ep.2-4 プロローグ
梅雨が明けて、6月後半ともなれば。
「今日から水泳の授業始まるね」
のんびりと次の授業の用意をしていた遥は、友人二人を振り返った。外の日差しはもう結構な強さで、気温も高い。水泳にはまだ早い陽気ではあるが、泉学園のプールは屋内だから快適だ。
しかし二人は心配そうに顔を見合わせて。
「……遥、大丈夫なの?冴木先生。血を見ることにならない?」
「そうだよね。なにせ水着姿の遥を飢えた男子共に晒すことに……」
ユミと芽依の言葉に、遥は顔をひきつらせた。
「だ、大丈夫よ。冴木先生も一応教師なんだから。去年だって平気な顔してたし」
ただし去年はまだ二人の関係が秘密だったから、まだ大人しかっただけなのかもしれないが。まさか、そんな。
「授業だもの」
「授業だからな」
同じ頃、保健室では玲一が訪問者に向かって言った。
「へぇ~我慢強いねぇ、冴木先生」
彼の向かいでニヤニヤと言うのは、水瀬医師。生徒の健康診断の手伝いにかり出されたのだ。それも終わった今は、保健室に寄って友人とコーヒーを飲んでいると言うわけだ。
「遥ちゃんの水着姿かースク水?なんかエロくない?」
「人の彼女で妙な妄想をする頭は、俺がかち割ってやろうか」
玲一がにっこりと笑って、ゆらりと立ち上がった。水瀬はさっと身構えて、逃亡体制を取る。さすがに長年の付き合いだ。だから余裕そうに見えて玲一の機嫌が悪いことなどすぐにわかる。
「ねぇ冴木、本音は?」
「……今すぐプールを爆破したい……!」
冷静沈着な美貌の養護教諭も、実際のところダメな大人の一人だった。
*
泉学園の室内プール。
今は天井が大きく開け放たれて、清々しい程の青空が覗いている。その入り口にて。
体育の担当教官、橋口みずえ――(32歳既婚子供あり)は腕組みをして立っていた。水泳は男女合同での授業だ。男性教官はすでにプールサイドでスタンバイしていた。
「……だからあ、なんであんたらが監視員する必要があるのよ?」
彼女の目の前にはやたら顔の整った養護教諭と、類は友を呼ぶと言わんばかりにこれまたイケメンの青年医師。この二人がプールサイドに入れてくれと頼みに来たのだ。
「邪な空気がプンプンするっての!帰りなさい!」
ひらひらと手を振って追い返そうとすれば、水瀬がニヤニヤ笑う。
「冴木先生が邪な目で見るのは一人だけだから、問題ありませんよ」
「……余計問題だよね」
「水瀬、黙ってろ。ほら戻るぞ」
どうやら玲一は無理矢理連れてこられたらしい。こめかみを押さえて、低く呻く。
「えぇーだって冴木だって遥ちゃんを邪な目で見る、盛りのついたガキ共のチェックしたいでしょ?」
「水瀬……頼むからその口を閉じろ」
橋口はなんだか玲一が気の毒になる。
「冴木先生、友達は選んだほうがいいわよ」
「私もそう思います」
「えぇ~っ」
水瀬がなおも食い下がろうとしたとき。プールサイドがにわかに騒がしくなった。
「先生――来てください!!」
三人は顔を見合わせて、走り出した。
*
今年初めての水泳の授業はほぼ自由時間になっていた。教師側のご褒美的な配慮かもしれない。三クラスの男女合同だけあって、人数はかなり多い。
ユミと芽依、遥がプールに入ろうと足を水に浸けた時、ふいに他クラスの女子の悲鳴が聞こえた。だれかが溺れた、という声。
「先生!」
生徒の一人がとっさにプールサイドに居た教官を呼べば、男性教官はプールに飛び込んで女生徒を救出する。水の中から、
「橋口先生呼んで!」
と叫んで、それを受けてひとりの男子生徒が走っていった。
「やだ、大丈夫かな」
ユミが不安そうに言う。
「どうしたの!?」
声と共に、橋口と、玲一、水瀬医師が走ってきた。遥はその姿を見て思う。
(どうして玲一が)
こんなに直ぐに来られるということは近くに居たのだろうか。保健室とプールは結構離れているというのに。それにーー水瀬医師まで。
けれど遥のそんな疑問など一瞬で消えた。それどころではない。
プールサイドに女生徒を引き上げ、玲一が呼吸を見る。水瀬が脈を図った。医者二人がいることで、橋口も男性教官も任せる気になったようだ。
「彼女、持病ある?」
水瀬が玲一に問い、彼が首を振る。
「マズいな、心肺停止。先生、救急車呼んで下さい」
玲一が切羽詰まった声で言い、水瀬が心臓マッサージを始めた。
「気道確保して」
ただごとではない様子に、その場にいた全員に緊張が走った。玲一が女生徒の口を開けて上向かせた、瞬間。
顔を上げた水瀬と、遥の目が合った。
――っ。
「冴木、代わって」
水瀬が言った。
「は!?」
突然の水瀬の言葉に、玲一は怪訝な顔をしながらもすぐに代わって心臓マッサージをする。水瀬が女生徒の鼻を押さえ、口へ息を吹き込んで、を繰り返した。やがて女生徒の口からゴホッと苦しそうな咳と大量の水が吐き出されて。
息を吹き返したことに、気付いて生徒達が安堵にどよめいた。玲一も水瀬も息をつく。
それを見届けてからもう一度、水瀬は遥を見た。
「……!」
その視線に込められた意味。一気に血の気が引く。
(私……)
遥はその視線から逃れるように、後ろへ下がった。よろめくようにひっそりと、更衣室へと向かう。
あの瞬間。何をするかを悟って、無意識に息を呑んだ。
同級生の命がかかっていた瞬間だったのに。玲一は純粋に、医師として、教師として、目の前の命を救おうと手を尽くしていたのに。
“イヤだ”と。
人工呼吸、なのに。
キスをしては嫌だと。
……そう、思ってしまった。
最初は自分でもわからなかった。ただ茫然となりゆきを見守っていて。ただ見ていただけで。
それに気がついたのは、水瀬が二度目に遥を見た時だった。
遥自身が気付かなかった醜い感情に、水瀬が気付いて。水瀬の目を見て、鏡のようにそこに暴かれた自分の衝動に気付いてしまった。
「私……最低だ……」
遥はズルズルと更衣室の床に座り込む。
涙が溢れて、遥の頬を伝って落ちた。




