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保健室の恋人  作者: 実月アヤ
第一部 ep.1 桜の下で
8/75

決着

 谷村貴史は両親、兄も全員が名門校の教師をしている家に生まれた。

 窮屈な反面、親の敷いたレールから飛び出す気概も無く、なぞるようにそのまま教師を目指して。けれど就職活動は最初上手くいかず、家族には落ちこぼれ扱いを受けた。運良く名門、私立泉学園の採用試験にひっかかるまでは。


 そしてそこで、桜に出逢った。

 水樹桜はあらゆる意味で特別だった。その容姿は高校生と思えないほどに色めいて美しく、成績も上位。明るい性格で友人も多い。可笑しい話だが、大人の自分が子供の彼女に憧れを持った。

 彼女のことを最初から生徒として見られない自分に気付いていた。一時は悩んだものの、自分に接する桜からも同様の——もしかしたらそれ以上の好意を向けられて。教師と生徒の境界を越えてしまうのはすぐだった。

 しかし特殊な生徒の多い私立校で誘惑は多く、皆本麻里という生徒が谷村に目を付け、囁いた。元々人気のある桜を妬んでいた彼女は、最も効果的な打撃を与えたのだ。


「私と付き合ってよ、先生。私と結婚すれば、この学校は将来あなたのものになるのよ」


 麻里の父親は理事の一人でしかない。この学校の理事長をどうするつもりなのか。谷村はその恐るべき計画を聞かされ——誘惑に乗ってしまった。

 自分を落ちこぼれ扱いした家族を見返せる。超がつく名門校の経営者、この先は華やかな将来を約束される。


 あれほど焦がれた桜を、見捨てた瞬間だった。



 放課後、谷村は高嶋遥に呼び出され、特別教室の一つにやって来た。


 担任である谷村は、遥が水樹桜の妹である事実を事前に知らされていた。

 彼女が転入してきてからというもの、何時この日がくるかと内心怯えていたのだ。妹である彼女は、桜から真実を聴いているのではないか。彼女の姉にしたことを誰かにバラすつもりなのではないか。


 けれど彼女は真実を知らない様で、しかし谷村にとって都合の悪いことに、それを調べ始めた。このために編入したのかと舌打ちしたくなった。水樹桜にしたことを遥に知られたら、きっと彼女は自分を断罪するに違いない。

 一度は、焦りや苛立ちで遥を三年のガラの悪い生徒に襲わせた。

 彼にその方法を教えた麻里は、随分前から彼らの溜まり場に女生徒を放り込むかわりに、色々と悪どいことをやってもらっていたらしい。普通とは違う、何をしても金と権力で守られた麻里と一緒にいて、谷村も道徳観が麻痺していたのかもしれない。しかし遥はそれを逃れた。次第に谷村は怖くなった。

 どうやら彼の同僚、冴木玲一が彼女の手助けをしているらしい。

 谷村は冴木も気に入らなかった。谷村以上に生徒に人気があるくせに、一線をひいて生徒との距離を上手く保っている。だけども彼の人気は失われることはない。

 そして何より、桜が死ぬ直前まで親しくしていたという噂……。桜が頻繁に保健室に出入りしていたのは確かだ。冴木はどこまで知っているのか?

 彼は遥同様、谷村には脅威だった。

 

 もう他の生徒も、なぜか教師も、今日は殆ど帰ってしまった。テスト前のこの時期は、部活動は休みになる。だから生徒がさっさと居なくなるのは分かるが、いつもなら数人の教師が残業をしているというのに。

 夕方の教室は薄暗く、中に入ると幽霊でも出そうな雰囲気だ。

「バカな」と振り返った谷村は凍りつく。



 ——そこに、桜がいた。


 

 教室の扉を背に立つ、美しい少女。

 色素の薄い、茶色のふわりと波打つ長い髪に、白い肌。儚げな細い線を描く手足。俯きがちの顔の口元に、柔らかな笑みが上る。


「さ、くら……っ」


 谷村はヒッ、とひきつるような声をあげた。ゆっくり、彼へ近づこうとする彼女から逃れ、後ずさる。


「やめろ、来るな……!」


 罪悪感からか、彼女が自分を恨んで出たのだと思わずにはいられなかった。桜が生きていた時には愛おしいばかりだったその微笑みが、今や恐怖の対象でしかない。


「悪かった……!お前が自殺するなんて思わなかったんだ!しょうがないだろ、お前が別れたくないなんて、あれをバラすなんて言うから」


 ゆらり、と桜が立ち止まる。薄暗く色の沈みつつある教室では、彼女の表情もよく見えない。


「だから私を襲わせたの……?」


 谷村は悲鳴混じりの声で答えた。


「どうしても麻里には逆らえなかったんだ!あいつがヤツらに何とかしてもらえるって……!」


 桜はぎゅっと手を握り締め、顔を上げた。谷村はハッと気づく。


「桜……じゃない、高嶋か!」


 その顔をよくよく見れば、桜などではない。その妹——高嶋遥だ。


「そうです。谷村先生」


 さすがに姉妹だけあって髪型を似せて、少し大人っぽい——化粧だろうか——顔をすれば、遥は桜にそっくりだった。この薄暗さと、遠目なら勘違いするのも無理はない程に。冴木の友人という、プロのメイクアップアーティストにセットされたのだが、遥自身も驚いたのだ。

 ——鏡の前で、泣いてしまうくらいには。


「どういうことだ……」


 谷村の問いに遥は答えず、教室の戸を振り返る。それを開けて冴木が入ってきた。


「冴木……?」


 彼は遥のそばまで来て、教室の角にあるロッカーを指差す。その上にはビデオカメラがあった。録画中のランプが点き、コードは教室の外まで続いている。彼は手元に携帯電話も持っていて、それも通話中になっていた。


「一部始終、理事長室に中継中。警察の人間にも見て貰ってる。お前が皆本麻里の父親と、他の理事に色々賄賂だの恐喝だのをした証拠と一緒にな」


 黙っていた遥が首を傾げる。

「どういうこと?」


「皆本理事は反理事長派ってやつで。谷村は皆本に荷担して理事の仲間入りをして、反理事長派の狸共とこの学校を乗っ取ろうとしてたんだよなー。まあ皆本理事は学校の金を随分派手にばらまいてくれちゃったから、警察沙汰は免れられないんじゃない?」


 冴木は嫌そうに説明してみせる。


「そこは難し~い大人の事情だから、お前は知らなくていいよ。もともと俺はそれを調べるためにこの学校に赴任させられたんだ。理事長とは昔から知り合いでね。……水樹があんなことになるとは思わなかったけど」


 桜を捨てた裏側に、学園乗っ取りなんて企みがあったなんて。思ったより話が大きかったことに遥は驚いて口元を押さえた。


「とにかく絶対言い逃れさせないように、ありとあらゆる余罪を追求しといた方がいいと思ってな。様子見し過ぎたのが失敗だった」


 冴木の言葉に谷村はぶるぶると身を震わせ、目を見開いた。


「よくも……」

「そんなことのために……そんなものを手に入れるためだけに、桜を死なせたの!?」


 谷村の言葉を遮って、遥が噛みつくように叫んだ。


「桜は、先生のことが好きだったのに——!」

「うるさい!!」


 完全に逆上した谷村が手近にあった椅子を掴み——遥へと振り上げる!


「きゃあっ!」

「遥!!」


 とっさに冴木が遥を胸に庇い、彼の頭に椅子が直撃した。


 “——ガツンッ!!”

「っ……」


 殴られた衝撃に耐えきれず、冴木は床に崩れ落ちる。床に赤いものが散って、こめかみに鋭い痛みが走った。

 まさか谷村がここまでするとは思わなかった。いつも他人任せの小心者と見くびって、完全に油断していた自分を叱咤する。マズい。彼女だけは護らなくては。

 咄嗟にそう思って、腕の中の少女に目を向ける。


「遥、逃げろ……」


 急速に薄れていく意識を感じ、冴木は遥を逃がそうとする。けれど彼女は彼を置いて逃げるなど出来ず、その頭を抱きかかえた。


「馬鹿、早く行け……」

「冴木先生!センセ、しっかりして」


 視界に、再度椅子を振り上げる谷村の姿が入って、遥は悲鳴をあげる。それでも、冴木を離さない。冴木も遥を抱き締め返した。


 誰か。


「助けて……」


 誰か。


「桜っ……!!」



 ――!



 その瞬間は、何が起こったのか。

 開け放たれていた窓から、風とともに白い無数の花びらが吹き込んできた。

 突風と花に視界を奪われ、谷村は椅子を取り落とす。


「うわっ……!」

「大丈夫か!?」


 バタンと扉が開け放たれ、警備員が踏み込んできた。谷村を取り押さえる。


「さくら……」


 もはや谷村は呆然と、舞い散る花びらを見つめて呟いた。

 白に限りなく近いピンクの、薄いそれ。

 それは桜の花びらだった。6月に咲くはずもない、桜の花。

 どこから吹き込んできたのか……。

 まるで雪のように、静かに、皆の上に降り注ぐ。 遥もまた、冴木を抱き締めたまま、ひらひらと舞い降りる桜を見つめていた。

 何を思う間もなく、心が、震えて。涙が零れ落ち、頬を濡らす。


「桜ちゃん……」


 思い出すのは、二度と会えない、大好きな人。満開の桜の下のーー笑顔の姉。


 助けてくれたの?姉さん……。



 警備員が警察の人間へ谷村を引き渡し、遥はそれを無言で見送った。

 不意に腕にかかる重みが増す。冴木の身体から力が抜けたと気付いて、遥は慌てて彼の顔を覗き込んだ。


「冴木先生!大丈夫?しっかりして」


 思わず混乱に潤む瞳で、彼に呼びかけると、冴木はうっすらと伏せかけていた瞼を震わせる。


「もう駄目かも。最後にお願い聞いてくれる?」

「なんでも聞く!なんでもするから、死なないで!」


 冷静に見れば意識を失いかけている人間とは思えない流暢な喋り口だったが、ただの高校生である彼女にはわからないし、彼のこめかみの傷から流れる血はとても重傷に見えて。もう半分泣きながら答えた。


「——へえ……なんでも?」

「うん!何でも!——って、え?」


 何かがおかしい、と気付いた時には。目の前に随分と艶やかな視線で見つめてくる美形な男がいて。


「そう。何してもらおうかな。楽しみ」


 にやり、と。

 壮絶な色気を振りまいて微笑む、教師であるはずの彼と、

 瞳を潤ませて真っ赤な顔でパニックに陥っている異常に可愛らしい、生徒であるはずの彼女に。

 警備員は思わず赤らんだ顔を隠して「救急車呼んできます」と、そそくさとそこを退出する羽目になった……。

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