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夏が嫌いだ。
独特のじめじめとした感じが嫌だとか、暑いから嫌だとかそういうわけではない。
浮かれた感じが嫌なのだ。
誰がとかじゃなくて、夏という季節それ自身が浮足立っている。
開放的な季節だとかいう人もいるけど、実際に開放的になってるのは服装と財布だけだ。私にはあんなちょっと角度変えたら見えそうな服を着る女の子の気持ちはわからない。そして、それに高いお金を出す気にもなれやしない。
街や大学で見かけるたびによく恥ずかしげもなく肌を露出できるものだと感心する。服の面積より肌の面積の方が大きくなるあたりから理解に苦しむ。
いや、それを自分だけで楽しんでいるのならいい。他人に勧めてくるようになると本当にわからない。
服屋の店員だ。
なにが「スタイル良いんですからもっと見せていくのも良いと思いますよ。」だ。ロングのスカートを手に取ってる人間にかける言葉を間違えている。
それにスタイルが良いって何なの。胸がないことを馬鹿にしているだけだろうか。「和服が良く似合いそうですね。」とか、ただ単に胸がなくておしりも小さいって言いたいだけだ。それに私たちが日本人だからと言っても普段着ているのは洋服なのだ。和服が似合っても恩恵は少ない。
私だってそんなこと知ってる。
そりゃ、好きでこの薄い体でいるわけじゃないし、別に誰のためとかじゃないけど、胸が大きいことへの憧れはある。そこへ、ああだこうだと言われると「胸がないから露出するしかないですね。」みたいに言われたような気がして嫌になる。一度ではない。二度でもない。
肌を出すのがそんなに偉いのか、胸が大きいのがそんなに素晴らしいのか。
…脱線。
なんでこんなことを考えているんだろうか。
あぁ、そうだ。夏のせいだ。
7月だというのに容赦なく降り注ぐ強い日差しが私の頭を惚けさせ、去年より早く鳴き始めた鬱陶しい蝉の声が私の思考を嫌な方向へと導いていく。これがアブラゼミではなくヒグラシくらいなら、まだ良い思考ができていたのかもしれない。
前言を撤回しよう、夏の暑さも嫌いだ。
こんな暑さの中、テストなりレポートなりをこなさなければならないというのが本当に嫌だ。院生になったら、そんなものから解放されるのだろうか。来年からは冷房の効いた研究室で専攻の研究をして、たまに授業に出ていくというくらいで済むのだろうか。
いや、この大学ではそんなこと期待できそうにない。
もう、夏が始まったと言っていいくらいなのに、この研究室は本日、エアコンのスイッチを入れておらず、扇風機2台だけが涼しさを運んでくれている。
私立なのにそこら辺をケチらないでほしいとは思うが、学校側がスイッチを入れるための鍵を教授にしか渡していない。そして、今日に限って富士川教授はそれを持ったまま講義に行ってしまったのだ。
BGMは蝉の声、合いの手は強で回した扇風機が時折、机の上の紙束を鳴らす音。
こんな状況で何ができるというのだろうか。
この時間の講義が終わり、教授が戻ってくるまでのおよそ1時間を有効に使える気がしてこない。
全部夏のせいだ。
「夏滅びないかな。」
「篠田さん、えらい物騒なこと言うね。」
思わず声に出してしまったありきたりな願いを安川さんに聞かれてしまい、苦笑交じりの反応が返ってくる。
「私の言い方が少し乱雑になってしまっただけで、きっと誰もが一度は思う事ですって。富士川教授とかも心の中ではそう思ってますって。」
「どうだろうね。教授は割と寒がりな印象だから、夏の方が案外好きだったりするんじゃないかな。」
「夏が好きな人なんているんですか?」
「まあ、いるにはいるんじゃないかな。海で泳いだり、花火を見に行ったり、川辺でキャンプしたりするのが好きな人とかは一定数いるだろうし、そう言う人たちは夏好きでしょ。特に大学生なんてそういうのが好きってのが世間一般のイメージなんじゃないの。」
「偏見ですよね。大学生だからディズニーに行くとか、海に行くとか、海外に行くとか、そうやって遊べるのって、下の方の大学の理系か文系だけですよね。」
「山岸君、それこそ偏見ってやつだよ。」
会話に突っ込んできた山岸が安川さんに一蹴される。いつもの流れである。
山岸も悪いやつではないのだが、少し相手を見下す傾向にあり、たびたびこうやって注意を受けている。少し調子の乗った大学生なだけである。ちなみに、彼は内部進学でやってきているが、それをあまり言いたがらない。偏見だ。
研究室に今いるのはこの3人だけである。そして、この2人が他に比べて女性の多いこの研究室で2人だけの男性である。
「話変わるんですけど、安川さんと山岸は来週の学会行きますか?」
「僕は当然行くよ。今回は発表しないとはいえ、大学院生で自分のやってる分野の学会行かないなんてのは論外だしさ。学術的な意味だけでなくて学会に行けばその分野の人と会って挨拶もできるから人脈作りにもなるしね。」
「そういうコネみたいなものってやっぱり作らないといけないんですね。」
「一応、僕とか末永さんとか角さんとかみたいに博士課程に進もうと思ってる人には大切なことかな。この世界も割と古いところあるからさ。しっかりと挨拶する人にはしておかないと生き残れないし。何より、大学院出た後に拾ってくれる先を探さないと食べていけないからね。」
ため息混じりに話す安川さん。いくら有名な教授の下にいるからと言ってそれで安泰というわけではないとは聞くが、学者がまるでサラリーマンのような人脈作りをするというのは妙な話だ。
この世界はあくまでも権威主義で学歴社会だと一回生の頃にある教授が言っていたのはそういうことなのだろう。
「それで山岸は?」
「僕も行きたいんですけど、その日に語学の試験入ってるんで無理なんですよね。」
「あぁ、それはそっちの方が優先だね。落としたら卒業できないしね。」
「富士川教授にも許可取ってるんで、試験の方に行きますよ。正直に話したら許してくれましたし。少し怒られましたけど。」
「怒られたのか。それは残念だったね。」
「いやいや、再履になる山岸が悪いんですよ。語学なんて2回生で終ってるのが普通でしょ。」
「まあ、そうなんだけど。ノリでロシア語選んだことをものすごく後悔してる。」
外国語学部を持っていることもあってこの大学の第二外国語の授業は種類が豊富であるが、この山岸のように少し変わった言語を選んで苦労する人も多い。
特に、ロシア語とスペイン語は難易度の高さで有名だ。内部進学組で十分な前情報があったはずの彼がこのような状態になっているのは少し面白いところでもあり、こいつらしいところでもある。
「でも、語学の再履してるくらいなのに、よくこのゼミに入れたね。」
「いや、語学以外は得意なんですって。文系科目はダメです。」
山岸が言うとただの自信過剰のようにも聞こえるが、成績順で決まるゼミに受かっているという事は本当なのだろう。
「篠田さんはなんでそんなこと聞いたの。もしかして行けないの?」
「いや、絶対に行けないってわけじゃないですけど、まだ微妙なんで皆さんどうなのかなって思いまして。教授からはできるだけ来てほしいって言われましたし。」
「まあ、まだ学部生だし無理してまで来いとは教授も言わないと思うよ。本当は4回生だからこそ来年のためにも来た方が良いけど、外せない用事があるなら仕方ないよ。それとも、何か見たい発表でもあるの?」
「特にこれと言って見たいとかではないんですけど、来年から私もそういう場に立たないといけないかもしれないなら、早めに見学しておきたいなって思ってたんで。でも、全く行ったことないってわけではないですが。」
一応、年に1回は学会の聴講に行かされてはいたが、その時はまだ院に進学する気もさほどなかったので、ほとんど聞き流してしまっていた。あまり専門の授業をやっていなかった頃で聞いていても内容は入ってこなかったため、提出しなければならない見学レポートに書くのに十分なだけ聞いて諦めた。
前に末永先輩にそんな話をしたら、笑って「私もそんな感じだった。」などと言っていたので失敗だとは思っていない。
「一応、特に外せない用事がなければ参加することってなってるから、他の4回生には『休んでもいい』みたいな話を流さないでね。」
苦笑いをする安川さん。
私たちと話しながらもきちんとパソコンで作業を進めているようなのが真面目だ。
よく見ると山岸も何かしらの作業を進めているようだった。
「あれ、喋ってるだけなの私だけじゃないですか?」
よくもみんなこんな暑さの中で頭を使えるものだ。
「そうだね。みんなやらないといけないことがあるだろうから、今から教授が戻ってくるまで話さずに集中してやろうか。」
安川さんがそう切り出したので、これでお話は終了。
私も仕方なく机の方に向きなおる。
さっきから話している間もずっと、蝉が鳴いているものだから目の前のレポートは一切進んでいない。これが生理前ならイライラしすぎて大変だっただろう。
話を止めて集中して書こうにもこの前やった実験の内容が思い出しづらいくらいにぼーっとしている。
本当に夏は嫌いだ。
窓の外を見る。
工学部棟の中庭にある木々の青々とした葉が、少し東に傾いている太陽から射す日差しが、季節を強く感じさせる。
こんな季節が一日でも早く過ぎ去ってくれることを願うばかりである。