しろくまのしま
そこは島だった。
中央に一本の椰子の木が生えていて、真っ白いクマが住んでいる。
クマは若かくて、丸く太っていた。そしてずっとひとりだった。
クマは海岸沿いを歩いた。目的は特に無く、歩くために歩いた。海上からの穏やかな風に柔らかい体毛を撫でられながら、太陽が水平線に沈むまで、何周も島をまわった。途中、疲れると椰子の木陰で休んだり、波打ち際で戯れたりした。空が明るくなると目覚め、暗くなると眠った。
クマは歩いていた。そして、一匹の空を飛ぶ金魚と出逢った。
金魚はクマに話しかけた。
「こんにちはクマさん」
金魚はクマの目の前に浮かんでいた。ひらひらとひれを動かしている。
クマは生まれて初めてその空に浮かぶものを見た。
クマは首をかしげた。不思議そうに金魚を見つめる。
金魚は声を出して笑った。
「あなたのことよ、クマさん。あなた以外に、誰もいないじゃない」
「あなた、くま?」
クマは空に浮かぶものを捕まえようと手を伸ばす。
金魚はくるりと宙返りをして、クマの手をよけた。
クマは金魚の動きに驚いて、少し後ずさった。
「名前よ、あなたはクマ、わたしは金魚」
「なまえ……」
「そう、名前。あなたはクマ」
「ぼく、くま」
「そう、クマさん。わたしは金魚。はじめまして、クマさん」
「はじめました、きんぎょ」
金魚はまた声を出して笑った。
金魚が笑うとクマは楽しい気持ちになった。
それはクマにとって初めての感情だった。
「あなたは何をしているの?」
金魚はクマに尋ねた。
僕は何をしているんだろうとクマは考えた。
「ぼくは、あるいているよ。いつも、あるいている」
「どこかに行くの?」
「どこか? どこかって? ぼくは、あるいているんだよ」
金魚は微笑んだ。
「きんぎょ、きみはなにを、しているの?」
クマは尋ねた。
「空をとんでいるのよ」
「そら?」
金魚はもう一度宙返りをした。
クマは口をぽかんと開けて、金魚の動きを見た。
「私は旅をしているの。いろいろな国に行くのよ」
「たび?」
「そう、いろいろな国に行って、いろいろなものを見て、いろいろな人に会うの」
「いろいろ?」
クマは金魚の言うことをあまり理解できなかった。
「あなたは何も知らないのね」
金魚は言った。でも、それはきっとしょうがないことなのだと金魚は思った。ここは周りを海に囲まれた小さな島で、この白色のクマの他には誰もいないことを金魚は知っていた。
「クマさん、わたしがお話してあげる。いろいろな国のいろいろな人のこと」
ふたりは島の真ん中にある椰子の木陰に行った。クマは木に寄りかかって座った。金魚はクマの頭の上にのった。
金魚はクマに分かるように、やさしい言葉でゆっくりと話をした。それでもクマには分からない言葉がたくさんあって、金魚に何度も質問した。金魚はその度に丁寧に説明した。クマは金魚から、いろいろな国の、いろいろな話を聞いた。
金魚は話しながらよく笑った。クマも楽しくて笑った。
島に笑い声がするのは初めてのことだった。
金魚は何日も、クマに話を聞かせてあげた。
クマは話の合間に歌を歌った。今まで歌ったことなどなかったので、全くでたらめな言葉と調子だったが、それはクマの胸の奥から自然と溢れ出してくるのだった。
「あなたの歌、好きよ」
金魚は言った。
クマは金魚の宙返りが好きだった。クマが腕を回すと、金魚は宙返りをした。
クマは楽しくなって腕をぐるぐると回し、金魚は宙返りをし過ぎて目を回してしまった。
ふたりは毎日、声を出して笑った。
クマは金魚からたくさんのことを教わった。ものにはなまえというものがある事を知った。いろのなまえも教わった。
クマの上に広がるあおいのはそらという名前で、そこに浮かぶしろいのはくもという名前だということを知った。
クマがいるところはしまで、しまのまわりを囲んでいるのはうみ。
うみの向こうにはたくさんのくにがあって、くににはたくさんのひとがいる。
みず、ちょう、からす、ねこ、ゆめ、かぜ、たいよう、つき、あめ。クマは世界がなまえであふれていることを知った。
クマは金魚の話から世界をそうぞうした。クマのそうぞうはきらきらと輝いていた。
「そろそろ行かなくちゃいけないの」
ある日、金魚は言った。
「いくの? きんぎょ」
クマは自分の前に浮かぶ金魚に言った。
「ええ。行かなければいけないところがあるの」
「あるの?」
「楽しかったわ、クマさん」
「たのしい、きんぎょ」
「あなたの歌、好きよ」
「くまも、すき」
クマは金魚が行ってしまうことを理解していなかった。
クマはでたらめな歌を歌いだした。
金魚は微笑んだ。金魚の目から大きな涙が地面に落ちた。
「なみだ?」
「ごめんなさい、どうしてお別れはいつも哀しいのかしら」
「なかない、きんぎょ」
「うん、大丈夫。クマさん、元気でね」
「くま、げんき」
「またいつか会いましょう」
「あいましょう」
「さようなら」
金魚はクマの鼻に口づけをした。
「さようなら、きんぎょ」
金魚はクマから離れていった。
クマは金魚をずっと見ていた。また宙返りを見せてくれるのだと思った。クマは金魚に向かって腕をくるりと回した。しかし金魚は宙返りしなかった。金魚はどんどん小さくなって、青い空に消えた。
クマは金魚を待った。空をずっと見続けた。
しかしどんなに待っても、金魚は戻って来なかった。
「きんぎょ」
クマは言った。
「きんぎょ」
呼んでも応える者はいない。
「きんぎょきんぎょきんぎょきんぎょ」
クマは何度も金魚を呼んだ。返事を待ったが、小さな波の音しか聞こえなかった。
暫くして、クマの体は今までにない感覚に襲われた。まるで体の毛を全部剥ぎ取られてしまったかのようだった。その感覚で、クマは金魚が戻って来ないこと理解した。それは、自分がひとりであるということを理解することだった。
ひとりという感覚はクマにとって初めてのものだった。金魚と出逢うまでは、ひとりではなかった。空も島も海も、クマと一体のものだった。
クマは自分はとてもちっぽけな存在であるらしいことが、なんとなく分かった。まわりの空気が急によそよそしく感じられた。
金魚は自分以外のどこかに行ってしまった。クマは金魚と出逢って、ひとりになった。
クマは空に向かって吠えた。声は空に消える。
クマの目から涙があふれた。涙は地面に落ちた。
夕暮れが訪れた。優しい光のこの時間も、今までとは違ったものに感じられた。夕暮れの後には闇がやってくる。
いやだ、クマは思った。あんなくらいところにひとりでいるなんていやだ。
クマは落ち着かなくて島を行ったり来たりした。金魚が帰って来てはくれないかと何度も空を見上げた。
空は刻々と暗さを増していく。それに抵抗するようにクマは空に向かって吠えた。その声も空しく、あっという間に闇はクマを包んだ。
空には星も月も出ていなかった。何も見えない。クマは吠え続けた。吠えるのをやめたら、きっと闇に体を奪われるとクマは考えた。自分の声で世界を埋め尽くしてしまいたかった。他のどんな音も聞きたくない。他の何にも触れたくない。クマは力の限りに吠え続けた。クマにできるのはそれだけだった。
クマは朝日で目が覚めた。夕べはいつの間にか吠え疲れて眠ってしまったのだ。
目を開けて、クマは飛び上がった。黒い物体が目の前にあった。クマはそれが一体なんなのか分からなかった。闇だとクマは思った。夜の闇がまだ残っていたのだ。腕でそれを振り払おうとした。するとその闇は激しく動き出した。クマの目の前で闇が動き回る。
クマは恐ろしくなってその場から離れようとした。クマは走った。闇は腕に張り付いてきた。振り払おうと島を必死で走りまわり、最後に疲れ果てて椰子の木の下に倒れた。腕の闇は張り付いたままだ。そればかりか足にまで張り付いているのを見つけて、クマは絶望的な気分になった。
椰子の木のすぐそばには、たまりが出来ていた。クマとの別れ際の金魚の涙と、昨日から流れ続けるクマの涙が混ざり合ったたまりだった。
クマはたまりを覗き込んだ。
両目と両耳に闇が張り付いる、クマの顔が映った。