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誰かの苦しみの後に叶う願い

 白髪が少しだけある老女が消え入りそうなほどのため息をし、小柄な体格に似合わないほどの大きな湯飲みを抱えて、お茶を飲み干そうとした。

 その瞬間、玄関の戸が開いた。依入(えいり)だ。

「やった!母さん、採用だって」

 依入(えいり)は履いていたミュールを乱雑に玄関へと脱ぎ捨てて居間に飛び込んだ。目に映った母の姿はここ数年でめっきり老けていた。毎日見ている母の姿なのに、心の中の母のイメージとのギャップが大きすぎて思わず狼狽(ろうばい)しそうになる。頭ではわかっていても、なかなか今の母の姿を心の中へ刷り込みできない。老けたのはちょうど依入(えいり)が大学を卒業したぐらいの時期だから、ここ2、3年の話だ。

 母一人、娘一人。男の人はよく、定年して仕事を失うと、一気に老けることがあると聞く。同じように私を育て上げたことで、緊張の糸が切れてしまったのだろうか?

「母さん。採用されたよ。北高で臨時教師だって」

 依入(えいり)はためらったけれど、うれしそうに話した。ためらったのはもちろん、母が自分が一人前になるたびに老けるような気がしたからだ。

「一応臨時だけど担任を持つのよ。大抜擢でしょ?」

 とりあえず微笑(ほほえ)みながら言った。母、依子(よりこ)にいつも教えられ続けたことだ。女の子はいつも笑顔を絶やさぬようにしなさいと。

 依子(よりこ)依入(えいり)が言ったことを理解すると笑みをもらした。笑うと老けては見えない。実のところ、彼女は五十歳になったばかりなのだし。

「へぇ。いつから?」

 依子(よりこ)は突然、魂が入りこんだように動き出した。ほんのりとした笑みを頬と口、目尻に浮かべ、今までとうってかわって躍動(やくどう)感を感じさせる。表情の片鱗(へんりん)に、生き生きとした可愛らしさを(にじ)ませた。不思議と歳を感じさせない。

 女性はよく笑い、常に自分の可愛らしさをイメージすること。依子(よりこ)依入(えいり)が小さい時からそう言い続けてきた。それらは仕草にも笑顔にも自然とでてくる。それだけで、女性はより女性らしく振る舞えるのだという。そう言う信条らしい。

「逆にいつからこれるのか?と聞かれちゃった。なんだか担任を持ってる先生が急病で倒れたみたいで、すぐに先生が必要なんだって」

「じゃあ今は担任の先生がいないクラスがあるのね?何年生?」

「二年生。十七歳かぁ。ついこの前って感じだよ。まだ八年しかたってないよ」

 何かを探しながら聞いた。

「ね、私のお茶ある?」

「入れ替えて、もう出涸(でが)らしだから。そうね。北高だと割合近いわね。クルマで三十分ってところかしら?」

「そんなとこ。クルマで行けるのがよいところ。コーヒー屋さんにはクルマで行けなくて不便だったからね」

「あら?あなたが今行ってるコーヒー屋さんの近くじゃないの?」

「そうよ」

「あら、それは楽でいいわね。それで出勤はいつから?」

「とりあえず今のコーヒー屋さんのバイトを辞めないとならないし。さっきお店には携帯で電話したとこよ。今週末まで出勤できるけどそこで辞めても何とかなる?って。残念がられちゃった。けど、最初から言ってあったしね。週末は送別会してくれるって」

「あぁそう。それはよかったわねぇ。残念がられてもいつまでもコーヒー屋さんにいるわけにはいかないからねぇ。依入(えいり)さんは安くないのよって?」

 笑いながら話す。

「へへ。案外悪くなかったんだけどね」

 急須(きゅうす)に湯を注ぎながら話した。

「わりと性にあってたよ」


 依入(えいり)は毎日コーヒーを飲みに来てくれるお客さんのことを思い出していた。

 依入(えいり)がいたコーヒースタンドは独立系なので、大手チェーンのスターバックスやドトールのように、規律はそれほど厳しくはなかった。大抵のことは店長に前もって話しておけば、納得してもらえた。

 雇われる時の面接時に、教師の採用があるまでの繋ぎという話をしていた。素直に、ある時連絡がきたらすぐに教師の方に行ってよいですか?と、話をつけていたのだ。だから週末まででバイト終了!というような無理な相談も、受け入れてもらえたのだと思う。

 実はもともとは大手のフランチャイズだったらしい。小さな町に出店したネームバリューの高い店だったので、当初は珍しいものついでに人があつまったのだが、ある程度、固定客があつまり、駅前で人通りも多いこともあって、ネームバリューが無くてもいけるだろうと独立したのだという。店長は最初からそのつもりで、フランチャイズ時代にノウハウをひたすら吸収するべく勉強していたらしい。それでもフランチャイズを抜けた直後は常連以外の客が減って大変だったそうだ。

 依入(えいり)はコーヒーを作る方よりも接客をするほうが好きだった。基本的にはよくあるセルフサービスを基本としていたが、店長からは、「常連さんをうまく差別して囲い込むように」と言われていた。

 だから、できるだけ毎日来る人—そして大抵、毎日同じ席に座る—へは、商品をテーブルまで届けて、ついでにちょっとした会話をしたり、試食品のサービスを召し上がってもらったりもした。もちろん差別が露骨にでないようにと、たまたまそのとき店内にいたお客様にも同じようなサービスをするのは当然の話なのだが。

 そういうわけで、コーヒースタンドという形ではあったものの、依入(えいり)は案外お客さんの顔を知っていて、よく会話もしていた。中にはおもしろいお客さんもいて、来店を楽しみに待つこともあった。名前は知らなくても常連さんの顔は全部覚えている自信があったし、仕事もその会話から何となくは想像がついていた。

 そういえば高校の先生は、北高だったのかなぁ……

 お店は北高に最も近い駅のすぐそばにあったので、高校生や高校の先生もよく来てくれた。ただ、どちらかというと高校生は駅前のマクドナルドやモスに行くことが多い。こういう喫茶店の価値観は、今時の高校生にはあまりあわないのだろうが、やはり先生が時々いるということが最大のネックだったのかもしれない。

 お店では高校の先生らしき人達の会話には、よく耳を傾けていた。自分がいつかやるであろう仕事の先輩がしゃべっている話だから、参考になると思ったからだ。

 喫茶店も悪くなかったけど、先生になるのは夢だったしね。

 教育大では小学校課程を先に受講した。高校時代の担任の薦めで、小学校課程を先にやっておいたほうがよいとアドバイスをもらったからだ。理由は小学校は担任がすべての教科を教えるからだという。

 実際、専門教科の方が得意科目なので単位の修得は楽になる。大学の卒業間近に苦手科目を履修するのは骨が折れそうだ。それでも最終的には小学校、中学校、高校の1種教員資格をとったのだけれど。

 依入(えいり)は、本当なら小学生を教えたかったのだが、小学校の教師は転校が多い。できれば近い範囲の小学校に行きたいのだが、そうも言ってられないだろう。だから申請は小学校と高校の両方に出していたのだ。

「公立の臨時教員って、いつか本当の先生が戻ってきたらどうなるの?」

 母が尋ねた。

「そのあとまたバイト生活なんてことはないんでしょうね?」

 依入(えいり)は頭をかきながら苦笑いをして話す。

「ん〜わかんない」

 笑ってごまかすのは得意だ。

「臨時教師ってそのあと他の学校に優先的に入れてもらえるのかな。わかんない。でもとりあえず先のことはあとで考えることにするよ」

 依入(えいり)が公立の教師を選んだのには訳があった。私立だと会社への就職と同じようなもので、退職まで異動がないことが多い。でも、私学設立の建学(けんがく)精神(せいしん)が普通は厳格だし、高校によっては宗教教育がベースになっている高校も多い。理念というのは大いに結構だと思っているが、自分に合わないとやっぱり窮屈になるだろう。

 多分、普通の会社も似たようなものなのかもしれないが、他人にそれを説く、しかも子供に……というのはちょっと話が異なる。知らぬふりして耐えるのもやっぱり苦しそうだ。自分が多少、感情的なのはわかっているので、思ってもいないことを教えつづけるのは無理があると考えた。

 公立なら、そういったことはないし、異動もある。校風がどうしても合わなければ多少遠くなっても異動すればよいだろう。無神論者というわけでもないのだけど、信者じゃないとそこで教師をやるのも、窮屈に感じてしまうかもしれない。

 予想以上に老いの早い母親を残すのは忍びないので、あまり遠くに採用されても行くことはできないと思っていたが、願ってもない近さの高校。しかも公立だし、偏差値も高めな学校なので、依入(えいり)が苦手とする怖そうな高校生も少なそうだ。


「あぁそうそう。そのクラスの前の担任の先生、病気で療養してるんだって。少し重い病気だから当分帰ってこないみたい。だから臨時とはいっても来年からは普通の先生と同じような扱いにするって」

 依子(よりこ)は心配そうな顔つきで伺うように話す。

「大丈夫なの?いきなり担任なんて。やだやだ可哀想だわ、依入(えいり)みたいなのにいきなり担任やられる生徒とか、生徒の親とか」

 途中から笑いながらからかわれた。不満そうな顔をして依入(えいり)が反論する。

「そんなことないよぉ。先方も初めてで担任は厳しいでしょうから、学年担当の先生が可能な限りサポートするので安心してくださいって言ってたよ。まぁ多分、私が事実上の副担任になるだろうけど」

 思わず笑いながら言う。この親子は何か話してもすぐに笑顔になる。そんな家庭なのだ。

「あ、でも来年から受けもちがなくなるんだ……。お母さんもお茶飲む?」

 すでに湯飲みにお茶を注いでいる最中だ。

「おなかたぷたぷ。ずっと飲んでいたから」

 予想外の反応。

「え。もう入れちゃったよ。置いておくね。私、部屋でこれからのこと、いろいろと考えるから。ご飯の時間になったら呼んでね」

 依入(えいり)は二階に持っていくために台所でお茶を煎れていたが、突然、依子(よりこ)に呼ばれた。

依入(えいり)

 優しい母の声だ。こういうときはだいたい決まっていた。

「いらっしゃい」

 母は赤ちゃんを呼ぶときのように両手を差し出して娘をそばに寄せた。抱き寄せると自分の胸元に依入(えいり)の頭を持っていき優しく撫でた。

「良かったわね。願いが叶ったわね」

 こういう時の母は、言っていることと裏腹にどことなく寂しさを(にじ)ませる。母は私に良いことがあると必ず私を抱きかかえてくれた。高校生の時はなんとなく妙に小恥ずかしい気もしたが、やはり抱かれると落ちついた。

 それに、なんとなく母自身がこうすることで、なにかの満足感を得ているようにも見えた。なにかの贖罪(しょくざい)を晴すためなのか。多少、宗教的な考え方なのかもしれないが、そんな感じを受けることもあった。

「がんばってね。依入(えいり)

 依子(よりこ)はぎゅっと依入(えいり)を抱きしめた。そしてすっと離すと、先ほどまでの顔でにっこり笑って言い直した。

「がんばれ!依入(えいり)


 依入(えいり)は湯飲みにお茶を入れてしまったことに少し後悔していた。2階の自分の部屋に持っていくには取っ手のない湯飲みはあまりにも熱すぎるからだ。母さんが一緒に飲むと思ったから湯飲みに入れたのに。持って上がるんなら、最初からマグカップに注げば良かった。そう思いながら、そっとお茶を持ち運ぶことにした。

 机にお茶をおき、少し(もろ)くて痛んでいるけれどお気に入りの椅子に腰掛けた。椅子の足の付け根がギュっとなる。5年ぐらい前に大学の近くのフリマで買ったものだ。あのときは大学の友達のような彼氏と一緒に行っていた。

 結局、彼は別のキャンパスの研究室に行って……。自然消滅しちゃったな。

 きちんと整理されている机と清楚な香りがする花が生けてある部屋。花は毎日……というわけではないが週に一度ぐらい花屋さんで買ってくる。花屋さんは勤務先のコーヒースタンドがある商店街の一角にあるので比較的行きやすい。定期的に買ってくるのはちょっとお金がかかるような気もするが、タバコを吸う人だって定期的にタバコを買うのだ。一つの気晴らしアイテムと考えれば似たようなものだろう。花ならたばこと違って健康を害することもないし。

 依入(えいり)は母のことを考えた。最近特に老け込んでいる。なんとなしにふさぎ込んでいる気もする。昔のパターンではこういうときは決まって仕事がうまくいってないのだが、先日来た母の同僚と母との会話を(盗み)聞くと、そうも思えない。

 どこの会社も長い不景気なので多少の問題はあるのだろうけれど、少なくても母のセクションはそれなりに安定はしていたように見える。いわゆる第3セクター企業ということもあるのだろう。ただ、今は国の整理対象になっているから、いろいろと大変かもしれないのだが。

「いらないと言われたら、そのときはやめるわよ。依入(えいり)が就職したらね」

 (いさぎよ)いのか、仕事が大変なのか、よくわからないことを言ってたっけ。

 それとも、やはり私が一人前になったということで、気が抜けてしまったのだろうか。なんとなくそういう気もしないでもない。

 一度、母に気づかれないようにこっそり帰ってきたことがあったが、母は物思いに(ふけ)っていて電気もつけていなかった。まるで石にでもなってしまったかのように、おばあさんが丸く座るかのように、居間に消えてしまいそうなぐらい、すっと座っていた。依入(えいり)はそれを見るのが怖いから、門の音、扉の音などをできるだけ派手に鳴らして家に帰ってくることにしている。

 母が急いで電気を付けているのは外からでもわかる。

 でも、それには触れない。母が私に隠そうとしているのだから、知らないように振る舞う方がよいのだろう。

 子供を一人で育て上げるというのは、やはりそれだけ大変なことなのだと思う。そして母は時折、私に嬉しいイベントがあると、ああやって優しいけれど悲しさの混じる声で私を抱きしめる。

 小さいときは優しそうな母の声が好きだった。

 でも今聞くと、どういうわけか悲しそうな気持ちが裏に見え隠れして、こっちが悲しくなってしまう。どうしてなのだろう?

「気のせいかな」

 なんとなく依入(えいり)は独り言を言ってみた。

 家族が二人だと、まるで依存し合うようにお互いのことを考えてしまう。あと一人ぐらい居れば、また話は違っていたのだろうけれど。そういえば私には死産だった双子の弟がいたって言ってたっけ。生まれる前に亡くなったお父さんはしかたがないけれど、弟がいたら大分、変わっていただろう。

「双子かぁ」

 依入(えいり)は思わず呟いた。

「いたらほんとに楽しかったんだろうなぁ。3人家族だもんなぁ」

 一人っ子だった依入(えいり)は弟を想像してみた。小学生の頃からの親友の夏美の弟が、後ろにずっとついてきていたことを思い出した。彼が小学生にあがったばかりのころ、1年の教室を抜け出して、4年の教室まで「お姉ちゃん」って、よく泣きっ面で甘えに来ていたっけ……。そんな彼も今は大学生で、結構モテているらしいけれど。

「でも双子だと同じ歳なのか。同じ歳の姉弟ってどんなんだろう」

 そそっかしい自分をフォローしてくれただろうか。

 最後まで勘違いしてやってしまって、結局やってないことと同じになってしまった宿題。

 竹とんぼを作るからカッター以外のナイフを持ってきなさいと先生に言われて、果物ナイフを持っていってしまったこと。そういえば私がお母さんに、ただ、「ナイフを持っていくんだ」と言ったから、何に使うのかと思案しながらも果物ナイフ持たせてしまったらしい。

「やっぱり双子の弟がいたら、もう少しそういう勘違いが減ったのかなぁ」

 理想ばかりいろいろ考えてみたけれど、考えてみたら弟も私と同じようにスローでちょっと間が抜けていて、同じようなミスを連発したのかもしれない気がしてきた。

 お母さんも一人で私のような娘を育てて、さぞかし大変だっただろう。

 依入(えいり)は母が気になっていたが、今は来週からの学校のことを考えることにした。正直言ってまず何を用意したらいいかわからない。

 そういえば、夏美はすでに教師になっているんだった。後で電話してみようかな……。

 依入は大学時代の級友で、すでに教師になっている夏美に話を聞いてみることにした。


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