快里という名前
その日、依入はいつもよりも早く家についた。台所に灯された明かりをみて、わざとすこし大声で玄関を開けて入っていた。
「たっだいまぁ。あ〜つかれた」
「おかえりなさい」
母、依子が答える。依入は普通に依子が答えてくれたことに安堵しながら、今日のことをまくし立てるように話しはじめた。
「もぉ、すごい疲れたよ。先生〜〜〜って感じで気合いいれてたから。すっごく疲れたぁ」
「かしこまって先生のふりしてたんでしょう?」
「うん。あんまり使わない言葉づかいしちゃったりね。スーツなんて一日着ているのも久しぶりだから。それだけでもすっごい疲れたよ」
「あんまり疲れた疲れた言ってると、もっと疲れるわよ」
「そうね。あ、お夕飯なに?」
「大和芋のサラダ」
「なにそれ」
「魚介類とワカメのサラダに山芋に梅しそをかけたのよ」
「おいしいの?」
「おいしいらしいわよ。隣の奥さんが是非是非っていうから」
「手、かゆくなんない?」
「とっても」
「ゴム手袋するとか?」
「ゴム臭くなるわよ?」
「そうよねぇ……。おなか空いた。服、着替えて、手洗ってくるね」
依入は自分の部屋に駆け上がった。
今日は母が元気だった。依入はこのことが何よりも嬉しかった。
母はここのところ体調不良だといって会社を休み続けている。依入は、母がまた石のようになって一人で佇んでないかと、ずっとびくびくしていた。
待ちに待っていた教師生活の始まり。普通ならこういう日はそれだけで頭がいっぱいになりそうだ。ひょっとしたら家族とひっそり乾杯したりして、喜びを分かち合う家もあるかもしれない。うちではそんなことはなかったけれど、なによりも母が普通でいてくれて、私を待っていてくれたことの方が嬉しかった。
友達が言うには、この年になるとそこまで親とは毎日話さないらしい。しかし、依入は毎日のようにその日あったことを母と話していた。バイト時代も、その日来たお客さんの話やら、他愛もない話を良くしたものだ。母と娘の二人きりの生活が長かったせいか、毎日のようにお互いその日の話をすることは、日課のようになっていた。
依入は着替えると、急いでリビングまで駆け下りた。急いでいかないと、話の流れが変わってしまう。今日の学校での話、学生の話など、話したいことはいくらでもあるからだ。
「17才というと、8才も年下なんだけど、正直、あんまり年下には思えなかったな」
「あなたの精神年齢が幼すぎるんじゃないの?」
「う……。否定できないよ、それ。だって私、よく言われるんだもん……」
眉を上げて、困った様子で依入は答える。依入は困った表情をするとたれ眉になる。それがまた依子に似ているのだが。
「依入はそこが可愛いのよ。がんばって先生ぶったって、そのうち地が出ちゃうわよ」
「そうよね。あんまり気張らない程度にマイペースに行こっと」
「そう。でも、あんまり生徒さんに失礼じゃない程度にはがんばりなさい」
「がむしゃらに頑張れ!って応援しないところが、お母さんらしいよね」
「そう?だってできないことはできないでしょ」
「そうだけど……。でも、みんな親には期待されまくってて大変だって。よく言ってたよ。私はそんなこと感じたこと無いよ」
「そう思わないように、お母さんが努力してるのよ」
「そうなんだ……。感謝してます」
「そ。感謝していただくなら、これからは私が楽をさせてもらわないとね」
「えぇ〜。まだまだお母さんにはがんばってもらわないと。そういえば体調はどうなの?」
「ん。悪くはないわよ。でも依入が学校に『先生として』行くようになるしね」
—先生として—ほんの少しだけ強調していう。
「もう少し、ノンビリさせて頂くことにするわ」
「そっか……」
依入としては会社に行ってもらった方が本当はありがたかった。母は会社に行ってた方が生き生きとしているからだ。
「ところで。若い男の先生とか、いた?」
「ざ〜んねん。いなかったよ。病気になった先生が、若い男の先生だったみたいだけど」
「そうなんだ。それは残念ね。でもその人がいたら、依入はまだコーヒー屋さんの店員さんだったわけだから、複雑よね」
「そうなんだけどね。でね、実はその病気になった先生って、実は良くお店に来てたお客さんだったんだって。最近来ないなって思ってたら、失踪しちゃってたみたい」
「失踪?どうしてまた?」
「失踪と言うよりも、なんか憔悴して旅に出ちゃったって。学校の生徒となんども口論になってたみたい」
「生徒さんと口論になったぐらいで憔悴はしないでしょう?大人の男性でしょ?」
「うん、その辺も、よくわからないんだけど」
「それじゃ、性格がきつい生徒さんなのかしら。よく考えてみたら、その生徒さん今の依入のクラスにいるのよね?困ったじゃない」
「う〜ん。よくわからないんだけど。女性の先生からの評価は結構良い感じなのよね。っていうか……ものすごい頭が良くて、生徒会長のような仕事もしてる、優等生なんだよ」
「へぇ。そんな子がどうして?」
「その辺が余計にわからないんだけどね。今日、実はその男の子といろいろお話してきたんだ。頭良さそうで、すっごい大人な感じだったよ」
「あら、あなたが男の子に興味持つなんてめずらしいじゃない。8才ぐらい年下なら悪くないわよ。良いわねぇ」
「そ、そんなんじゃないよ。年下だもん。そうじゃなくてね。名前が、かいりって言うんだよ」
「かい……り?」
「そうなの。私の名前も結構珍しい方だと思ってたから。それに似てるなんて奇遇だなって。17才とは思えないぐらい落ち着いててね。すっごく頭がいいんだって。心臓が悪いから運動できないって言ってたけど、結構先生泣かせで、下手な話をすると丸め込まれちゃうことが多くて、大変なんだって……。あれ、お母さん聞いてる?」
一息でしゃべった依入が気がつくと、母は目を見開いて青い顔をしていた。
「あ、ああ。ごめん……。名前、なんて言ったっけ?」
「かいり君よ。快晴の快に里。本間総合病院の院長の息子さんみたい」
「快晴の快に里?本間先生の息子さん?」
「そういってたよ。ねぇ。お母さん、どうしたの?調子悪いの?」
「ごめん、なんか……ちょっと、気持ちが悪くなっちゃった」
「大丈夫?ねぇお母さん」
「だ……大丈夫よ。お片づけお願い。先に休んでるわ」
「本当に大丈夫?どこか痛いの?気持ち悪いとか?」
「そんなんじゃないのよ。ちょっと一人にさせて」
依入は依子の部屋まで母を送った。
調子が悪くなったのなら仕方がない。でも、一人で『特別な日』の食事をとらないといけないことに少し不満を持ちつつ、テレビをつけて残された食事を食べた。
一人で食べる食事は何となく冷めた気がした。




