快里という少年
本間快里は教室の窓際の席に座って、ぼうっと中庭を眺めていた。喧噪や何かから解き放たれる瞬間。
この席になって以来、何十時間も眺めている。特別、変わったことはない。だけど、聞いても意味の無い授業を聞かされるぐらいなら、自分の世界に浸るほうがいい。
つまらない喧噪は消えていく。心臓の音が一定のリズムを奏でる。やがて聞こえなくなり完全に無音になる。目を緩やかに閉じると、まぶたの毛細血管から透けて見えていく。そこには深紅の世界が広がる。それが次第に赤黒く、徐々に暗くなっていく。そして、闇。
自分のカラダが傾いてるのか、浮いているか、分からなくなる。無重力。佇み、ただひたすらに考えている僕がいる。
漆黒の闇の海の中に自分が消えていく感覚……。徐々に、徐々に……
「快里くん、快里くん」
突然、耳元で話しかけられながらカラダが大きく揺らされて、現実に引きもどされた。心配そうに見つめる顔。ネイだ。
「えっと、なに?」
無表情で快里は呟くようにいった。
「またどっかに行っちゃってる……ダメだよ、もう」
ネイは幼なじみだ。なにがダメなのかは言わなかったけれど、僕がこうやって考え込むのがホントに嫌いなようだ。
「えっと……あのね、えっとね」
もう一言、ネイが話そうとしたときに話に割り込んできた。メイだ。メイはネイの双子の妹で顔はよく似ているが性格はかなりちがう。
「ねぇ快里、高木くんを助けてあげなよ。勝田先生、また調子づいてるよ。ホントやだ……」
そう言われて周りを伺ってみると、粛々と進んでいた数学の授業だったはずが、一転して騒がしくなっていた。
「快里ぃ。高木くん、宿題を忘れただけなんだよ。あんなに言われてかわいそうだよ」
と、こっそりメイが促す。メイにはいつもこうやって「お願い」される。快里にその気があろうと無かろうと、いつも巻き込まれてしまうのは、だいたいメイかネイのせいだ。
「気分が乗らないよ」
そう言いながら外を見ようとすると、腕を引っ張られた。
「気分が乗らないのは、いつものことでしょ。助けてあげなよ。勝田、また調子づくよ?」
「メイ……あいかわらず学級委員らしくないよね」
快里は、勝田と話すといつも残念な気持ちになった。生徒に対しては必ず上から目線。ナメられないようにしたいのか、見下そうという考えが言葉の片鱗から感じる。それが残念なのだ。
仕方がない……。快里はそう思いつつも、やりとりは聞いてみることにした。
「で、やってはみたのか?」
勝田が、熱く怒鳴りながら生徒を立たせて、お説教をしていた。
「がんばったんですけど……わかりませんでした」
「いつの段階でわからないと気がついた?」
「え?」
「いつの段階でわからないと思ったんだと聞いているんだ」
熱くなって、ダンと、机を叩く。
「あ。えっと、昨日の夜、宿題を広げたときに……」
「宿題の内容は先週の授業の復習だ。じゃあ先週の俺の授業が終わった時にはわかってたのか?」
「……えっと、すみません、授業中もわかりませんでした」
「お前、今、昨日の夜、宿題を広げた時だと言っただろう!嘘をつくな、嘘を!」
勝田が、丸めた教科書で机を叩きながら怒鳴りつけた。生徒が音に驚いて肩をすくめる。
いい大人があれじゃ。ホント、ただの威嚇だよなぁ……。快里はそう思いながら呆れて、勝田の話を聞いていた。
「なぜ、わからない時にすぐに聞かないんだ」
ため息が出る。この人はどうしてこんなに間抜けなんだろう。快里は口を挟んだ。
「それは理由があるからでしょう」
「本間……」
勝田は露骨に嫌な顔をした。そうだろう……こっちだって嫌だ。何回、こんなことを繰り返せば気がすむんだろう、この人は。覚えてるだけでも、似たようなことが数回あった。
「それで……先生の目的はなんでしょうか?」
快里が淡々とした口調で話した。
「目的?」
「僕には、勝田先生の目的が見えなかったので。話をはぐらかせずに、高木くんに伝えたいことを、はっきり仰ってあげてくださいよ」
「俺は高木と話してるんだ。口を挟むな」
淡々とした快里の声を遮るようにして、怒鳴り散らしながら勝田が話す。
快里は威嚇に対して、まるで反応がないかのように淡々と言葉を続けた。
「高木君と話したいだけなら、授業の後、高木君を呼んで話せば良いんじゃ無いですか?一人、立たせて、授業を中断してまで話すこと……となると、少し意味が違いますよね?なにが目的でしょう?」
「目的?俺はみんなに数学が得意になって貰いたいんだよ」
「なるほど、みんなに教えたいと」
「そ、そうだ」
快里は、わざとらしく、ゆっくり抑揚をつけずに、勝田が言った言葉をまねた。
「変ですね。先生は『なぜ、わからない時にすぐに聞かない?』……こう仰いました。これに関しては同意です。高木君、なんで授業の時に聞かなかったの?」
快里に突然話しをふられて、高木は少々びっくりしたが、答え始めた。
「え?あ……だってほら、俺、みんなほど、頭良くないからさ。わかんないところで、いちいち質問してたら、迷惑じゃないかって……」
「ネイ、授業がとまると迷惑?」
ネイも、突然話しかけられて背筋が伸びた。
「うぅん。私もわかんないとこ良くあるし、他の人が質問してくれると私も助かることあるし……」
ネイの言葉尻がだんだん小さな声になっていく。
「メイは?」
「へ?あ、全然!全然迷惑じゃ無いよ、うん」
慌てて上擦った声で答えるメイ。
「そうだよね。わかりにくいところは、大体、一緒だからね」
快里は笑顔でそう答えた後に、真顔になった。
「みんなそう思ってるんじゃないですか?」
みんなという言葉を若干、強調しながら、快里は笑顔で二人に同意を取った上で、厳しい顔をして勝田の方を見た。
「お……おう」
多数派圧力。心理学の実験にアッシュの同調圧力の実験というものがある。人は『みんな』が同意している状態に弱い。面白いことに、アッシュの同調圧力の実験では、四人の同調者がいることで、人は『みんな』と感じてしまうという。快里はあえて自分を含めて四人の意見を抽出していた。
「数学を教えるんですよね。ゴールは生徒に数学を理解して貰う?」
「もちろん、そうだ」
「そうですよねえ。もっと質問が出やすい授業にした方が良いんじゃ無いですか?先生が説明したときに、生徒がわからなそうだったら、質問を促すとかね」
勝田は無言だった。
「だから目的が重要なんですよ。それで、最初に先生が高木君を叱ったのは、見せしめ?それとも生徒に宿題は忘れないようにさせたかった?それとも?」
勝田は快里を凝視していたが、言葉がでてこない。
「高木君、宿題、開いたときにわからないって気がついたんだよね」
「あ……うん」
「教科書見た?」
「う……うん、もちろん」
「誰かに聞いた?」
「え……あ、いや……だってほら、俺、宿題、開いたのが遅かったから……」
「誰にも聞けなかったと」
「うん」
「やる気はあった?」
「も、もちろん」
「じゃあ、朝、なんで誰にも聞いてないの?」
「え……」
「先生。宿題をやらなかった生徒には、多分、こう言う問題があるのかと思います。一つ目はそもそも理解が足りない。二つ目にモチベーションが湧かずに手をつけずにいると時間が足りなくなる。三つ目にやるつもりは最初から無い。高木君はどれでしょうね?」
「ほら、やっぱり高木の問題じゃ無いか」
勝田は、得意げになって話したが、快里はそれを冷めた目で見て話した。
「そうですね。いまも先生は、問題を解決しようとしてませんよね?あなたが言ったことは、自分の責任では無いということ。生徒がなぜ宿題ができなかったか?あなたはそれに最初から興味が無い」
勝田は大きく目を見開いた。沈黙しながら言葉を探しているようだった。快里は勝田を冷淡な目で見つめながら待っていた。そして彼が言葉を見つけ、話し始める瞬間を狙って、口を挟むように悟らせるような言い方をした。
「理想はね。教え方次第でみんなが数学を勉強する楽しさを見つけてくれることでしょう。でも、それが本当の目的なら、先生がやってることは目的と合致してないんですよ。宿題をやってなかった生徒を、怒鳴って叱れば先生の目的が達成できると?本当に?」
快里は、勝田の夢を見極めつつ、彼の行動を否定した。
「俺は……」
「先生の仕事って教師ですよね?教師の仕事って、生徒を教えることですよね?違いますか?生徒は先生が思ってるとおりには、なかなか理解しませんよね?理解できないのは生徒だけのせいですか?生徒の頭が悪いからいけないんですか?」
「いや……俺はそんなことは」
「そうですよね。先生ががんばって教えても、数学に興味をもらって貰えない。理解してもらえない。数学をがんばっても理解できない人がいるように、先生だってがんばっても上手くいかないですよね。同じですよね?」
快里は再び、十分な時間をあけて、勝田の反応を待った。冷めた顔つきの快里と対照的に、興奮の後にうなだれた勝田。
「実は僕は先生が、何かをアピールしたいのかな?と思いながら見ていました。つまり、年上らしさ、もっと言うと自分の立ち場がより強い場所であるという確認。だから僕は、さっき『目的はなにか』とお伺いしたんですけれど」
「それは……」
再び言葉に詰まる勝田。
「ま。僕が、気になったのはそんなところです。あ、高木君、微分方程式もちゃんとコツを覚えれば、パズルみたいで楽しいんだよ。念のため」
快里はそのまま授業が自習にならないと良いなぁ。大切な授業時間なんだし。そう思いつつも、興味を失ったように再び中庭の方を向いた。
勝田先生がみせたような、人の内面の持つ弱さ。そして自分が本来持っている目的を忘れてしまう流されやすさ。自分の目的をはっきりと心の中に持っていれば、こんな回りくどいことをしなくて良いのに。
人の心は不思議なもので、自分の本当の目的さえ記憶から消してしまっているようにみえる。
いつの間にか、光も音も感じられなくなり、深淵と無音が支配していた。そこには自分自身の考えを形作るような光がチカチカと瞬いていた。
「快里、快里ったら!」
再びカラダが大きく揺さぶられ、ちょっと頬がヒリヒリと痛む感じで気がついた。目の焦点がきゅっとあうと、目をのぞき込んでいるメガネの瞳が見えた。メイだ。
「もう、大丈夫?授業おわったよ?」
メガネをしているものの、ネイと同じ眉の形をしながら、メイが困ったように言う。言葉遣いは全然違うが、そこにある気持ちはとても似ているようだ。
「本間くん、サンクス。マジ助かったよ」
高木が快里のところに駆け寄ってきた。拝むような手をしながら快里に礼を言う。
「俺さぁ。途中から快里がどっちの味方なのか、わからなくなってたんだけどさ、よかったよ」
「快里はいつも言い方が難しいからさぁ、最初、意味がわからなかったんだよ。難しい言葉もつかいすぎだしさあ」
快里を囲むクラスメイト。
「そんなことないと思うんだけどな」
快里が少し笑みを浮かべながら話す。
「てか、怖えーよ。快里、マジで。笑顔でそれを言うのが」
笑いながらみんなで話していた。教師には嫌われている快里も、同級生には、同性にも異性にも慕われている。
公立では地方で一番できる高校の進級クラスなので、同級生は本質的には勉強ができる生徒ばかりだ。快里はこの中で、学校に入学して以来、ずっと一番をキープしていた。地方だと私立高校もあまりない。それに定期的に通院する必要があって、快里には一番近い進学校である北高しか、実質的な選択肢がなかったのだが……。
「ねぇ快里くん、ちょっと勝田先生かわいそうだったよ」
いつの間にか近くにいたネイがぽつりと話す。
「う〜ん。ちょっとやりすぎちゃったかもよ。だって、いつもの勝田じゃなかったもん」
メイが続いた。
「ひどいなぁ、メイが助けろって言ったのに。僕はいつも通り、気になった点を指摘しただけだよ」
勝田が赴任してきて以来、こういう話し合いは数え切れないほどあった。最初は相手も興奮して言い返してきたものの、最近はあまり手応えがない。
それが何を意味しているか、なんとなくうすうす気がついていた。
あの先生も辞めちゃうかな……
快里は授業の中断を他のクラスメイトにすまないと思いつつ、みんなが「わからなかったところ」をしっかり説明した後で帰路についた。