勝利の女神
ゲームが終わって、玲一が汗をぬぐいながらコートからでてくる。遥の前まで来て、ニヤリと微笑んだ。
「惚れ直した?」
「……直したっ」
遥が真っ赤になって答える。なんだか悔しい。けれどその言葉に彼が更に笑みを深めた事に気付いて、思わず見惚れてしまう。
「じゃあ勝利の女神からのキスくれる?」
低く艶のある声に耳元で囁かれて。思わず頷きかけて、大勢の生徒(+教師)が自分達を見ているのに気付く。う、危ない!
「……ここではダメ」
小さな声で答えれば、玲一が遥を抱き上げた。うおおお、と盛り上がるギャラリー。
「じゃあ高嶋を保健室に連れて行きますね」
にっこり有無を言わさず周りに言い放って、玲一は遥を抱えたまま悠然と歩き出した。ユミと芽依は顔を見合わせる。
「あれ、いちゃつきに行ったよね」
「間違いなくね」
どちらともなく、クスリ、と笑っていた。
いいとこ全部、冴木先生に持ってかれちゃった。けれどきっと、遥は喜んでるんだろうな、と思えば。ユミもなんだか嬉しくなって、自然に顔が綻んでいた。
「さ、冴木先生?あの、もう少し目立たないようにできませんか」
保健室へ向かいながら、遥がおずおずと言えば、玲一が楽しそうに言った。
「あの場でキスしないだけ、我慢したんだけどな」
そ、そうなの?思わず言いくるめられそうになって違う、と頭を振った。
「もう、理事長先生に大人しくしてろって言われたばかりじゃない」
玲一に抱きかかえられたまま、遥は口を尖らせる。
「皆、余興程度にしか思ってないだろ。実際半分も意味分からずに盛り上がってたみたいだし」
拓海がいたこともあって、ちょっとしたエキシビジョンくらいに見られていたかもしれない。もともとここの学園はお祭り好きだ。理事長がああなのだから当然と言えば当然かもしれない。
「でも俺はどうしても譲れなかったからな」
ふ、と静かに微笑む彼。その顔を眺めながら、遥はだんだんと穏やかになる気持ちを自覚して。微かな甘さに胸がきゅうっと痛んだ。
保健室に着いて、玲一が扉を開けた。まだ球技大会は続いているようで、他に生徒もいない。
「……たまに玲一は凄くオトナ気ない」
遥がポツリと言えば、返される問い。
「嫌?」
「……嬉しい」
嬉しいに決まってる。だから困るんだ。
「お前だけ頑張らせるわけにいかないだろ」
玲一が笑った。彼女をベッドに降ろし、腫れ上がった足首にもう一度湿布を貼り直して、包帯を巻く。すぐに処置した足は、痛々しいものの先程よりはひどくなさそうだ。
「痛い?」
「ん、少しだけ」
「念の為、後で水瀬んとこ行こうな」
「病院?大げさじゃない?」
大分楽になってきた足首をさすって、遥は答えた。その足を玲一の手が包み込んで。爪先に軽くキスが落とされる。姫君に傅く騎士のように。
「!」
遥はびっくりして、硬直した。
「全然、大げさじゃない。心配させやがって」
その唇が、ふくらはぎに登って。遥はビクリと身体を震わせる。
「れい、いち?」
膝にキスをされて、まだその唇は登り続ける。
「あ……っ」
遥はぎゅ、と目を瞑った。体操服のハーフパンツの裾まで来て、玲一の指先が潜り込み、腿まで捲りあげる。そこまで唇で辿って。更に指先は彼女の脚を撫で上げてゆく。
「……っ」
遥は必死で口元を押さえた。恥ずかしさと、もっと別の感情とで叫び出しそうだ。止めなきゃと思うのに、口を開けない。
「……ここまでは、心配させたお仕置き」
彼がふ、と笑った。その表情から目が離せない。
「ここからは、ご褒美」
遥の唇に、玲一のキスが落とされて彼女の首筋を滑っていく。その手が遥の髪を結わえていたゴムを外した。ベッドの上に遥の長い髪が広がって、彼女の視界には、天井と、愛しい恋人。
「……冴木先生」
やっと口にした呼び方で、ここがどこかを思い出して貰おうとしたけれど。
「いらないの?」
確信犯の微笑み。
(ずるい)
シャツの中に入り込んだ手が、遥の抵抗をあっさり崩す。
「っ、……いる」
小さな声で、降参を伝えれば。
「俺にもくれる?」
……やっぱり?
遥は赤くなった頬を押さえて、目を閉じて。長いキスを返した。伸ばした手は、彼の指に絡め取られて、同じ熱を分け合う。
ただ、向けられる愛おしさに。遥の閉じた瞳から涙が零れ落ちた。
*
熱のこもったカーテンの中、遥のこめかみを汗が滑り落ちる。
「い、た……」
足首に一瞬痛みが走って、彼女は思わず呟いた。
「ごめん、激しくしすぎた?」
玲一が遥の上から身を起こして、足首を撫でる。
「加減したつもりなんだけど……怪我人相手に調子に乗ったな。そろそろ病院行くか」
散々熱を与えられて潤んだ瞳で、遥が玲一を見上げる。
「やだ……やめないで」
もっと、抱きしめて欲しい。そんな風に思ってしまうのは、ワガママ?
「珍し……」
玲一が目を見開いて。嬉しそうに緩む口元を片手で隠す。
「……本当にお前は、たまにドカンと小悪魔発言するよな」
「……え?」
「天然?タチ悪……」
言葉の割に、ひどく楽しそうにキスをされて。
ふと耳をすませば、遠くでホイッスルが鳴った。球技大会が終わったようだ。
「時間切れ……と言いたいとこだけど。あんな可愛く誘われちゃあねぇ」
……え?
玲一の言葉に嫌な予感がして、ぼんやりと彼を見上げれば、ふっ、と妖しい笑みを返された。耳元に囁く低い声。
「……ねぇ、もう一回、今度は思いっきり鳴いてみる?」
それって。
「し……っ、仕事して下さいっ!」
遥は慌てて身を起こす。玲一なら本気で他の生徒に聞かせかねない。教師のくせに!
「残念。今度こそ悪い虫を一斉駆除できるかと思ったのに」
冗談か本気かわからない……!!
遥は真っ赤になって、真っ青になって――溜め息をついた。
*
「骨には異常無し。痛み止め処方するから、しばらくは大人しくね」
水瀬医師がにこりと笑う。外来の受付時間が終わったと言うのに、彼は快く遥を診てくれた。
「大人しく、だよ。くれぐれも激しい運動は禁止。わかった?冴木」
玲一に向かって言う。
「あ、あの、どうして玲一に言うんですか?」
遥が聞けば。
「え?だって無理させてんの冴木でしょ。主にベッドで、痛!」
水瀬の言葉を遮って玲一が彼を叩く。遥は真っ赤になりながら、けれど否定もできずに俯いた。
「ほらね」
彼女の反応に、水瀬が勝ち誇ったように胸を張り、
「痛い!」
また玲一に叩かれた。
玲一の車で家まで送って貰えば、遥の母はまだ仕事から帰宅していなかった。彼は遥をリビングまで抱きかかえて、ソファにそっと降ろしてくれる。
「明日の朝は迎えに来るから」
「え、そんなの悪いよ。明日出勤日じゃないよね」
遥が慌てて辞退しようとしたが、玲一は首を振る。
「俺がそうしたいの。それに明日は狐の飼育日だから」
……いまだに理事長を狐扱い……。
遥の様子に、玲一は少し考えて言った。
「じゃあ明日一緒に行けるように、うちに泊まりにくる?」
「それは、余計に悪化するのでは……」
「おや、心外だな遥。俺が“激しい運動”をさせるとでも?」
「……っ!」
わざわざ強調して言われた言葉。完全にからかわれてると気付くが、もう顔は真っ赤だ。遥は唸るように玲一を睨む。
「玲一の意地悪……っ」
「さっきはあんなに素直で可愛かったのにねぇ?」
ううう。
ついに恥ずかしさに涙目になれば、玲一はクスリと笑った。
「ごめん。名誉の負傷だよな。俺を想って負ってくれたんだから、俺にも少しは甘えてよ。そうじゃなきゃ、恋人の立場がないだろ?」
そう優しく囁く玲一に、遥は今度は素直に頷いた。玲一なりに責任を感じているのだと気づいたから。
「ありがとう……」
遥は玲一へ、そっと微笑みを返した。
*
「総合優勝はうちのクラス!三年A組でーす!」
次の日に残りの試合が行われ、最後に結果が発表された。
「ってなわけで今日は、景品の食券使って、お茶してこう!」
泉学園には学食にカフェテリアもあって、ケーキセットは女子生徒に大人気だ。ユミがニコニコと遥と芽依を誘って、三人はカフェにやってきた。
「私来るの初めて」
遥がキョロキョロと珍しそうに見回す。彼女はいつもお弁当を持参してくるし、カフェの時間も利用した事がなかった。
「いつも混んでるもんね~けど優勝クラスは優先的に席をとってくれるんだよ」
ユミはすでにどのケーキにするかで頭がいっぱいだ。
「お嬢様方、宜しければ私めがご馳走致しますが」
後ろから笑いを含んだ艶やかな声。見れば白衣の玲一がヒラヒラと食券の束を振っていた。
「わあい!冴木先生太っ腹ですね~」
「日頃私の彼女がお世話になっておりますから」
手放しで喜ぶ友人達に気取って言う玲一に、遥が突っ込む。
「使わないんでしょ、それ」
実はあの大騒ぎで、玲一と拓海は“特別賞”を貰っていた。お祭り好きの理事長らしく、行事を盛り上げたご褒美というわけで。特別賞は優勝賞品と同じく学食の食券10枚、けれど玲一が学食に来ることはあまりない。(女子に囲まれて食事どころではなくなるので)
「使い道がないから、奢ってくれようというわけですね。ありがたくゴチになりますけど」
芽依が苦笑した。
「てっきり叱られると思ったのに」
あの騒ぎを思い出して遥が言う。
「面白きゃなんでもいいんだよ。あの狐は」
玲一が平気であんな騒ぎを起こしたのは理事長の性格を熟知していたからか。
その時、遥は彼女達の後ろにいた一人の女子に気がついた。
「あ、吉野さん」
通りかかったのは、あの遥に絡んだ女子生徒だった。ユミは遥が彼女に声をかけたことにぎょっとした。名前も知らなかったが、C組の嫌な女、としか思っていない。彼女はこちらを見て気まずそうにするが、しかし玲一がいるからか、特には何も言ってこない。
「一緒に、どう?」
遥が聞けば、彼女は目を見開いた。――ユミと芽衣もだ。
「ちょっと、遥……」
ユミの困惑した声と。
「何よ、それっ……」
吉野という生徒の苛立った声。
「あんた馬鹿にしてるの!?」
玲一の前だというのも忘れて彼女が言う。けれど、その棘は刺さらずに。
「いいえ」
遥がふわりと微笑んだ。
それだけで彼女は口をつぐんで……やがて苦笑した。
「あんたって、変」
「遥らしいね」
芽依がクスリと笑った。その顔はしょうがないな、といった感じで。
「ね。私カフェ来るの初めてなの。オススメ教えて」
「やっぱ季節のタルトでしょ」
「はあ?初めてなら王道ショートケーキでしょーが!」
遥の言葉に、芽依と吉野がメニューを覗き込む。
その様子にユミは呆然。
(やっぱ、遥は凄い……)
微笑み一つで、言葉一つで。ーー相手の敵意を無くしてしまう。
何もかも受け入れてくれるような、そのーー優しさで。
遥がユミの視線に気づいて、頷いた。彼女が心配してくれていたことも、ちゃんと伝わっていたから。ありがと、とつぶやいた遥の口元に、ユミは胸が熱くなる。
ふと横を見れば、黙って成り行きを見守っていた玲一が、遥を見つめて優しく笑うのに気付いて。きゅううん、と音を立てた胸がなんだか楽しくて、弾けるように笑った。
「遥――やっぱ大好きだああ―っ!!」
「槙原、だからそれは俺のセリフだよね?」
ep2-3.fin




