06
「突然の訪問を受けてくださり、ありがとうございます」
「よくいらっしゃいました、サルヴァトル先生」
私が立って出迎えると、彼は驚いたようだった。優しげな翠の目が丸くなっている。
「調子が良いのですね。まずは、おめでとうございますと言った方が良いでしょうか?」
「そんな、まだ実感がないのですよ」
このまま談笑用のソファ席まで歩けたら決まったのだが、結局膝の力が抜けて産まれたての子鹿状態になった。サルヴァトルの支えを借りて椅子に座らせて貰うことになった。
「お恥ずかしい所を見せました。ありがとうございます」
「いえいえ、こうやって回復を目指しているのですから立派な行動ですよ」
サルヴァトル先生はとても優しい。優しくなければ、王国の時に私へ文字や文学歴史を教えてくれないのだけども。優しさが身に染みる。
侍女の人に、サルヴァトル先生の飲み物を持ってきて欲しいとお願いして、彼と向き合う。
「研究の方は進んでいますか?」
「まだまだです。王国には無かった帝国の書籍を改めているばかりで、知識の刷新が追いついていないのが現状ですね」
「苦しくとも嬉しい悲鳴ですね」
「はい、まだまだ知らないものがあると分かり、充実しています」
サルヴァトル先生は、新任教師から大学の院生のような雰囲気になっていた。更に学者らしさが出て来たというべきか。どちらも若手なのは年齢的に仕方がない。まだ二十九歳の筈だ。
運ばれて来たサルヴァトル先生の飲み物は珈琲だった。中世西洋の文化なのに珈琲あるのか……。彼はそれを美味しそうに飲み、私のことを話してくる。
「サナさんのことが物凄い勢いで広がってますよ。城内のみならず国中に、皇帝陛下が求めた寵姫のことが噂されています」
「まさか、そこまで広まっているとは……」
白目むきそう。皇帝の私的な訪問からそんなことになるとは。この情報流出、使用人からなの? それとも皇帝陛下自らぶっちゃけちゃったの? どっちもいかんぞ?
「僕もそれを聞いて慌てて訪ねて来たのです。……何故か此方はあまり広がってませんが、元の世界に帰るかもしれないという話も耳にしまして」
「それも流れているのですね」
ジェヒューさんが提案してくれた話も流出している。私は情報統制など分からないから、それは事実であるとサルヴァトル先生に頷くだけだ。
「本当なのですね」
「チェスター王国では情勢的に無理だったけれども、グントラム帝国なら出来るだろうと言われました」
サルヴァトル先生に何とも言えない表情が浮かぶ。同じような顔をジェヒューさんもしていたような気がした。
「どちらを選ぶかはサナさんの意思なのですが、今はどう考えていますか?」
「……自分で自分の事を決断する事が久しぶりで、頭の中がごちゃごちゃしています。紙に書き出したり、整理しようとして失敗している気がしますね。後悔のないようにしたいのですが」
苦笑してしまう。これでは決断が出来ないではないか、という自嘲を込めて。
サルヴァトルさんは何か考えている様子だったが、おずおずと言葉を口にし始めた。
「僕は大きな決断をした時、必ず後悔するものだと考えています。現実はどうやっても取り零すものが出て来るものです。それでもやらなければならない瞬間が来ると」
彼の優しさと誠実さは、この時とてもありがたかった。下手な慰めは、決断を鈍らせるだけだから。
「本を読んで来たサナさんなら、人々が迫られ苦しみながら答えを出す有様を思い浮かべる事が出来ると思います。その結果が良い事も良くない事もありましょう。……決断をしないという選択は、歴史を見るとあまり勧められません。どちらにも見限られるばかりです」
どっち付かずの、どちらにも良い顔をした歴史人物のその後を思い返して、私は頷く。あの家の人とか、あの家臣とか、うん、……良くない結果だけは確定している。
「未来は分かりません。ただ願いを込めて決断するのみです。未来にする後悔をも受け入れる覚悟だけが必要なのです」
「〝我々凡夫が下した仕儀、ただ天を仰いで地を這うのみ。未来は神が握り見えぬ〟——でしたか」
この世界での詩を一片諳んじると、サルヴァトル先生は嬉しそうに目を細めて頷く。
「詩人ゼカリアの——そうですね。覚えてくださっていて嬉しいものです」
「楽しかったですから。どちらにせよ、出たとこ勝負ということですね」
「僕が易々と唆してはならない——のですが、唆したいですよ、本当は」
サルヴァトル先生の言葉が意外で、目が丸くなる。優しいけれども、他所の事情に深く立ち入らない弁えた姿勢を示してきた彼が、ここに至って立ち入ってきたのだから。
「僕は元の世界へ帰って欲しいと思えません。漸くチェスター王国の柵が無くなって好きなように会話が出来るようになったというのに、その相手であるサナさんが居なくなってしまうことが、凄く嫌だと思ってしまいました。このまま残っていて欲しい、この世界は王国のような辛い事だけではなく、もっと豊かで美しいものがあると知って欲しい、そう思ってしまったのです。だからサナさんに、この世界に残って良いものも沢山あるのだと目の当たりにして欲しいと唆したくて……言ってしまいましたね」
サルヴァトル先生の言い募った言葉は、自分の愛着ある物事に対して、そばを通り過ぎる他人に願ってしまうものと同じだ。彼はこの世界を愛しているから、何も知らず良くない体験だけして去ろうする私に、本当は違うのだと縋っている。善良で眩しい姿だった。
一気に喋ったサルヴァトル先生は恥じ入るように珈琲を口にする。その姿を見ながら、私は彼の願いに心打たれているのを感じていた。
「たしかに、私はこの世界の美しい処を見て居ませんでしたね。中庭と、本の世界だけしか美しいものを知らない」
もう五年もこの世界にいるというのに、知っている場所は王宮と牢獄と帝城だけだ。それだけの世界ではないのだとサルヴァトル先生が言うのも道理だと思ってしまった。
「僕の勝手な思いですけど、本当の気持ちを言いました」
「その気持ちを口にして下さって、ありがとうございます。聞きながら、私はこの世界ではまだ赤子なのだと気付かされました」
本当の気持ちを口にするのは、とても勇気が必要なことだと思う。受け入れてもらえなかった時の悲しさといったらないから、尻込みしがちになるだろうに。
「僕個人の感情までお見せしてしまって、見苦しくなかったですか? お恥ずかしいです」
「いいえ、全く。むしろ蒙を啓かれる思いをしたくらいです。“ノエル叙事詩”に出て来る賢者サリヴァンのようでした」
「そこまで持ち上げられますと、恐縮してしまいます……」
「そうですか?」
褒め過ぎたか? 結構本気で言ったのだが。サルヴァトル先生の頬に朱が走るのを見て、悪いことをしてしまったと思う。視野が狭まり頑迷になったノエルに、他の視点や感情があるのだと導く様は、賢者サリヴァンに似ていると思ったのだが。
一息つく為に、新しく淹れて貰った紅茶を飲み、茶菓子をつまむ。贅沢なバタークッキーだ。私につられてサルヴァトル先生も茶菓子に手を伸ばして、メレンゲクッキーを選んだ。
お互いにほっと息をつき、サルヴァトル先生は気を取り直してから押し殺すような小さな声で尋ねてきた。
「そもそもなのですが、サナさんは皇帝陛下のことをどう思ってるのです?」
……根本的な疑問だねー。そうだわ、それ大事だわ。この世界に残るという選択をするなら大事なことだ。
「恐れながら、最初は見た目通り恐ろしいと思っていたのですが、お話ししてみると、どうもお優しく気さくな方で、好感の持てるお方だと思いました」
私の小さな声でもぞもぞとした答えに、サルヴァトル先生は呆気にとられたようだった。彼は吃驚した様子で更に声を低めて言う。
「サナさんはなかなか肝が太い方だったのですね。僕は今でもあのお方は恐ろしいと思うのに、もうそうでは無いのですね。凄いですよ」
「笑いの沸点低そうでしたよ。愉快な方なのだと思います」
「そんな、陛下が少し笑うだけでも周りは戦々恐々とするのに……サナさんは平気なのですか?」
「笑う時なら怖くは無いと思います。怒っているのなら、ごく普通に怖がると思いますけど」
「……なんでしょう、陛下の前でその平素の様子なら、大丈夫だと思います」
「そこまでですかね?」
「そこまでてすよ」
この会話は全て顔を付き合わせてのひそひそ話で行われた。流石に国で一番偉い人の話題を堂々と出来る豪胆さは無い。まだまだひそひそ話は続く。
「その豪胆さを少し僕に分けてくれませんか? 実は明日、皇帝陛下に内謁するのです。理由が分からず恐ろしいのですよ」
「それはまた大変な事ですね。内謁を賜るという形式がまた、どのような理由があるのかといっそう不安を煽りますね」
私も最初、皇帝陛下と会話した時は途轍もなく緊張していたので、気持ちがとても分かる。あのアタナージウス帝は迫力があり過ぎる。
「僕はまだ実績の少ない一研究者でしか無いので、余計に理由が分からなくて……緊張しているのですよ」
「不安で緊張してしまうのは、もう必然ですよこれは。私も滞りなく済むのを祈りますね。肝は流石に差し上げられないのですが、うーん、何が良いですかね」
少し茶目っ気を出してみたところ、サルヴァトル先生はいっそう声をひそめてお願いを告げてきた。
「……一つだけ、祝福を祈った口付けをください」
これ、戦場へ向かう騎士と同じテンションになってないか? 皇帝は死を覚悟する相手なのか? ……あの見た目だと覚悟しちゃうね、仕方ないね。
大真面目な様子のサルヴァトル先生の目は、完全に真剣な色を湛えていた。私はその真剣さと、今回の彼の言葉達に蒙を啓かれたお礼に行うしかないと決めた。恥ずかしさで後で悶絶してしまうとも、誠実さを示した彼に私も誠実を示さねば義が廃る。そう奮い立たせる。
「分かりました。……えっと、ど、何処にしたら良いでしょう?」
恥ずかしさと緊張でどもる。了承しつつも狼狽えている私に、サルヴァトル先生は「あっ」と気付いたらしい。私が育ってきた国では、唇は恋人か婚姻の相手にしか触れられないという慎ましい文化を、今思い出したようだ。
「……すみません、慣れていない事をお願いしてしまって」
「いえ、その、多分下手くそだと思います。こういう行為は、初めてなので」
サルヴァトル先生の顔が申し訳無さそうなものから、ちょっと恥ずかしそうな上気した頬になる。やめてくれ、そんな顔をされたら照れで自我が崩壊する。
「その、僕が初めてとは、光栄です……」
もじもじしないでくれ。もう君、三十路に突入しつつあるでしょう! 少年みたいな反応やめなさい。
「祝福は、……額にお願いします」
「わ、分かりました」
何やねんこのイベントは! 実は乙女ゲームだったんか! おのれら何ちゅうひどいことしてるの! 心が致命傷だわ!
心の中で偽物の関西弁で悪態をつきながら、照れながらも口付けを貰う気満々のサルヴァトル先生に私は近付こうとする。どんだけ皇帝陛下を怖がっているのだ、この人は。
そのサルヴァトル先生は椅子から立ち上がって、私のすぐ傍で跪き、視線を合わせた。お互いに妙に恥ずかしがって照れているのが宜しくないのだろう。やりづらい。
「……し、失礼します」
彼の赤茶の髪を指先でかきあげた。翠の瞳が目の前にあるのが気恥ずかしい。その彼の目は今期待に染まっている。やりづらい。
チェスター王国で礼儀作法を習っていて良かった。祈り文句の例文を覚えていて良かった。
「智者サルヴァトル・イングラムに、勇気と幸運を祈ります」
彼の高い鼻に気をつけながら、顔を近づけ、恐る恐るその白い額に唇でそっと触れてみる。リップ音など色気は出せないので、そのまま静かに離れた。
「ありがとうございます、サナさん」
「お粗末様でした……上手くいきますように。——嗚呼、今凄く照れています。恥ずかしいです」
心が照れの限界を叫んでいた。絶対今の私の顔は真っ赤だ。異性接触耐性の低さを舐めたらいかんのだ。私の赤面につられて、サルヴァトル先生の頬も赤く染まっている。これでは十代の少年少女のような有様だ。うっ、心が痛い。
彼は距離が近いなか、赤い頬の余韻がある顔で嬉しそうに笑った。嬉しそうで良かったよ……。私もなんとか、ぎこちないが笑みを浮かべて返すことが出来た。
「これで明日は自分を奮い立たすことが出来ます」
「それなら、祈る甲斐があるものです」
このイベントのせいで、悩みが一時的に吹っ飛んでしまった。こういう衝撃、王国滞在最後の日にあったなあ。騎士団長のユーイン・ギスカード氏は今も元気に女の子を口説いているのかな。




