快里の心臓
快里が通う学校と病院は、比較的近いところにある。町が小さいこともあるのだが。心臓の調子が良くない快里が自転車で移動しても、それほど苦にはならないほど町は平坦だが、快里は病院に行く日はバスで通学していた。
駅前にでてから病院行きのバスに乗る。
快里の主治医は、父、本間俊克だ。毎月、少なくても1度は心臓の検診を受けなくてはならないので、3週〜4週に一度は病院まで通っていた。
『血液のかわりに、冷却した生理食塩水を流し込むことで、仮死状態になるんですって。SFみたいですよね』
小さなボリュームで、待合室のテレビが3時から始まるワイドショーを映していた。女性アナウンサーが興奮したように話している。
『仮死状態というか、博士はサスペンドって言ってますけどね』
物知り顔でコメンテーターがコメントをする。そんなテレビを待合室で、ぼーっと見ている患者さんが何人もいた。
『二十一世紀早々、このような技術が生まれてくると、興奮しちゃいますね』
快里は約束の時間よりも少し遅れて到着してしまったので、すでに自分の順番は過ぎ、他の人が診察を受けていた。自分の父親の病院といえども診察順が優先されたりすることもない。待っている方々には急病の方もいるし、わざわざ予定を付けている人も多いからだ。
残念ながら時間をつぶさないとならないな。快里はそう思って、見慣れた看護婦にすでに来ているということを告げて、ちょっと離れた待合室の椅子に腰掛けた。
携帯電話の電源をオフにする。
病院で待つことには慣れっこだ。快里は待合室に入ると、地元のおじいさん、おばあさんたちと軽く会釈した。見慣れた顔。本当のところ、快里はおじいさん、おばあさんの話につきあうのはあまり好きな方じゃないが、息子があまり病院の悪い噂を広めても仕方がないと割り切って、なるべく笑顔を振りまくよう努力していた。
もっとも。快里のクラスの友人達は、彼の笑顔がなにか企んでいそうで怖いと言うのだが……。
こういう日に限って本を持ってきていなかった。時間つぶしの本を病院の売店で買ってくれば良かったと思いつつも、めぼしい物はみんな家で父親が定期購読をしているので、買う本は何もない。
快里は数学の宿題を思い出すと、ノートをぱらぱらと開いた。勝田先生居なくなってから数学の教師がかわったのだが、今度の数学の先生は宿題が多いことで有名なのだ。授業も教科書どおりに淡々と進めていくので、特に面白いことも何もない。快里はその状況に責任を感じていたりもした。
意味がない宿題が多すぎるんだよなぁ……。いや、意味がないこともないか。
そう、思い直す。
社会では不条理なことを感じても行わなくてはならないことは山ほどある。社会のシステムが常に効率的だとは限らない。数学とはそういうことを学ぶ授業だと言うことかもしれない。なにか本末転倒を感じるが。
とはいえ、いまさら病院の待合室で宿題をやる気にはなれない。快里は幼いときには待合室で宿題をすることも多かったが、さすがに今はそれはどうかと思う。宿題をしていると、周りのおじいさん、おばあさん方に、気を遣わせてしまうからだ。
そんなことを考えてながら周りを見ていると、いつもの事務のお姉さんと目が合う。お姉さんは目で合図をして、次が快里の番であることを教えてくれた。
「どう?忙しい?」
快里は父に声を掛けながら診察室に入る。
「遅かったじゃないか。なにかあったのか」
俊克は眼鏡を外して快里を見た。
「ほら、新しい担任が来るって言ってたじゃない」
「あぁ。そうだったな。で、どうだ。調子は」
外科医の仕事と病院の経営を同時にやることはなかなか難しい。どうしても毎日が忙しいので、子供である快里と会話する機会がなかなかとれない。だから、俊克は快里の定期検診の時間をできるだけ長めに取ることにしているのだ。
「体?生活?」
「どっちもだ」
笑いながら俊克は答えた。
「体の調子はまずまずかな。特別変わった感じもしないけど……。もちろん、体をたくさん動かせばつらくなるし……休めばそうではないし……」
快里にとって、病気とは長いつきあいだ。彼が物心ついたときにはすでに心臓が悪かったから、幼いときは何度もチアノーゼになったりして、父親を心配させた。最近はそういうことはほとんど無いが、彼のぼろぼろの心臓は良く止まりそうになったし、実際、何回かは止まったりもした。そのたびに父は快里の手術をし、心停止して死にかけた息子をなんども死の淵から戻した。
俊克は『いくら父親といえども、息子の胸の中の隅々まで知っている親は少ないだろう』と言うが、全く文字通りだろう。
「いつもと同じか。じゃあ、ちょっと上着を脱いで見ろ」
俊克は快里の白く薄い胸に、聴診器を当てた。慣れてはいるが、快里はこのヒンヤリとした感覚がちょっと気持ち悪い。普通はこういうときは心臓がびくっとするそうだが、快里の心臓は、一定のリズムで何事も無いように脈打っていた。俊克は真面目な顔で聴診器で音を聞きながら、口を開いた。
「ふむ。そうだな。特に変わった様子はないな。特にノイズもない」
いつも定期的な検査をしているせいか、最近は昔ほど体調を崩すこともなくなっている。数回に一度はエコーで検査をし場合によってはMRIを使って検査をすることもあるが、最近は心筋生検をすることも減ってきたので、快里は大分、診察の時に楽になったと感じていた。そして、『特に変わった様子はないな』というのは、今日の検査はこれで終わりだから親子の団らんタイムをとろうという合図だ。
「で。学校は?」
俊克は真面目な顔から一転して笑顔になった。
「担任が替わったぐらいかな」
「またか?ふぅ。なんかしたのか?快里?」
深くため息をついて俊克が聞きかえす。
「どうだろう。僕は特別なにもしてないと思うけど。僕が何かしたって思った?」
「中学の時も校長に呼ばれたことがあるからだ。父さんはそういう話を聞くと、また快里が何かしたんじゃないかって、背筋が寒くなる感じがするよ」
「今回は多分、何もしてないと思うんだけどなあ」
何となく後ろめたいような気持ちで快里が話した。
「どうだかなぁ。いつも何もしてないっていうじゃないか。それで、新しい先生はどうなんだ?」
「あぁ。女の先生。新米らしいよ」
「新米っていったって先生だろ?どんな先生だ?」
「どんなってわかんないよ。まだ今日見たばっかりだし」
わざとなのか要領を得ない快里の回答。
「父さんは、名前とか、ぱっと見の雰囲気とか外見とか、そういうのを聞いてるんだ」
「あぁ。藤木先生、藤木依入先生っていうんだけど、細身で髪が長くて。あと……なんかあったっけかなぁ」
目を上に向けて考えた。
「藤木?依入?」
俊克の眉が鈍く動いた。
「いままでの先生とはちょっと違うかな。新任だからかもしれないけれど、なんとなく頼りがいがなさそうなかんじ。すごい美人ってわけじゃないけど、笑顔がすごく可愛い人だったな。とても年上には見えなかったけどね」
「笑顔が可愛い?笑うのが上手って感じか?」
「そうだね、そんな感じ。柔らかい笑い方をする人でね。日だまりのような暖かい感じの人だな。兄ちゃんみたいな人のお嫁さんにちょうどいいかもね。しっかりしてそうだけど、でもちょっと天然系が入ってるような気もするから、マイペースすぎる兄ちゃんとはそこはちょっとあわないかもなぁ」
「ほう」
「笑いが絶えなそうな家庭に育ってたんじゃないのかな。なんかそんな感じがする人だったよ。だけど父さんは、なんでそんなこと気にするの?」
「いやいや。特に理由はないよ。女性は笑うのがうまいと、何歳でも可愛くみえるからな」
「80歳でも?」
「しかめっ面をした80歳よりいいだろ?」
「まぁね」
「80にもなると、笑って生きてきた人とそうでない人で、顔つきがだいぶ変わるだろ?」
「そうだね……。そうそう、名前がちょっと変わってるよね。僕の名前もそれなりには変わってると思うけど。『〜いり』って下りは、あまり名前には使われないからね。案外良い名前で気に入ってるけど。父さんが付けてくれたんでしょ?この名前」
「ん、あ。あぁそうだ。快里、試験は?もうすぐなんじゃないのか?」
「父さん、試験のことを気にするなんて、今日は珍しいね。特別勉強しようとは思わないけど、別にわからない授業はないし、困ることは無いんじゃないのかな。まぁ、平均よりは上には行くでしょ、普通に」
と言いつつも、快里は一度たりとも学年1位を逃したことはないのだが。
「おまえは克之と違って、成績で困ることはないからな」
笑いながら言う。
「ところで父さんは今日は家に帰れそうなの?」
俊克は首を振った。
「残念ながら。今日は無理だな。来週の学会で発表するための資料を作らないと」
「家のパソコンでできないの?」
「細かい資料がここにしかないんだ」
「そろそろネットで見れるようにしておきなよ、また紙ばっかなんでしょう?」
「そうだな、こんど克之に頼んでおくか」
「飯は?」
「出前を頼むよ」
「そっか。外食ばっかりだとあんまり体に良くないんじゃないの?父さんがそう兄ちゃんに言ってるのを聞いたことあるよ?」
「あぁ、まぁしかたがないさ。学会が終わるまでは。快里が作るご飯を楽しみにがんばってくるよ」
「なんか調子が良いこと言ってるなぁ。今回の学会は何を発表するの?」
「あぁ。今回は別に大した発見があったわけじゃないからなぁ……」
「そか。人工心臓だっけ?父さんの研究は。ところで兄ちゃんは?」
「多分、精神科の診察室じゃないか?最近、コンピュータばっかりいじってるけどな」
「なんかおもしろいものをまた作ったのかな?」
「どうだろうなぁ。私としてはちゃんと仕事をしてるかどうかが、心配だよ」
「了解、行ってみるよ。じゃあね。またくるよ。あと、家に帰る日は電話して」
「あぁ」
俊克は快里が駆け足で出て行くのを確認すると、そっとため息をついた。