶しいかもしれません。それでも、アタナージウス様は、良いのですか?」

 至近距離にある苦味走った男前は、私のうわ言のような言葉を最後まで聞いて、なんて事のないように頷いた。頬に添えた男の手の親指が、私の頬の皮膚を確かめるように撫でて来る。

「とっくに心得ていることだ。それでも欲しいのだ。サナよ、頷いてくれるな?」

 誘うような声音だった。静かな甘やかで低い声に、やはり軟弱な私は逆らえなかった。

「……はい、陛下。こんな私で良ければ」

「名を」

「……あ、アタナージウス様」

「良い。サナ、そなたは俺のものになる。俺はそなたのものになろう。だから、この世界で共に歩むのだ」

 私が返事をする前に、アタナージウス帝の口付けによって意識が真っ白になった。今度は触れるだけの優しいものではなく、口内へ割って入る舌の存在があった。

 初めての深い口付けに、ただ成されるがままになるしかない。私は薄く目を開いて此方を観察しながら口内を弄る彼の様子に、恥ずかしさが募って目を瞑る。もっと深くなる。私の舌が彼の舌に絡まって、訳が分からなくなった。

 どうやって呼吸をしたら良いのか。長い口付けは、私の身体を弛緩させる効力があるようだった。

「へいかっ……」

 漸く唇が離れて荒く呼吸を繰り返す。その私の顎から唇を、アタナージウス帝の舌が舐め上げた。その様が獣のようで、どぎまぎしてくる。

「このような口付けは初めてか」

「か、完全に、初めてです……」

 涙目になって皇帝の大柄な体に寄り掛かっていると、彼は私の身体を撫であげて行く。金色に見える狼の眼は、生き生きとした輝きと獰猛そうな色気を発していた。……待て、この展開は、いかんのでは。

 彼の手が、指先が、首筋から鎖骨へ流れ、その度に私の身体が震えている。これは初体験であっても、そろそろ抑えねばならない反応だと分かる。腰まで撫でられ、更に下へと手が向かってはいけない。ドレスの防御力を信じたらいかんやつだ。

「陛下、そのっ、恥ずかしいです」

「……チェスターの者共は、そなたを一切触らなんだか。呆れたものだ」

 男の手が太腿まで下る。熱い吐息が私の首筋にかかった。ぞわぞわする。

 急展開すぎる。そういう体験までは、少し猶予があると思ったというのに、これでは覚悟が決まらない内に始まって終わってしまう。

「ひっ、ああ声が、恥ずかし——」

 また口付けをされて、頭が回らなくなる。深い口付けは、歯列をなぞり、私の口内を全て触らんとする彼の舌で背筋が震えた。やや乱暴な手付きでドレスの裾がたくし上げられた。直接男の手が太腿の肌に触れられて羞恥が走る。

 もういっぱいいっぱいだった。唇を挟むように食まれ、うごめく手は今度は胸元へ移動していた。

「——サナ」

 もう、ほぼ理性が負けているのではないかと思われた皇帝が声を掛けてきた。吐息混じりの呼び掛けに震える。

「……アタナージウスさま」

「続きは次回にする。このまま過ごしてしまえば、そなたの負担になる。口惜しいが、ここまでだ」

 私は酸素不足と巨大な羞恥で頭がぼんやりしているが、どうやらこの貴いお方は理性を何とか取り戻したらしいと分かった。危なかった。

 ぼんやりと苦味走った男前を見上げて、そしてこの男が取り止めた理由に気付いた。彼の視線は私の胸元に向かっている。

「……お見苦しいものをお見せしました」

 苦笑して、アタナージウス帝の傷ましそうな表情に、そのような心遣いをしなくて良いと首を振る。体に巻いていた包帯が解けて、未だ生々しい傷跡が露わになってしまっていた。両二の腕とデコルテの傷は大人しくなりつつある。けれども胸元の傷は深くて、我ながら痛そうな見た目をしているのだ。

「未だ、傷はこんなにも色濃かったか」

 男の傷跡は見慣れているだろう皇帝陛下も、女の切創の治りたての痕は違うように見えるようだ。無骨な男の指先で胸元の傷跡を撫でた。くすぐったい。

「傷自体はきちんと塞がっております。大丈夫ですよ」

「医師だけではなく、医療に優れた魔術師を寄越そう。出来るだけ痕が薄くなるようにさせる」

「お心遣い、かたじけのうございます」

 ここで遠慮しても押し切られる予感がしたので、私は素直に厚意を受け取る。

「……この傷が俺を救ったものだと良い方向に考えていたものの、目の当たりにすると口惜しさが沸くな」

 短いダークブロンドの髪をかき上げてから、アタナージウス帝は私を自分の膝からソファへと移した。乱れた着衣と化粧に今更気付いて、ちょっと白目をむきたくなった。

「アタナージウス様、お気になさらないでください。私が勝手に行ったことです。私、これには後悔を一切していませんから」

 不惑の歳だろうに、アタナージウス帝は何処か不満そうな様子を見せていた。けれど、私と視線を合わせると、不満の様子を消してしまった。

「……俺を慰め甘やかそうとは十年早い。しかし、その心は受け取ろう」

 この人、実は懐に入れると途轍もなく甘い人なのでは? 何故か不満が消えて気を取り直したらしいアタナージウス帝は、私の顔に軽い口付けをいくつも落として行く。額、鼻先、頬、顎、瞼の上、最後に唇。赤面がおさまったと思ったらこれだ。いつか高血圧で意識が飛びそう。

「そなたを手に入れたことをまず満足しよう」

 そうだ。口説かれて彼に色よい返事をしてしまったのだった。怒涛のお色気に色々飛んでたわ。

 ……皇帝の妾って、大丈夫か私?




 次の日、使用人の皆様に祝福されまくる午前中だった。私の返事はやはり「いまだ実感が湧いていないです」で統一しておく。

 私、チョロい。口説かれたらすぐ頷いてしまうとか、チョロい。元の世界の友人皆に「あんたは詐欺師のカモになれる才能に溢れている。悪い男に早々引っかからないように用心しておけ」という忠告が今頃身に染みて心が痛い。そんなチョロい私が警戒するくらいのチェスター王国との相性の悪さと対応の不味さに、変な

微笑みが浮かんできてしまうね。今思うとあの私の警戒は奇跡だった。

 本日の昼食は皇帝陛下の捩じ込みがあって、緊張する高貴な方との優雅なランチとなった。昼食を終えたらそのまま妾になる為に必要な事務作業があるらしい。素早いね、皇帝陛下。迅速を尊ぶだけあるね。というか、もう書類用意しているとか以前から着々と準備していたのでは、これ。

 皇帝と食事を彼の執務室の隣室で行い、そのまま書類に記名する作業が行われた。

「……この書類、それにあの書類もアタナージウス様の記名が既に成されているのですね」

「書簡の作成のついでに過ぎぬ」

 婚姻関係の書類を作成するのは時間がかかるはず。そのチェックついでに記名したのかも知れない。

「……私がこの世界に残ると確信していたのですか?」

「さてな」

 流石に素直に答えないか。ペンを手に持つ。

 この帝国に忠誠を誓い帝国の法律に従うことを誓う書類には、帝国に来て怪我から回復したらまずやらなくてはならない物だと仰天した。どれだけ延期を重ねてたのかこの書類。そして帝国での財産管理に関する書類、帝国での身分についての書類、その中に、何故かサルヴァトル・イングラムの名前が出て来た。

 というよりも、サルヴァトル先生が記名している書類があって、それが養子縁組の申請のものなのだ。

「あの、どうしてサルヴァトル先生の名前が?」

「ああ、妾といえど皇帝の元へ置かれるからな。流石に身分に箔をつけた方が良いと判断した。丁度、そなたと交流があったイングラムはそこそこ良い家柄だったのでな、サナをサルヴァトル・イングラムの養子にさせたのだ。則ち後見はあの男が持つ」

「え、いつの間に!」

「数日前にだ」

「何とあの時か!」

 サルヴァトルさんの額に口付けた、あの次の日にアタナージウス帝は養子の了承をもぎ取っていたのだと知れる。まじかー。サルヴァトル先生は押しに弱いから、さっくり討ち取られたに違いない。

「サナは素面では口が悪いのか?」

「……庶民ですからね、まれに悪いものが出て来るやもしれません」

「ふむ、そうか。——ああ、名前を記入する時にはイングラムの名を忘れぬように。サナ・フクドメ=イングラムと書くのだ」

「分かりました、先のご指摘ありがとうございます。……サルヴァトル先生にお礼を言わねばならないですね」

 サルヴァトル先生、そんなに歳が違わない親子になってしまいましたね。そんな複雑な思いで名前を記入する。五歳差の親子。きっつい。

 そして、ついに口が悪いのが国で一番偉い人にバレてしまった。仕方ないね。皇帝に偽りなどしたら生活危ないもんねと自分を慰める。

 あれこれと自分の名前を何回も書き、最終的にアタナージウス帝との公妾契約書、サインしたら正式に妾になるという書類に辿り着いた。

「この書類が最後の一枚ですね」

「ああ。この一枚でサナの今後の人生が決まる。良く読み、記入すると良い。条文が気に入らなければ指摘しても良い、作り直させよう」

「そう仰られると、緊張しますね」

 契約書の文を黙読して行く。大意を自分なりに確認だ。

 皇帝陛下は今は正妃が居ないよ、後妻が来ても身の保証をするからね、子供が出来ても庶子扱いになるよ嫡子がいるからね、お金は皇帝陛下がお小遣いを公費から出してくれるよ、あんまり高い買い物は皇帝陛下に相談してね、皇帝陛下からの寵愛が無くなったら別居になるけど生活は保証するよ、貴女が亡くなったら財産や遺体をどうするか他の書類で提出しておいてね、もし皇帝陛下が先にお隠れになったら寡婦になるけど再婚を寛大にも許すからね、内政外政つまり国政に口出ししないでね、後見人が何かやらかしたら連座になるかも、浮気したら鞭打ち百回後に処刑だよ——等々ある。

 まあ、こんな物だよなあといった内容だった。むしろフランスの公妾制度よりも優しい。フランスの公妾は立場が不安定なのに、その重責が重いのなんの。国内のサロンやパーティ外交など才覚が必要になる。その分、王の寵愛を受けている間は大きな権力を得られるが。

 私は政治にはとんと疎いし、元の世界の友人曰く詐欺師にとってのカモネギと言われたし、政治の世界から距離があるのはありがたいくらいだ。……本当に、私の諸々を織り込み済みの契約書だ。

「内容に不備はないか?」

「はい、大丈夫と思います。書きますね」

 アタナージウス帝の様子を見ずに、さらさらと契約書にサインを記す。完全に流れ作業になっていた。サナ・フクドメ=イングラムと。

 書き込み作業が終わり、達成感で笑顔が浮かぶ。するとアタナージウス帝から顎へ手を伸ばされ、顔を上向きに固定されると口付けされた。今回はさらっと終わり、呼吸困難は発生しなかったものの赤面は発生した。

「法律でもそなたは俺のものになった。あとは神に報告するのみだ」

「——は、はい」

 照れや恥ずかしさで震えが来たり、悶絶して意識が飛びそうになることは天下の皇帝陛下だとないらしい。羨ましいものだ。私は良く命日が今日だと覚悟するというのに。

 書類の束をまとめると、アタナージウス帝が執務室から秘書を呼び出して、その紙の束を渡した。そしてこの世界の神に報告する良い日時を幾つか算出するように告げている。偉い人のスケジュールは穴があまり無いから、そうなるよなあ。

 そして今回の私の役割は終わったので、皇帝陛下のもとから住まう客室へ戻る事になった。なったのだが、どうやら契約書にサインをして名実共にアタナージウス帝のものになった私を、この皇帝陛下は他人の男に運ばせたくないと言い始めた。すっごいね、何この甘いの。私、糖分過剰摂取で糖尿になるかもしれない。

 手に入れてからデレが激しくなるとか、予想してない。年の功からさっさと淡々となるかと思っていたのに、まさか過ぎる。この恐ろしげな見た目でそんな駄々こねデレとは、まさかである。

「不安なのですか?」

「不満なのだ。俺がそなたを触れた回数は、あの護衛よりも少なくあると思うと、なかなか腹立たしい」

「……これからは、その回数をアタナージウス様が上回ると思うのですが」

 昨日の時点で相当触った回数を稼いだだろうに。自分のものと認めたものには執着心が強いのだな、この人は。口説かれる以前だと全く想像出来なかった部分だ。

「……ふむ、それもそうか。こればかりは致し方ないか」

「私も早く歩けるように励みますね」

「……そうだな。無理はせぬようにな」

「はい、ありがとうございます」

 こうして皇帝陛下を隣の執務室へ見送り、護衛の人に抱えられて部屋に戻る事が出来た。

 ごねる皇帝陛下を見るとは思わなんだわ。人を転がす事など自信はないが、あのアタナージウス帝が浮かれている間は、少しばかり頑張った方が良いかもしれない。いや、まさか浮かれるとは思わないじゃないか、落差激し過ぎだわ。何回でも言う。落差激し過ぎだ。

 私は遠い目になりつつ護衛の人に部屋のテーブル席に置いてもらった。そして、気を取り直してサルヴァトル先生へ、お礼と謝罪をしたいと手紙を書いた。

 そしてジェヒューさんにも手紙を書く。せっかくの元の世界に戻る機会を作ってくれたというのに、結果はこれだから謝罪と感謝を記しておく。

「このお手紙をジェヒュー・シアボールドさんに。もう一通はサルヴァトル・イングラムさんに届けて頂けませんか?」

「承りました」

 侍女の人が手紙を受け取って私はほっと息をつく。今日の最低限の仕事は終えて、気が抜ける。そして、ふと流していたが、流してはいけないことを思い出した。

 陛下、既婚で、だがしかし正妻今は居らず、それから子持ち! 知らなんだ。既婚はそうだろうな、という気持ちであるし、子持ちも不惑の年頃であるなら貴族社会の一員として当然であるし、そうなのだけども。

 そうかー、子持ちかー。お子さんと仲良くしてとまでは分からないけども、そうかー。前途は何処だー。

 ノリと勢いと流されで物事を決断してはならない。それを実感した私はテーブルの上で俯せになるしかなかった。




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