2-4
テストは確かに大変だ。
半期分の内容、1時間30分×14回の内容を1度に問われるのだから、その分だけ勉強をしなければならない。
私はこまめに復習をしているのでまだマシなのかもしれない。本当にテストに辟易しているのは普段は勉強していなくて、授業にすらまともに出ていなくて、ギリギリになってから勉強を始める人たちだろうが、それは自業自得だ。
たいていの人にとって、テストが大変なのは言うまでもない。
しかし私のおかれている状況はそれよりももっと大変かもしれない。
これもある意味テストではあるが点数が出るわけではない。この場が最終のものではなく、いわば中間テストのようなものだ。悪くても完全にもうダメだというわけではないが、ここでの評価が最終評価につながっていくもの。自分のできなさを確認するためのもの。
7月も半ばに差し掛かり、いよいよ夏が到来するという頃、富士川教授によって研究計画書の添削が行われていた。
院試が免除ではあるものの、その分、研究計画書の内容や卒研の進度が求められてしまう。
特に研究計画書は提出前にあらかじめ添削してもらったほうが良いとアドバイスをいただいたので、私から教授に頼んだのだ。頼みに行くと2つ返事で引き受けてくれて、そのまま研究室で添削が始まってしまった。それも部屋に2人きりという環境ではなく角さんと由美佳ちゃんが研究室にいる状態でだ。
「ここはもっと具体的に書いたほうが良い。まだ、卒研の進度的に具体的に書ける段階まで到達していないならしかたないけど、篠田君の進度なら書けるはずじゃないかな。」
「具体的に書いてしまうと来年以降修正をする必要が出てきた時に難しくなるかなって思いまして。」
「やれるものをやらないのは逃げでしかないよ。それに修正については今の段階で考える必要はないよ。今の段階で求められているのは目標をしっかりと立てていて、それを実行できるだけの計画があるかどうかでしかないんだから。学部生レベルの計画書に完璧なんて求めてしまったら誰も進学できなくなってしまうじゃないか。」
もしかしたら、由美佳ちゃんに計画書の例を見せるというのもあるかもしれないが、私の書いた内容に教授から思いのほか鋭い突っ込みが入る姿を晒されているというのは辛い。
これがテストだったら、自分の書いた回答が晒し者にされることはないだろう。テスト程度が辛いという人たちにこれを味わってみてほしい。院試を受ける人は遅かれ早かれ味わうことになるのかもしれないが、事前情報なしで挑むのはなかなかしんどい。
「今日の所、直すべき点はこれくらいかな。それの提出はいつなの?」
「7月の末までです。」
「なら、来週中に手直ししてまた見せにくること。」
「わかりました。」
議論や展望についての話を混ぜながら30分ほど続いた添削は課題を出されて終わった。他の学生の院試の日程が8月20日であることを考えると私に課されている期限は早すぎる気もしなくはないが、それなりの待遇を受けている以上文句は言えない。
「大変だね。院試がないからって楽ってわけじゃないんだね。」
由美佳ちゃんから言われるほど大変そうな表情をしていたのだろうか。
「まあ、それでも普通に受けるよりは楽だろうから良いんだけどね。なんだろうね。免除ってだけあって妙な期待というか、このまま研究者としてやっていくことを前提にして話されることが多いから、そこはしんどいかな。」
「てっきり、博士課程まで行くと思ってたけど違うの?」
「元々は院には行かないつもりで、早く家にお金入れられるようになりたいなって思ってたからさ。まだ、下に弟もいるから贅沢は言ってられないかなって思ってたんだ。お金のかかる人生を歩んでこさせてもらった分の恩返しをしたいなって。元々は学部卒で就職するつもりだったけど、親や周りが進めてくれたから修士くらいは行っておいた方が将来的にお得かなって。」
「りーちゃんって本当に良い子だよね。私なんか親に無理言って、奨学金も借りて進学する身だからさ。なんて悪い子なんだろうって思っちゃうよ。」
由美佳ちゃんは困ったように笑う。
私も少し苦笑いをしているかもしれない。
「いや、ちゃんとやりたいことがあって、そのために頑張るっていうならむしろ由美佳ちゃんの方が良い人なんじゃないかな。そういう人の方がきっと最終的には成功するんだしさ。」
「やりたいことはいっぱいあるけど、ありすぎるくらいあるけど、そのために頑張ってもいるけど、できるのかなって不安でいっぱいだよ。特に優秀な成績も取ってこなかったから、今からでも間に合うのかなと考てしまうんだよね。」
言葉とは反対に嬉しそうに笑う。楽しみがあるかのように笑う。
眩しい。
外から差し込む日差しではなく、その前向きさが、やりたいことに進んでいることが、その充実感が私には眩しい。自分のやりたいこと決めたことを一度も実現できていない私には由美佳ちゃんの真っ直ぐな姿勢が羨ましいのだ。
親に恩返しをしたいとか、せめてお金のかからない方へなどと言うだけ言って、結局何もできていない私。口にすることは誰にだってできる。それを「良い子」だというのは由美佳ちゃんが良い人だからだ。
「やりたいことか。さすがにそろそろ考えないといけないような年齢だよね。その場の雰囲気とか、流れとか、周りの期待とかで決めてしまうのは終わりにしないとね。」
話の流れからずれてしまっていることはわかっているが、私はこの話を口にしないといけないような気がするんだ。
そんなことを急に言われた由美佳ちゃんは答えを迷っているような沈黙を作る。
そこに助け舟がきた。
「難しいよね。なんで、この21歳やそこらで人生を大きく左右するような選択しないといけないんだろうね。それが初めて自己責任でする大きな選択だなんてつらいだけだよね。私も研究者なんて職業を選んだのは4回生になる少し前だったけど、大きな選択だったよ。まだ、女性の研究者、それも理系なんていうのは珍しかった時代だったし、周りからも反対されたからね。」
この研究室で一番の年長者からの言葉。
教授が自分のことは話すのは初めて聞くかもしれない。
「親からはやりたいなら、公務員にでもなって実際に街を作ることに携わるとかにしたらどうかとか、女の子なんだからわざわざそういう道を選ばなくてもさんざん言われたけどさ。でも、やっぱりこの道を選んだことは間違いじゃなかったと思うからさ。あの時は君たちみたいに『本当にやりたいのかな』なんて迷ってたけどさ、今考えたら簡単なことなんだよ。」
微笑んで、コーヒーを1杯飲む。
次の言葉が来るのを静かに待つ。
いつの間にか角さんもこちらの方を向いていた。
「そんなに見られると恥ずかしいね。大したことを言うわけじゃないし、どちらかというと当たり前のことしか言わないよ。何がやりたいかわからないっていう人は多いけどさ、私にも君たちにもやりたくないことは必ずあるはずじゃない。それをまずは消していってさ、残ったものがやりたいこと。ただそれだけなんだよ。自分が思い浮かべることのできるものって限られているからさ、やりたいこと、やりたくないことを探すのにはいろんな人と話してみるといいよ。その人のやっていることが自分はやってみたいか、やりたくないか、それだけの基準で選んだらいいんだよ。現実性とか適正とかってのはその後から考えたらいいんだからさ。」
言われてみればそれは当たり前のことだ。
でも、自分でやることは難しい。
「私から補足しておくと。」
角さんが口を開く。
「選ぶのは『自分が今やりたいこと』ってのも大切なんだけど、これならやり続けられるなとか、楽しめそうだなって感じていることが大切だよ。まあ、人によっては嫌いだからこそ、あえてそれに取り組み続けられるなんてこともあるみただし、文系の研究者だと、好きなことには盲目的になりがちだかってあえて嫌いな人物とか考えの合わない人や事柄について研究する人もいるみたいだから人それぞれじゃないの。」
最後に「なんてね」と付け加えて締めくくられる。
「私も角君も言いたいことは同じで難しく考えすぎるなってことだよ。まあ、2人とも考えすぎるタイプだろうからもっと軽くても良いと思うよ。やりたいからやるくらいの軽さが社会で生きていくために大切だからさ。」
ふふっと笑う教授。
なんとも不思議な人だ。みんなの言葉を借りれば変人だ。
「院試終わったら軽く考えてみて。考えた結果は私に教えて。2人への課題という事で。」
課題が増えた。
この夏、私には考えることが多くあるようだ。
始まったばかりの長く短い夏が終わる前に。
いや、その前にテストだ。
優先順位は決めた。
夏が始まる。