裏庭の真実
「どういうこと!?」
何日かたったある日のこと、いつものように桜へ花を手向けに行った先で、聞き覚えのある声がして遥は足を止めた。
裏庭ーーあの桜の木の下で、担任の谷村とクラスメイトの皆本麻里が口論をしていた。麻里は遥に初日から声を掛けてくれた、仲の良いグループの一人だ。
珍しい。麻里はどちらかというと大人っぽい感じの子で、短い付き合いとはいえ大声を出す姿など見たことが無い。
それ以前に……遠慮も礼儀もないこの距離は、ただの教師と生徒には見えない。
「先生、私と別れたいっていうの?」
うわ、これは痴話喧嘩、だよね……?
教師と付き合っている子って本当に居るんだ、と遥は取り留めもないことを思う。そして自分も当てはまることに気付いて、なんだか恥ずかしくなった。
そ、そうじゃなくて!
「今更別れるなんて冗談じゃないわ。父に口利きして貰った学校経営の話はどうする気!?」
麻里は谷村に食ってかかっている。穏便な話では無さそうだ。盗み聞きは悪いだろうと、遥は立ち去ろうとした。しかし谷村の声が聞こえる。
「それは……何とか謝るよ。だけどもう耐えられないんだ。あんな事までして」
“あんな事?”
遥はつい足を止めた。
「卒業したら私と結婚するって条件で、父はあなたに乗ったのよ。そのために彼女捨てたんでしょ。今更逃げられるとでも思ってる?」
泉学園は歴史の長い名門私立高校だ。今でこそ一般の外部生が多いが、政界財界はもちろん、旧家の子息令嬢もかなり居る。生徒が迷うほど複雑で広い校舎はすべて寄付金によるものだ。遥が聞き込みをしていた時には、普通の公立高校ではありえないような話もたくさん存在すると知った。だからいまさら生徒に婚約者が居てもおかしくはない。ーーそれが教師であっても、だ。
けれど、麻里は谷村との婚約は隠していた。彼氏も居ないと聞いた気がする。
別れ話、権力者の父、人に言えない関係。
どう聞いても、普通の高校生とその恋人の会話ではない。
「だからって……君はよくこんなところに来られるな。何とも思わないのか?」
そして、この場所。
「……あ」
『相手が、普通じゃなかったんだろ』
冴木の言葉を思い出す。
桜の恋人が教師だとしたら。いや、谷村だったとしたら。
確か麻里の父は大企業の社長だ。この学校の理事の一人でもある。
谷村は権力者の娘と付き合うため、桜を襲わせて捨てた?そして今は良心の呵責を感じているのか、他に理由があるのか、麻里とも別れようとしているのか。
……そうなのだろうか。出来過ぎな気もする。
けれど、この場所でこんな話を聞いてしまったことが、無関係とは思えない。
遥はこっそり二人に近付いてみる。幸い植え込みに隠れれば、こちらの姿は見えなさそうだった。
「なによ、水樹先輩のこと?もう死んじゃってるじゃない。いない人よ」
桜の、こと。遥の心臓が大きな音を立てた。
麻里は桜の根元を蹴った。嘲笑うように口を歪める。
「あなたが死なせたんじゃない。別れてくれないからって、あんなやつらに差し出して」
「君がそうしろって言ったんじゃないか!」
ーーっ……!
指先から、血が逆流していくような気がした。息を呑んだ瞬間、足がガクガクと震えだす。
植え込みの向こうで麻里がふふん、と鼻で笑った。
「仕方ないでしょ、目障りだったんだから。別れるなら“あのこと”までバラすなんて言うんだもの。ただちょっと脅かしてやろうとしただけよ」
“あのこと”って何。遥は眉を上げる。視線の先で苛立たしげに言われた彼女の言葉に、谷村が苦痛に満ちた声を絞り出した。
「だけど彼女は死んでしまったじゃないかーー」
いま、なんて。
先程まで考えていた説が、はっきり他人の口から語られたことで遥は愕然とする。
「……っ!」
考えるより先に、彼らの前に飛び出しかけた遥の肩を、素早く押さえる手があった。
ーー冴木だ。シッと人差し指を立てて静かに、と合図してくる。
「……っ!」
どうして!?
その間に二人は、遥達に気付くこと無く校舎の方へと行ってしまった。
「ーーっ!!」
「待て」
冴木の手を振り払って、遥は二人を追おうとする。冴木は遥を羽交い締めにしてそれを止めた。
「は……なして……放して……っ!あいつら、桜を死なせたって……!」
許せないーー!
我を失って暴れる遥を強く抱き締めて、冴木が言う。
「今は駄目だ。証拠もないし、言い逃れされるか、揉み消されるのがオチだよ。遥……」
その声に悔しさが滲んでいたが、遥の耳には届かない。ただ、どうして、と繰り返す。こんなのってない。桜だけがどうしてこんな目に遭わなきゃならない。
「は、なし、てぇ……っ!」
「ごめん、遥」
ボロボロと涙をこぼしながら荒々しく息をつく彼女が次第に落ち着くまで、彼はずっと遥を抱き締めていた。
しばらくそうしていて、次第に遥の力がゆるみ。彼女は静かになった。ポツリと呟く。
「……ごめんなさい……。もう、大丈夫……」
その表情を見て、やっと冴木は腕を離した。ふと顔をしかめて押さえたその手に、痛々しく自分の爪痕が残っているのを見て、遥は俯く。
「ごめんなさい……」
「ん。こっちだったら大歓迎だけど、ね」
冴木は自分の背中を差し示す。
唐突な言葉に一瞬きょとんとしてから、その意味に気付いて、遥は頬を赤らめて息を吞んだ。あの教室で、初めての時、あまりの痛みにそうしたのを思い出したから。
「せんせ……っ!」
「これくらい、大したことないよ。……お前って見かけによらず激しいよな」
「ちょっ……ちょっと待って!何の話……!」
だからって、今言わなくても。すっかり遥の手から力が抜ける。あるいは彼がそれを狙っていたのか。その頭にポンと手を乗せ、冴木は微笑んだ。
「冗談だよ。それよりも、危ないことはするなって言っただろ」
「ごめんなさい……」
小さく謝る遥の頭を抱いて、冴木は安心させるように言った。
「大丈夫だから、んな顔すんな」
ポンポンと優しく頭を叩く手に、彼女をただ心配するその視線に、遥は不思議なほど心地よさを感じる。
「冴木先生……」
さっきとは違う、胸の痛み。ぎゅーっとして、けれど嫌じゃない。
ああ、私やっぱり、この人が好き。
他の誰にも感じなかった、切ないほどの温かさと優しさを与えられて。
だから余計、桜が好きだった相手に裏切られた事実が重くのしかかる。
どうして、姉だけが望むものを得られなかったのか。私にはこんなにも優しい手があるのに。涙が止まらない。冴木はそんな遥を抱きしめた。
「やつらに、必ず償わせてやる」